蒼穹の欠片−8

 

また、最初に戻ったような訓練が続いた。
イルカはアサギが仕掛けた罠のある森を朝から晩まで走らされる。
加えて、体術の訓練も厳しかった。
イルカは全身青痣だらけになりながら、アサギの教える技を懸命に身体に叩き込む。
そして、頭で考えるより早く自然に印が結べるまで、五行印の基礎を繰り返してチャクラを練りこむ訓練が毎日続いた。
流石に、最初のように吐きもしなければ倒れもしなかったが、その厳しさにイルカは音を上げる寸前であった。
だが、アサギと一緒に任務につきたい一心で、イルカは耐えた。
アサギに『弱い奴』だと思われたくなかった。
見捨てられたくなかった。
頑張って、また「よくやった」と褒めてもらいたい。
他の誰にでもなく。
アサギに認めてもらいたかった。

そして、いつものように訓練を終えたある日。
荒い息を整えているイルカの頭に、ぽんと手が置かれた。
「…よく、頑張ったな」
唐突に降って来た言葉に、イルカはドロドロの顔でキョトンとアサギを見上げる。
アサギは優しい笑みをイルカに向け、淡い蒼の瞳を揺らした。
「もう、俺に教えられる事は無いよ。…ホントに、よく頑張った」
イルカはぶんぶんと首を振った。
「そんな事! 俺、まだ全然アサギさんに敵いませんもん! 追いついてませんもん!」
アサギは笑って、「ばっか」とイルカの頭を軽く叩いた。
「そりゃ当然。お前はまだ下忍で、俺は中忍。…お前に負けたら俺の立場ないじゃん」
そうじゃなくてさ、とアサギは笑った。
「俺がお前に今教えてやれる事はここまでって事さ。…後は、お前次第かな」
「そ…」
そんな、とイルカは口の中で呟いた。
そして泣きそうな顔でアサギを見る。
「俺、アサギさんの部下ですよね…? い、一緒にいて…いいんですよね…?」
アサギは一瞬目を見開いた。
「あー…何言ってんの? お前…当たり前じゃねーか」
イルカはかぁ、と頬を染めた。
「ア…そう…ですよね…やだな。俺、なんだか今、アサギさんにさよなら言われたような気がしちゃって…あは、バカみたい俺…」
その時アサギが浮かべた複雑な表情は、照れて俯いていたイルカの眼には入らなかった。
目にしていたら、アサギの様子がいつもとは違う事に気づいたかもしれない。
だがイルカがその僅かな異変のサインに気づく事は無かった。
イルカが目を上げた時、アサギはいつもの快活な顔で微笑んでいたから。
「…そうだ、イルカさあ、今日俺んち来いよ。例の定食屋のおばちゃんがさ、お前と食えって、いい鶏肉お裾分けしてくれたんだ。水炊きでもしねえ?」
イルカに否やなどあるわけがない。
嬉しそうにこっくりと頷いた。
「はい! ご馳走になります!!」


イルカにとって、その晩の食事も、何一つ普段と変わる所など無かった。
もう何度も一緒に過ごしたアサギの部屋。
自分の家のように慣れてしまった台所。
一人ずつ入るとガスの無駄だから、と一緒に風呂に入るのも、何も今日が初めての事ではない。
独身者用の宿舎の風呂場は少し狭かったが、イルカがまだ成人していないのでそれほど窮屈ではなかった。
「イルカ」
イルカがせっせと髪を洗っていると、のんびりと湯船に浸かっているアサギが声を掛けてきた。
「はい?」
「…お前も、来年…くらいには受けるよな。…中忍試験」
イルカはびっくりしたように顔を上げた。
そんな事、まだ全然考えていなかったのだ。ばしゃ、と湯をかぶって泡を流し、イルカは首を振った。
「……いえ…わかりません…」
アサギは目を細めて口角をほんの少し上げた。
「暢気だなあ、お前は。……試験はスリーマンセルで受けるのが基本だろ? 俺はさ、お前が俺のところにいてくれるのは嬉しいけど、お前と試験を受けるわけにはいかねえだろうが。……アカデミーの先生とか、火影様と相談して、試験準備するのも考えなきゃな」
イルカはパチパチと瞬きした。アサギの言う通りだと思う。
だが、まだこのままアサギといたかった。
「そう…ですね…そのうちに……」
ぽそりと返事を返すイルカに、アサギは苦笑した。
「なあ、イルカ……」
「…はい」
アサギはぱしゃ、と掌で湯をすくい、粗末な電球の明かりに反射させた。
「俺、何度も試験受けたって言ったろう…?」
「はい」
「………俺は、仲間全員と試験に受かる事は一度も無かった。…初回は俺の所為で全員落ちて、二度目と三度目は俺だけ落ちて……そして、四度目」
アサギは目を伏せた。
「……その時は、俺だけが受かったんだよ……俺はまだ下忍になって日の浅いチームの欠員補充に入って……皆、よく頑張ったよ。二次試験まではきちんと全員で進んでさ…そして、最終試験は、その年は個人戦じゃなかった。模擬的だったが、実戦さながらに他国のチームと争って『任務』にあたったのさ。………そして、敵の仕掛けた罠に捕まって、仲間は……二人は…死んでしまった。俺は、二人より脚が速かった所為で罠に捕まらずに突破出来たんだけど…速く走り抜ける事だけに気を取られすぎて……仲間が捕まった事に気づくのが遅れた。気づいて引き返した時はもう遅かったんだ」
イルカは顔を強張らせてアサギの声を聞いていた。
「……その戦場には何人も中忍や上忍の『審判』がいて、その俺の行動は『減点』にはならなかったけどな。……審判曰く、罠に引っ掛かって死ぬ方がバカなのだと。そんな力の無い忍はいらないのだと。………でも、俺がもっと早く罠に気づいていたら? 注意を促す事が出来たら? 自分を守るだけで精一杯ではなく、もっと力があったら、あの二人を…せめて片方だけでも救えたかもしれない。……俺は、審判に『速い自分』を見て貰う為に、一瞬仲間の存在を忘れたんだ」
アサギは重い息を吐いた。
「……厳しい試験だった。…当然、全員生還出来なかったチームもあったし、一人しか帰還しなかったチームも俺のところだけではなかった。だから、俺だけが生きて戻った事は特に目を引くものではなくて…それに関して俺を責める人はいなかったよ……でも…」
イルカは我が事のように胸がきゅ、と痛くなった。
辛かったのだろう。
仲間を見殺しにしたようで、アサギはずっと苦しかったのだろう。
「…嫌な話、聞かせたな。…でもな、俺…お前に俺と同じ思いはさせたくないんだ。俺と任務についていたお前は、試験で組む連中とは場数が違っている。たぶん、実力もお前の方が上だろう。もしかしたら、一緒に組む仲間は、お前の足手纏いになるかもしれない。……戦場では状況で仲間を見捨てなきゃならない時もあると俺はお前に言ったけど……俺は、矛盾した事をお前に言っているのだろうけれど……なあ、イルカ」
「はい…」
アサギは、薄蒼い眼で真っ直ぐにイルカを見た。
孤児だったアサギに、その珍しいほど淡い眼の色にちなんで名づけたのは火影だという事をもうイルカは聞いて知っていた。
その透明な蒼は、過日見た彼の恐ろしいまでに美しかった術を思い出させ、イルカの身体は一瞬震える。
「…強くなれよ。……自分と、仲間を助けられるように」
イルカは、黙って頷く事しか出来なかった。
韋駄天と呼ばれる度、脚の速さを褒められる度、アサギはその最終試験の事を思い出させられていたのだ。
そして、その『速さ』だけに依存しないようにいつも自分を戒めてきたのだろう。
アサギが執拗に『基本』を繰り返した意味が、改めてイルカには理解できた。
「…俺、アサギさんが教えて下さった事、忘れません。……俺、頑張ります」
イルカの応えに、アサギはにこりと破顔した。
「いい子だな、イルカは」



風呂まで入った時は、大抵イルカはそのまま泊まる。
アサギはいつの間にかイルカの為に予備の布団を一組用意してくれていたので、それをアサギの寝台の横に敷いて、そこで寝るのが常だった。
その晩も、アサギに何気なく『泊まっていくだろう?』と訊かれたイルカは素直に頷く。
そしていつものように押入れから布団を出そうとしたイルカは、アサギに止められた。
「それ、敷かなくていいよ。…いらないから」
「は?」
イルカはきょとんとアサギを振り返った。
アサギは寝台に腰掛けたまま、イルカを手招く。
「いいから、おいで」
「…? はい……」
イルカはアサギに促されて、彼の隣に腰をおろす。
「……まださ、俺…お前に教えていないコトがあるの、思い出したんだ……」
「…何でしょう」
イルカは生真面目にアサギに向き直る。
その様子にアサギは苦笑を浮かべ、一瞬迷うようにイルカから視線を逸らせた。
「アサギさん…?」
アサギは視線を戻し、ふと微かに唇に笑みを浮かべるとイルカのまだ幼さの残る頬に手を添える。
次のアサギの行動はイルカから正常な判断力を奪うのに充分だった。
「ム……」
――――これ、キスだ………
真っ白になったイルカの脳裏にそんな言葉が浮かぶ。
アサギの唇はイルカの唇をそっと吸って離れた。
目を真ん丸にして、どう反応したら良いのかわからないでいるイルカの様子にアサギは小さく笑う。
そのアサギの笑いに、イルカは自分がからかわれているのだと思った。
「アサギさん! 俺が子供だと思ってからかわないで下さいっっ」
頬を染めて抗議するイルカに、アサギはす、と目を細める。
「……イルカはさ、好きな女の子とか…いるの?」
イルカは慌てて首を振る。
「い、いませんよ! そんなの…そんなヒマないし…」
「そう…じゃあ、少しだけ罪の意識が減るなあ…」
ポツリと漏らしたアサギの声の、その抑揚の無さにイルカは驚く。
様子がいつもと違う気がする。
こんな話し方をする人ではない。
「…アサ…ギ…さん……?」
アサギの顔を覗き込もうとしたイルカは、手首をきつく握られて顔を歪めた。
「…い、痛いです…どうしたんですか…? もしかして、具合でも…」
そのセリフが宙に浮き、気づいた時はイルカは仰向けに倒されていた。
そして見たアサギの表情に、イルカの背に悪寒が走る。
イルカの知っているアサギはそこにはいなかった。
イルカは俄かに込み上げた違和感に突き動かされるようにその場から逃げようとした。
だが、あっさりとアサギに動きを封じられる。
「……ア、アサギ…さん…ふ、ざけない…でくださ…い…」
声が、震える。
『ばっか。何怖がってんだよ。冗談だって』
そう言って、笑って欲しかった。
イルカの願いも虚しく、アサギは戒めた手を緩めようともしない。
「あ……」
顎をつかまれ、強引に顔を上げさせられ、先刻の触れるだけのキスとは全く違う荒っぽさで唇をふさがれたイルカは咽喉の奥を引き攣らせた。
「ンゥ……ッ…」
イルカも十四で。
全くの子供ではないから、それなりに性への関心も知識もある。男同士で行為を行う事があるというのも知っていた。
だから、今自分が何をされているのか『わからない』わけがない。
それでもイルカは『わかりたく』なかった。
アサギが、自分を犯す事など。
こんなに乱暴に、イルカの意志を無視して抱こうとする事など、あるわけがない。
だが、アサギはイルカの抵抗などまるで無視して、イルカのシャツを剥ぎ取った。
晒された肌が訴える夜気の冷たさが、これは現実の事だと知らしめる。

イルカは初めて覚える種類の恐怖に悲鳴を上げた。

 

 



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