幸い、イルカはそれからすぐに戻ってきてくれた。
カカシの顔を見て、安心したように微笑う。
「良かった。随分と顔色良くなったな」
「あ〜、悪い。心配掛けて」
カカシはさりげなくイルカに近づき、ミナト達に聞こえないよう、小さな声で囁いた。
「………話がある」
カカシの様子から、イルカはすぐに何かを察したらしい。カカシの眼を見て、小さく頷いた。
「ほれ、栄養ドリンク買ってきてやったから、今一本飲め。んで、ちょい、風に当たりに行こう。少しは眠ったんだろ?」
「うん、寝た」
カカシは小さな瓶を受け取って、飲んだ。妙な甘ったるさが舌に残るな、と顔を顰める。
イルカは、ミナト達に向かって断りを入れた。
「サクモさん、教授。…コイツとちょっと、風に当たってきます。外も、だいぶ涼しくなってきましたから」
「それはいいけど………カカシ君、本当にもう平気なの?」
ミナトとサクモは、完全には安心していない様子でカカシを見ている。
カカシはニカッと笑った。
「や、本当に。イルカと一緒だし、心配しないでください」
イルカと連れ立って廊下に出たカカシは、ハア、と息をついた。
イルカは、そんなカカシを見て訝しげに眉を顰める。
「………何なんだ? お前は。調子が悪い時は、もっと早く俺に言えよ。そしたら、あの二人に心配させないようにフォローしてやるのに」
「………………やっぱ、頼もしいね、君は」
カカシの口調に違和感を覚えたイルカは、訝しげな顔をした。
「………は?」
カカシは、チロリとイルカを横目で見た。
「風に当たりに行くんだろう? 行こう、イルカ君」
イルカの顔色が変わった。
「まさか。……もしかして…………カ…カシ、さん………?」
カカシは、苦笑した。
「さすが。……勘のいいこと」
「な…っ…どういう事ですかっ?」
「いやあ………どういうもこういうも………見た通りっつうか。まあ、とにかく外に出よう」
イルカはカカシの体調を気遣ったが、実際に一眠りしたカカシは調子を取り戻していた。
二人はホテルを出て、近くの橋まで歩いていく。
「………で、どういう状況なんですか?」
カカシは困ったように(実際、困った状態なのだが)緩慢に首を振った。
「う〜ん………どうやら今回は、精神体だけ飛んできちゃったって感じ? んでもって、こっちのカカシ君の身体に入っちゃったみたいなんだよねえ」
イルカはいきなりカカシの頬を指でつまんで引っ張った。
「…っつか、お前、俺をかついでないだろうな? 本当にカカシさんか?」
「いひゃい、いるふぁふん」
カカシはイルカから逃げ、頬を擦った。
「ヒドイじゃない、イルカ君。…今はこの身体の痛みはオレが感じるんだから、お手柔らかに頼むよ。疑うなら、この間オレが独りでこっちに来ていた時のこと、訊いてみればいい。何でも答えるよ」
イルカはム、と眉間にしわを寄せて考えた。
「………それじゃあ………あの時こっち来て、最初に何を食べました?」
「えっと? …あ、そうそう、弁当だ。ヒレカツ弁当。駅前の本屋で君に声掛けて。……いつまで待ってもカカシ君が来ないから弁当買って、部屋に戻ったんだったよね」
忍者のカカシが来ていた時の事は、多少相棒に話したが、買った弁当の種類まで教えた覚えは無い。イルカは橋の欄干にがっくりと顔を伏せて呟く。
「………マジかよ………参ったな………」
イルカは欄干から顔をあげたが、その顔色は冴えなかった。
「疑ってすみませんでした。それで……あの、あいつの方は…どうなっているんでしょう……」
カカシはコリコリ、と頭をかいた。
「うーん。ゴメン、わかんないわ。…この間みたいに、オレと入れ違いになって、オレの身体にいるのかもしれないし。もしかしたら、深く眠った状態になっているだけかもしれないし」
「………そうですか。…いや、わかるはずないですよね。……すみません」
カカシは、欄干に背を預けた。
「…それはそうとねえ。…実はオレ、眼を覚ました時、ちょっとドジをやらかしたかもしれないんだよね」
「は? と、言いますと?」
「いや、こっちの…カカシ君のお父さんとミナト先生って、生きていたんだね。……オレの世界では、父と、オレの師匠だったミナト先生は、既に故人なんだ。……だから眼を覚ました時、先生がいたもんで……てっきりまだ夢を見てるんだ、と思ってしまってね。それで、ちょいと不自然な言動をかましたかもしれないのよ」
イルカは、驚いたようにカカシを見た。
「そ、そうだったんですか。………それは………何と言いますか………」
カカシは首を振った。
「ま、やってしまったモンは仕方ないけど。………それより、色々訊いていいかな。状況を掴まないと、フォローも出来ない」
それはそうだ。イルカは急いで頷いた。
「ど、どうぞ」
「ありがとう」
カカシはす〜う、と息を吸うと、一気にまくしたてた。
「先ず、どうして親子で使ってる言葉が違うのかね? オレ、英語ってよくわかんなくて、ちょいと困ったんだけど。んで、先生…ミナト先生は、カカシ君の何の先生? こういう旅行に一緒に来ているってことは、相当親しいんじゃないかと思うけど、前の時いなかったよね? それから、ココは何処? オレ、ニッコーとか言われても、わからんのよ」
「それは、ですね………」
イルカも深呼吸を一つし、幼馴染み兼親友権恋人である男の生い立ちから、先生ことファイアライト教授との出会い、そして実の父親との母国語が違ってしまった理由を、順序だててカカシに説明した。
「…………なーるほど…それで、か。…なんか、ちょっと他人行儀だと思ったんだよねえ、父親なのに………」
「サクモさんは今、我が子を育てられなかった分を取り戻したくて、一生懸命なんです。…だから、その…ちょっとカカシさんの感覚だと、普通父親がしないかもって事をなさるかもしれませんが、驚かないで下さいね」
カカシはうん、と頷いた。
「わかった。……ちなみに、どういう事をしそうなのかな? 彼」
「ええと………息子にキス……とか。………頬とかだけじゃなくその………唇にも」
イルカは、一番カカシが引きそうだと思うことを挙げてみたのだが。
案に相違してカカシは「なーんだ」と笑った。
「それくらいなら大丈夫。ウチの親父もしょっちゅうオレにキスしてたから」
「ええっ………」
「………もっとも、オレはまだ幼児だったけどね、当時」
「あ………何だ、そうだったんですか」
親が幼い子供にキスするのは、特におかしい事ではない。
「ま〜………でもあの人、えっらい天然さんだったからねえ。オレが大きくなっても、していたかもしれないけどね。キス」
「そ………ですか」
イルカはしばらく欄干に手を預けて渓流を眺めていたが、やがて躊躇いがちに口を開いた。
「………あの」
「ん?」
「カカシさん、英語はまるっきりわからないんですか?」
んー、とカカシは唸った。
「まるっきり……じゃないんだーよね、実は。オレの方の世界にも、あれと似たような言葉はあるんだ。任務で必要になる場合もあるから、ある程度は知っているんだけど。さっきちらっと聞いた限りでは、発音や語尾が違う部分があったり、知らない単語があったな。……まあ、何となく何を言いたいのか、くらいはわかったけど」
イルカは胸を撫で下ろした。
「そうですか、良かった。…全くわからないよりも数倍マシな状況です。…どう理由をつけても、カカシが英語を話せないっていうのは説明出来ませんので。………あいつ、サクモさんと話がしたくて頑張っていたから。……すぐにドイツ語を話せるようになれない以上、彼との共通言語である英語を頑張るしかなかったんです」
「………そっか」
カカシは唇を噛んだ。だとすると、自分は相当なヘタを打ったということになる。
「オレ、考えたんですけど……たぶん教授には、隠しきれないと思うんです。彼は、カカシの英会話能力のレベルを一番よく知っています。…事情を打ち明けて、協力してもらいませんか?」
カカシは、金髪の青年の心配そうな顔を思い出した。
「彼は、こんな話を受け入れると………信じてくれると、思う?」
「………そうですね、たぶん。…きちんと説明すれば、こんな不可思議な現象の事も、貴方の存在も受け入れてくれる、と俺は思います。彼はとても順応力がある人なんです。そういう人の頭が、硬いわけはないですから」
「そっか………彼も、ミナト先生だものね。………で、彼を協力者にして、父さ…いや、あのサクモさんには言わないでおくわけ?」
イルカは眉根を寄せた。
「あの人、とても心配性だから……こんな事……つまり、カカシの魂が行方不明だなんて事を知ったら、酷く取り乱すのではなかろうかと………」
「なるほど。そりゃそうだよねえ。……余計な心配をさせなくてもいい、か。………で、君の考えでは、先生に協力してもらえば、サクモさんも何とか誤魔化せる、と?」
イルカは頷いた。
「と、思うんですよ。…教授がその気になれば、どういう不自然な状況でもうやむやに誤魔化してくれるのではなかろうか、と。何せ、ここではサクモさんの母国語を彼と同レベルで話せるの、教授だけですし」
「そっか。………言語学の天才、なんだっけ」
彼が『波風ミナト』と同じ存在である以上、何がしかの人より優れた能力を持っているのは当然だろう。
サクモ同様、顔を見ているだけで胸が苦しくなるほど、懐かしい存在。
今回の中途半端な神隠しは、嬉しいのか辛いのかよくわからないな、とカカシは微苦笑を浮かべた。
「教授だってカカシの事を心配しないわけないと思うんですけど。たぶん彼なら………」
と、言いかけた時、イルカの携帯が鳴った。
イルカはポケットから携帯を取り出して開き、「噂をすれば、だな」と呟く。
「……教授からメールです。やっぱり彼、何か勘付いていますよ。俺達がどこにいるのか訊いてきました。ご自分も外の空気を吸いに出てきたので、一緒に散歩してもいいか、だそうです」
「ん? そういうのって、普段の彼ならしない行為ってこと?」
イルカは首を振る。
「いや、メールの内容そのものなら、普段の範疇ですけど。…俺とカカシが一緒にいる事がわかっている場合、こういうメールはカカシの方の携帯に入れてくるはずなんです」
「…あー…そうなんだ? 先生とはやっぱ、カカシ君の方が親しいってこと?」
「そうですね。……教授から見れば、俺はカカシのオマケなんじゃないかと思いますから」
カカシは苦笑した。
「オマケってことはないと思うけど。………ま、ちょうどいい。来るって言ってくれてるんなら、来てもらおう。………彼がオレの先生と同じ存在だというのなら。…力になってくれるはずだと………オレも、思う」
|