イルカがアサギに初めて出会い、彼の下につくように火影に言われてから約八ヶ月。
訓練と、たまに入る任務にもようやく慣れて来たイルカは、下忍としてはまずまずの充実した日々を送っていた。
「イルカ」
任務受付所に報告書を届ける途中のイルカは穏やかな声に振り向く。
「火影様! お久しゅうございます」
イルカはぺこりと頭を下げて挨拶した。
「……ふむ、また背が伸びたかな? 今が育ち盛りだからなあ、お前は。幾つになった?」
「はい、先週十四歳になりました」
「そうか、そうか」
火影は、顔の皺を深くして微笑む。
「アサギとはうまくやっておるのかな? スリーマンセルの時とはだいぶ違うだろう」
イルカは素直に頷く。
「はい。…最近は、任務にも同行する事が多いですが、何だかやっと自分が忍になったのだと実感したって感じです。…アサギさんは、訓練は厳しいけど、よくしてくれます。色々な事、教えてくれます」
「ふむ……思いきってアサギに預けて良かったようだの。イルカ……お前は今が一番色々吸収できる年頃だ。欲張って、何でも覚えるがいい。…悪い事以外はな」
最後の部分をおどけた調子で囁く火影に、イルカは微笑んだ。
「はい! 火影様」
では失礼致します、とイルカは火影に一礼して報告書を抱え直し、走って行った。
そのまだ幼い背中を見送り、火影は息を吐く。
「………素直で、健康的なチャクラは変わってはおらんな。…さて、どう成長するのか楽しみな子じゃ……」
「イルカ」
受付所の前でまた呼び止められ、イルカは振り返る。
「イナミ隊長」
「ははは、隊長はよせ。俺が隊長だったのはあの作戦の時だけだろう」
「イナミ…さん、でいいんでしょうか?」
イナミはにっと笑った。
「アサギのことはそう呼んでいるんだろ? ならそれでいいさ。…で、そのアサギはどこにいるか知らんか?」
「アサギさんなら、上忍の方に呼ばれて……たぶん、西棟の会議室だと思います」
イナミは眉を少し寄せ、西棟の方向を見た。
「上忍に? 誰だ」
イルカは首を振る。
「俺もよく知りません……ええと、呼びに来たのは中忍の方です。ムラトさん」
イナミはますます眉間に皺を寄せた。
「ムラト……では、呼び出した上忍は如月さんか……ああ、呼び止めて悪かったな。使いの途中だろ? 行っていいよ。ああそうだ、アサギに伝えておいてくれ。今夜つきあえって」
「はい」
イルカはちょこんと頭を下げて、受付所のある棟に入って行った。
イナミはごそごそとズボンのポケットから煙草を取り出し、咥える。
そしてイルカ少年の入って行った棟から、アサギがいるはずの西棟の方角へ視線を移す。
「……如月上忍…といえば…次の作戦の総指揮をとるはずの……アサギを使う気か…」
アサギの脚の速さは結構有名だ。彼を作戦に使いたがる指揮官は多い。
それもあって、アサギは決まった部隊に籍を置かず、フリーで任務をこなしている。
弟分のイルカも結構走れるので、最近は二人一緒によく任務についているようだ。
イナミは煙草に火をつけ、空に立ち昇る紫煙を見るとはなしに目で追った。
韋駄天、と呼ばれる度に傷ついた眼をする年下の友人。
脚の速さは彼の誇りであると同時に、一種のトラウマに繋がっているらしい。
スリーマンセルの仲間全員で中忍になれると思い込んでいたのに、アサギだけが落とされた時。
落とされたアサギは当然傷ついただろうが、受かってしまったイナミも中忍になれた事を素直に喜べなかった。
唇を噛むアサギに、担当上忍が冷たく言い放った言葉は、イナミも聞いていた。
『脚だけ速くたって、忍者にはなれんよ』
「……ムカつく野郎だったぜ……」
相手が上忍でなければ、アサギを故意に傷つけていたあの男をイナミは殴っていただろう。
それから二年近く経って、アサギが自分と同じ草色の胴衣を着ているのを見た時、イナミはずっとしこりとなっていた心のつかえが取れた思いだった。
これで傷ついていたアサギの心も癒えただろうと思うと我が事のように嬉しかったし、何より中忍試験以来ろくに話すことも出来なかった彼とまた以前のようにつきあえるだろう事が彼には嬉しかった。
実際、イナミを避けていたアサギはやっとこちらを見て微笑ってくれたのだ。
今のアサギしか知らない周りの人間達は、彼を陽気で屈託の無い男だと思っているが、イナミは昔の彼を知っている。
自慢にしてもいい脚の速ささえ、自信に繋げる事が出来ずに小さくなってしまうような、そんな少年だったのだ。
「………人間、そー簡単には変われねえってか? …まあだ引き摺ってたとはなあ……」
そして、イナミは今走って行ったイルカと言う少年の顔を思い出した。
少し、昔のアサギに似ている。
傷を抱えながら、一生懸命に走っていたアサギに。
どんなに辛くても、走るしかなかったアサギに。
だからなのか、アサギは昔自分が欲しかったものを、今あの少年に懸命に与えている。
「…お人好し……」
イナミは苦笑を浮かべて、煙草を噛み潰した。
「……おい…」
イナミは自分の家の台所でパタパタと働いているイルカを暖簾越しに横目で眺め、引き攣った笑いを浮かべていた。
「大丈夫だよ。随分仕込んだもん、俺。あいつ、料理の腕上がったんだぜ。任せておいてヘーキさ」
アサギは涼しい顔でビールに口をつけている。
イナミは小さな声で唸る。
「何でアレまで連れてくる?」
「いけなかったか?」
アサギは小さく舌を出して見せる。
「お前んちで飲むとさー、危ないじゃん。お前酔うと見境ないし? まさか子供がいるのに変な真似できねーだろ」
「あん時のこと、まだ根に持ってやがんのかぁ? 一年も前の事じゃねーか」
イナミが伺うように低く問うと、アサギはぎろ、と睨みつけた。
「ったりめーだろうがよ。酔った挙句襲ってきやがって」
「人聞きの悪い。…ちょっとキスしただけじゃねーか……冗談通じねえ奴だなあ」
アサギはプイと視線を外す。
「あれがちょっとか?? 冗談じゃねーぞ舌入れてきやがったクセに」
「だって、お前が色っぽい眼で誘うから……」
「誰がいつ誘ったんだクソボケ―――ッ!!!」
台所にいるイルカの耳に届かぬよう、小さな声で話していたアサギも、思わず大声で怒鳴ってしまった。
「どうかしましたか?」
お盆を手にしたイルカが、暖簾の間から不思議そうにアサギとイナミに問いかける。
「何でもナイよ、イルカ君。おー、美味そうだなあ、焼きうどんか」
にこにことイナミは皿を受け取る。
「料理もアサギに教わってるんだって?」
イルカは嬉しそうに頷く。
「はい! 俺何も出来なかったんですけど、アサギさんが色々と教えてくれて」
アサギが防波堤代わりに連れて来たイルカは、無邪気に微笑む。
「うん、イルカは覚えが早いよ。教え甲斐がある」
「だって俺、早くアサギさんの役に立ちたくて」
へえ、とイナミはからかうような笑みを浮かべた。
「可愛い部下で良かったなあ、アサギ」
「羨ましいか」
イルカは恥ずかしそうに赤くなって、またパタパタと台所に戻っていった。
「……ホントに、可愛いな」
「…可愛いよ」
アサギはビールをあおって横目でイナミを見た。
「だから、何? お前の話し方はいつも何か含みがあって嫌だよ」
「お前が勘繰り過ぎなんだっつの。…ま、大抵当たってるけどさ」
「……あのな…」
イナミは大皿に盛られた焼きうどんを小皿に取り分けながら、台所に向かって声を掛ける。
「イルカぁ、そっちはいいからこっちで一緒に食えよ。せっかく作ったモンが冷めるぞ」
「はあい。今行きます。もう一品作ってるんで…」
「手伝ってやろっか?」
腰を上げかけたアサギを、イルカの声が押し止める。
「ありがとうございます。でも、もう出来ます。今持っていきますから」
イルカが作ってきたのは、銀杏や茸を使った餡かけ豆腐だった。
「すげえ。手間掛かっただろ」
素直にイナミが感心すると、イルカは照れて一文字に走る顔の傷痕を指先でかいた。
「これ、アサギさんが好きだし…イナミさんにも食べて欲しかったから…」
「嬉しいね。俺も好きだぜ、こういう料理。そーだ、アサギ。イルカにもそろそろビールくらい飲ませてもいいよな?」
アサギは一瞬眉間に皺を寄せたが、気乗りのしない顔ながら頷いた。
任務の時に、『過保護』だとイナミに言われたのを思い出したらしい。
「うん…まあ、アルコールもある程度慣れだからなあ…少しずつ、酒も覚えといた方がいいか……もう十四だし…」
「あー? 十四ぃ? じゃあ早くねえよ。飲め飲め、イルカ」
イルカはイナミにコップを持たされ、その中にビールが注がれるのを茫然と見ていた。
おろおろと伺うようにアサギを見ると、アサギは苦笑して頷く。
「まあ、一口飲んでみろ」
イルカはそっと白い泡と薄茶の液体に口をつける。
ちびりと一口飲み込み、イルカは顔を顰めた。
「にがぁ……」
「あはは、熱燗じゃねえんだから、そんな飲み方じゃダメだよ。ぐっと一息にいけ!」
イナミに言われたイルカは、アサギが止める間もなく素直にコップの中身を一気に飲んでしまった。
「ぷあっ」
「おお、いい飲みッぷりだぜ」
アサギはイナミの頭を叩いてから、心配そうにイルカの顔を覗き込む。
「おい。大丈夫か? イルカ。空きっ腹にいきなり慣れない酒なんか飲んで…」
「ビールなんか酒じゃねえって…」
「黙れ、呑んべ。……イルカ、大丈夫か」
イルカは見る間に赤くなっていった顔でこっくりと頷いた。
「だいじょーぶです……なんか、腹の中がカッカする感じですけど〜…」
イナミは空になったイルカのコップにまたビールを注ぐ。
「まあ、酔ったらここに泊まればいいさ。さあて、冷めないうちに食おうぜ。焼きうどんも餡かけ豆腐も熱いうちが美味いからなー」
まさかコップ一杯のビールで急性アルコール中毒にもなるまいと、アサギは横目でイルカの様子に注意しながらうどんに箸をつける。
イナミに言われるまでもなく、料理は熱いうちが美味いのだ。
イルカは、座布団を枕にすやすやと寝息を立てていた。
「…お前、何も盛ってない…?」
アサギはイルカの赤い頬をぷにぷにと指で突付きつつ、イナミをじろりと見る。
「ン? この子のコップにか? さあねえ…」
イナミはぽりぽりと漬物をかじりながら明後日の方を見ている。
「…ったくもー、何考えてんだよ。…毛布、借りるぞ」
「それより、ベッドの方がいいだろ」
イナミは素早くイルカを抱き上げ、奥の部屋に連れて行った。
イルカを寝かせて戻ると、襖を閉める。
「さあて、オトナの時間だな。呑み直そうぜ」
「……フン……せっかく連れて来た防波堤を酔い潰しやがって…」
「そう警戒すんなって。何もしねーよ。……話が、あるだけだ」
イナミの真面目な声色に、アサギは目を上げた。
その声と同じくらい真面目なイナミの眼と視線がぶつかり、アサギは訝しげに眉を顰める。
「…何だ…?」
イナミはビールをアサギのコップに注ぎ足し、自分のコップにも注いで中身を飲み干した。
「如月上忍の作戦、参加するのか」
アサギは驚いた表情を隠さず、いきなり前置きも無しに訊いて来たイナミを見つめた。
「何故…知ってる……」
イナミは唇を歪めた。
「やはり、そうか……お前がムラトに呼ばれたと聞いたんでな……今度の如月さんの作戦は無茶な部分が多いと聞いている。…受けたのか」
アサギもコップの中身を一気にあおる。
「中忍に、任務の選択権も拒否権もねえよ……」
どんなに、危険な任務でも。
「……ましてや下忍にはな」
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