「やあ」
「………先生………」
軽く手を挙げて挨拶するミナトの姿を見ると、やはりこれは夢なのではないかと思えてくる。
もう十数年前に逝ってしまった、カカシの師匠であり育ての親でもあった男に瓜二つの、こちらの世界のミナト。
見れば見るほど遠くに封じていた記憶を呼び起こされ、カカシの心は乱された。
ミナトは、カカシの顔を見て眉を顰める。
「カカシ君、やっぱりまだ顔色あんまりよくないね。夕食まで横になっていた方がよかったんじゃない?」
「……いえ………大丈夫です」
「…そう? …………そう、かなあ。…僕には、君が大丈夫なようには見えないのだけど」
忍の常として、カカシはその心の内面を上手に隠した…――はずだったのだが。
別の世界とはいえ、やはりこの人は『波風ミナト』なのだ。
バレバレか、とカカシはそっとイルカと顔を見合わせる。
気まずい沈黙。
やがてミナトはふう、と息をついた。
「………もしかして、僕には言えない事、なのかな?」
カカシは慌てて胸の前で手をパタパタと振った。
「や、違いますよ! ………と、言いますか。………実はお察しの通り、オレは今、あんまり大丈夫な状態じゃないんですけど。…大丈夫じゃないのはオレだけじゃないと言いますか………その、なかなかに厄介な状態なのです。………それで、先生には折り入ってご相談とお願いがあるんですけど。………全部、事情をお話しますので、聞いて頂けますか?」
ちょっと待って、とミナトが手で遮る仕草をした。
「それって、サクモさんには話せないことなの?」
「…はい。むしろ、その……彼には知られたくないので、ご協力をお願いしたいんです」
「何故?」
カカシは、下を向いて唇を噛んだ。
「……彼には、余計な心配をかけたくないんです」
ミナトは、微苦笑を浮かべた。
「………わかったよ。つまり、話せば必ず彼が心配になってしまう事、なんだね? 彼に心配をかけたくないという君の気持ちはわかる。僕も、サクモさんに余計な心配はさせたくない。あの人、一度そういう感情にはまると、ぐるぐる考え過ぎて負のループに入っちゃうからねえ」
やはり彼もそういう性格なのか、とカカシはほろ苦い気持ちになる。父も優しい気質が仇になり、他人のことを思うあまり、沈み込んでしまうところがあった。
「僕で力になれる事があるなら協力する、と約束するよ」
「ありがとうございます。………これからお話することは、俄かには信じてもらえないかもしれません。荒唐無稽な話だという事はわかっているんです。でも、どうか聞いてください。………先生」
わかった、とミナトは腕組みをし、橋の欄干にもたれた。
「どうやら、思ったよりもシリアスな事態みたいだね。……話してごらん」
「………はい」
カカシの話を聞き終わったミナトは、指先で眉間を揉んだ。
「う〜ん…………本当に、荒唐無稽なハナシだねえ………」
「はあ………当のオレもそう思いますよ」
「要するに、今のカカシ君は中身が別人なわけだ? ………その…異世界の『はたけカカシ』であり、職業は忍者なんだ、と?」
そっとイルカが口を挟んだ。
「忍者って言っても、江戸村で見たような忍者とはだいぶ違うみたいなんですけどね。使う術が殆ど超能力というか」
「いや、単なる忍術だってば。イルカ君」
イルカはため息をついてカカシを見る。
「そうはおっしゃいますが、高速移動の残像ってわけじゃない分身の術だの、動物にも変身出来る術だの、俺らの理解と常識を超えてますよ。しかもそれ、子供にも出来る初歩の術だって言うんですから」
ふぅん、とミナトは興味深そうに唸った。
「その…うん、パラレルワールドっていうSF的概念のことは知っているけど。…それって、決して交わることがないから、平行の世界って言うんだよねえ」
「だから、本来ならあり得ない現象なんですよ。おそらくは、オレの所が元凶な気はしますが。………きっかけを作ったって意味では」
カカシはミナトの顔が見ていられず、渓流に視線を落とした。
現実離れした話を聞かされたミナトは、さぞ面食らっているだろうが。
今回はカカシの方にも、いつもとは違う戸惑いがあった。自分の世界ではとうに死んでしまった人間に瓜二つの彼と、こうして言葉をやりとりするのは複雑な気分だ。
「………やはり、信じられませんか」
ミナトは首を振った。
「いや。………カカシ君とイルカ君が今、僕を騙す理由が無いし。それに、今の話で、さっきのカカシ君の挙動不審っぷりも説明がつくし。一応、信じるよ。…それにしても……確かに、サクモさんには言えない話だねぇ。……その……カカシ君の意識? 魂が行方不明だなんて。そんな事知ったらパニック起こすかもだよ、サクモさん」
「………やっぱり、そう思いますか?」
「うん。…サクモさんはカカシ君のこと、溺愛しているから。………ねえ、忍者のカカシ君……いや、カカシさん?」
「いやあの、お気遣いなく。いつも彼と話しているのと同じようにお願いします」
「じゃ、カカシ君」
「はい」
ミナトは探るような眼でカカシを見た。
「今まで二回は、ちゃんと元に戻ったんだろう? 今回も、いずれは元通りの状態に戻れると思っていていいのかな? こっちのカカシ君も、無事に帰ってくるよね?」
カカシは言葉に詰まった。
「か………確信は無いのですが。おそらくは、世界の修復作用みたいなものは今回もまた働くはずだと、オレは思っています。………思いたいです」
「…ごめん。質問が悪かったね。………君だって、自分の知らないうちに意識だけこっちに来ちゃったのに。帰り方わからなくて困っているよね」
「あ………ええ、まあ」
で、とミナトは身を乗り出す。
「今の話が本当だとすると、そっちの世界にも僕がいるってことになるよね。…さっき、君も僕を先生と呼んだし。…もしかして、そっちの僕も忍者ってこと?」
カカシは頷いた。
「ええ。………先生……ミナト先生は、オレの師匠です。彼は、天才的な忍だったですから………父が早くに亡くなりましたので、オレは殆ど彼に育ててもらったようなものなんです」
ミナトは、目を見開いた。
「え……そっちのサクモさん………亡くなった……の?」
「はい。オレが子供の時に。父も、忍でしたから」
自殺したのだということまでは、カカシには言えなかった。先程の様子では、やはりここの世界のミナトとサクモも、近しい間柄に見えたから。
他の世界の話とはいえ、親しい人間の自殺はショックだろう。
「そう。………だから………だったんだね」
サクモに触れられ、泣いた理由をミナトに言い当てられ、カカシは恥ずかしそうに小さく頷いた。
「………………自分の父さんじゃないって、わかっていたんですけど。………あまりにも懐かしくて………つい」
「………その気持ちはわかるよ。無理、ないと…思う。………ねえ、カカシ君」
「はい」
「たぶん………だけど。………そっちの世界の僕も、もういないんじゃないかい?」
ビクッとカカシは肩を揺らした。
「………いいよ、言って。………君、僕を見てすごく驚いて…それから、とても懐かしそうな眼をした。…せっかく会えたんだからって、そういう意味だったんだろう?」
カカシは、橋の欄干を握りしめた。
自分の世界のミナトが既に故人だということは、こちらのミナトには言わないつもりでいたのだが。
無理だ、とカカシは観念した。この人相手に、誤魔化しきれる気がしない。
「…………先生は、木ノ葉の里の四代目火影。…里の長だったんです。…本当に、強い忍でした。歴代火影最強といわれていた程だったのですが」
「四代目………火影………?」
カカシは、悲しげな笑みを浮かべてミナトを見た。
「ええ。…でも…里を護る為に、殉職なさいました。……もう…随分前のことです」
そう、とミナトは呟いた。
「それじゃ………君にとっては、結構キツイんじゃない? こうして、僕と話すのは。………見間違えるくらい、似ているんだろう……? その………彼と、僕は」
カカシは苦笑して、胸を押さえた。
「………仰る通り。……キツイと言えばキツイです。ここら辺がちょっぴり痛い。……でも、それでも………懐かしいんです。もっと貴方と話していたい。…そういう気持ちも強いんですよ。………だから、オレに気遣いは無用です、先生」
それと、とカカシは続けた。
「これは、あくまでもオレの世界の話ですから。…姿かたちや名前が同じでも、その運命まで同じではありません。現に、こっちの世界の父さん……サクモさんはお元気そうだし、先生も生きている。………オレの世界の彼らが夭折したからといって、貴方達までそうなるわけは無いですからね?」
その魂の在り方が似ているからだろう。異世界においても、人間関係が似通うことはある。
何処の世界でもカカシはイルカという存在に惹かれるし、イルカはカカシという存在を受け入れていた。
それは、カカシにとって面映くも嬉しい事実だったのだ。
だが、『全て同じではない』ということは、目の前のミナトが証明している。
イルカに聞いた話からしても、この人は独身で、子供もいない。つまり、この世界のナルトは、彼とは関係の無い赤の他人なのだ。
血縁関係・人間関係が異なっているのは、彼らだけではない。この世界の自来也とツナデは夫婦だし、紅はイルカの従姉である。そういうケースは、探せばおそらくもっとあるのだろう。
ミナトは頷いた。
「ん、わかったよ。………でも………きっと、さぞかし残念だったろうね。……そちらの世界の僕と………そして、小さな君を置いて逝ってしまった、そちらのサクモさんも………」
カカシは黙って首を振った。
返すべき言葉が、見つからなかったのだ。
カカシを置いて逝った父親は、あの時既にカカシを一人の忍者だと認識していたのだろう。
何を引き換えにしてでも自分が護らねばならない、弱い存在だとは思っていなかったのだ。
そうでなければ、ああいう死に方は出来なかったはずだ。
滅私の果ての死。
彼は、死ぬまで『里の忍』であり、個よりも公の人だったのだ、とカカシは思っている。
それは、カカシにとって誇りであり―――だが、子供としては寂しいことでもあった。
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