蒼穹の欠片−4

 

イルカの『基礎体力作り』は一応順調に進んでいた。
『韋駄天』の異名をとるアサギに速さで到底敵うものではなかったが、森の移動訓練そのものに慣れると、まず訓練が終わってから吐く事がなくなった。
そして、走っている最中に前を行っていたはずのアサギに背後からフェイントをかけられても何とかかわせる頃になると、訓練後のイルカの食事量はアサギが苦笑するほど増えていたのである。
「最近よく食うね。…吐かなくなったし」
そういうアサギも、胃袋が亜空間につながっているのではないかと疑いたくなる程よく食べる。
従って、二人しか座っていない定食屋のテーブルの上には、その人数に合わない量の食器が並んでいた。
「はい! だってすっごく腹が減るから。…もう、吐くのなんかもったいないです」
アサギはニコニコと、チンゲン菜と鶏肉の炒め物をイルカの取り皿に入れてやる。
「そーかそーか。進歩したじゃん。ほら、これも美味いよ」
「ありがとうございます!」
イルカはぺこんと一礼して、遠慮なく炒め物に箸をつける。
「あらあら、ホントによく食べるようになったわねえ、イルカちゃんは。おばちゃんも一安心だわ。初めてここに来た時は、大丈夫かしらって思ったんだけど。…はい、お茶のお代わり」
「おー、ありがと、おばちゃん」
赤くなったイルカの代わりに、アサギが礼を言って急須を受け取る。
「最近体力ついてきたもんな。なあ、イルカ」
「はい。…おかげさまで」
「ちゃんと噛んで食べるのよ。ほら、食べ物は逃げないから」
イルカはきょとんとおかみの顔を見て、こっくりと頷いた。
「…女の人って、みんな同じ事言うのかなあ……おかみさん、母ちゃんと同じ事言う…」
イルカの両親が九尾狐に殺された事をもう知っているおかみは、ぎゅうっとイルカの頭を抱いた。
「……そりゃね! おばちゃんも『お母さん』だからね。自分で産んだ子供も、イルカちゃんも同じように可愛いからさ。つい、口出しちゃうのよ」
おかみは小柄な女性だったが、椅子に座っているイルカの顔は抱き寄せられて彼女のふっくらとした胸に埋まってしまう。
柔らかな暖かい胸と、母親独特の匂いに、イルカは一瞬本当に母親に抱かれたような錯覚に陥った。
「あら。…イイ事してもらってんなあ、イルカ。おばちゃん、俺はー?」
おかみは、イルカの頭を抱いたままアサギの頭を叩く。
「あんたはダメ。もう大きくなり過ぎね。あんたの頭なんか胸に抱いたら亭主が妬いてしまうよ」
つまり、アサギは『大人の男』で、自分はまだ『子供』に分類されてしまうのだな、とイルカは妙に冷静に考えた。
「ちえ。おばちゃんくらいの胸のでかさ、好みなのに残念。…こら、いつまで甘えてんだ、イルカ」
イルカははっと体を起こす。
「ご、ごめんなさい」
「いいのよ。アサギちゃんは自分が抱っこしてもらえないから拗ねてんの。気にしなさんな」
笑いながらおかみはイルカの頭を解放した。
「髪、伸び過ぎたらおいで。おばちゃんが切ってあげる」
「はい。すみません」
おかみはイルカの頭をポンポン、と撫でてから、カラになった皿を下げて行った。
「イルカ、おばちゃんに気に入られたみたいだなあ」
アサギは笑って淹れ直した茶を一口飲んだ。
「…優しい人ですね。親切で」
イルカは途中だった食事を再開する。
「……でも俺、まだ子供なんですね……」
箸の先をかじり、イルカはぽそっと呟いた。
女性が何の『危険』も『恥じらい』も感じずに接触するという事は、つまり相手を『男』だと思っていない証拠である。
アサギはにっと唇の端を上げた。
「いいじゃないか? なら子供の特権を行使して、甘えてればいいのさ。甘えさせてくれる相手には。…どーせ、お前だってすぐでかくなる。今のうちだけだからな…」
イルカはぷるぷる、と首を振った。
「俺…俺は早く大人になりたい……アサギさんと一緒に任務についても、足手纏いにならないくらい、強い大人の忍になりたい…」
イルカの言葉に、アサギの笑みは柔らかくなる。
「まあ、俺もお前くらいの時はそう思ったさ。早く一人前の忍者になって、誰からも馬鹿にされないくらい強くなって…ってな」
イルカは曖昧に頷くと、今まで訊きそびれていた事を訊いた。
「………アサギさんは幾つの時に中忍になったんですか?」
アサギは漬物を口に放り込んで、それを咀嚼する間黙っていた。
咀嚼したものを飲み込み、やっと口を開く。
「………三年前…かな。…俺、三回落ちたから。四回目の挑戦でやっと受かった」
それは、イルカの常識の範囲では珍しい事ではなかった。
一度や二度落ちるのは当たり前。
十回以上挑戦して受からなかったら、もう諦めてしまう者も多い。そういう者は、一生下忍として務め上げる。
中には、三十近くになってようやく中忍試験を受ける者もいるのだ。
アサギは今年、二十一になるという。
十代のうちに中忍になったのだから、上出来ではなかろうか。
なのに、アサギはそれを言いにくそうに口にした。
訊いてはいけない事だったのだろうかと、イルカは困った顔になり、アサギはそれに気づいて表情を緩める。
「………俺のさ、コンプレックスなんだよ。…俺、下忍の時、最初のチームも、その次のチームも、仲間の出来が良くてさあ…俺、いっつもミソっかすだったわけ。だから、一回目の試験…俺の所為で二人を道連れ不合格にしちゃってね…もう、死にたかった。仲間に悪くてさ。二回目の時は個人戦まで頑張って、そして俺だけ落ちた。…三回目は違うチームで挑戦して、同じ結果。俺だけがまた落ちた。……それから四回目。俺のチームは、俺以外は新人だったんだ」
イルカは目を丸くした。
「それって…」
「うん。今のお前と逆かな? 下忍チームの、一人だけ事故で欠けたとこに補充で入れられたんだな。…居心地最悪だったぜ。でも、その時奴らについてた教官が、凄くいい人だった。…俺の、たった一つの取り柄を認めて、それを伸ばしてくれたんだよ」
「取り柄……あ! 足の速さ…」
イルカは、何故アサギが『韋駄天』と呼ばれて不愉快そうになったか、朧げに理解した。
そして、最初の訓練の時彼が言った、『ダメだね。弱い奴は』というセリフは、彼自身に向けられた言葉でもあったのだという事も。
『たった一つの取り柄』という事は、アサギには他には何も無かったという事だ。
足の速さを誉める言葉が、彼にはその劣等感と直結する。
悪意のある揶揄を込めて、彼をそう呼ぶ者もいただろう。
「何にも取り柄がないよりいいじゃねえかって、その先生さ…俺に自信をつけさせてくれた。その所為かな、伸び悩んでいた他の事…忍術やなんかも、どうにか中忍試験を通るくらいにはなれた」
取り柄を生かし、自信をつけ、中忍試験に受かり。
そこには、アサギの顔を曇らせるものは見当たらない。
だが、アサギにとって、中忍試験の話は『辛い』ものなのだとイルカは悟った。
アサギの、綺麗な淡い蒼の瞳が揺れる。
「……お前も、いつかは受けるだろう。あの、過酷な試験を。……俺は、お前をあんな試験で潰させない。……絶対に」
『潰す』という言葉に、イルカは悪寒を覚えた。
噂でしか知らない中忍試験の内実に、得体の知れない不気味さを感じる。
「……そんな顔するな。要は中忍にふさわしい体力知力技術を身につけてりゃいいんだ。…あと、精神力もな」
何だか、とてつもなく遠い道のりのようにイルカには感じられた。
自分はまだ、その『体力』すら覚束ないのだから。
「…頑張ります………」
アサギはやっと、いつもの快活な表情を見せた。
「俺と、一緒の任務に行くんだもんな」
「はい!」
途端にイルカは元気になり、飯碗に残っていた白飯をかきこんだ。
「おかわり、食っていいぞー」
「はいっ!!」
定食屋のおかみは、暖簾の向こうから目を細めてその様子を見ていた。
この定食屋には、たくさんの忍者達が来る。
よく食べに来ていた若い忍がある日突然顔を見せなくなり、それきりになるのはよくある事だ。
それからだいぶ経った頃、風の便りにその忍の訃報を聞く。
その繰り返しだった。
ここにいる忍者達も、いつ姿を見せなくなるかわからない。
ようやく青年と呼べる年頃になったアサギに、それより更に幼いイルカ。
彼らには出来るだけ長い間自分の作った食事を美味しく食べて欲しい。
おかみはそっと暖簾の陰でため息をついた。

 

 



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