カカシは目を見開く。
「……な………」
サクモは、手をカカシの頬に当てたまま、硬い表情で繰り返した。
「君は、誰なのです? こうして触れている君は、間違いなくカカシです。………でも、違う。…上手く言えませんけど…そう、懸命にカカシのように振舞っている、別人のように思えてならない」
そう言ってから、サクモは眼を伏せ、軽く首を振った。
「………すみません。自分でも、変な事を言っているのはわかっています。あり得ないことだとは思うのです。でも、その考えが頭から離れてくれない。…おかしいのは私の方なのでしょうか。………さっき、一瞬君が二人になったように見えましたし」
カカシは、唇を噛んだ。
やはり、見えていたのか。眼の良い人だ。
サクモがあの瞬間の分身を見極めていたという事実は、不思議とカカシを嬉しい気分にさせた。
だが、ここは誤魔化さねば。
サクモ自身が言っている通り、多重人格でも無い限り、カカシの人格が別人だ、などというのは現実的にあり得ない事なのだ。
笑い飛ばしてしまえばいい。
それは錯覚だ、と。
考えすぎだ、と。
あくまでシラを切ろうとしたカカシは、サクモの指が震えているのに気づいた。
(………この、人…は………!)
カカシは愕然とした。
今、サクモは『一昨日から』と言った。
もしかすると、最初から騙せてなどいなかったのか。
カカシが魂だけこの世界に来てしまった、あの日から。
サクモに縋りついて泣いた、あの時から。
彼はずっと、違和感を覚えていたのか。
ぎゅ、と眼を閉じたカカシは、天を仰ぎ―――観念した。
これ以上は、無理だ。
ハッキリと、サクモに疑念を持たれてしまった今となっては。
カカシは、頬に触れているサクモの手の上に、そっと手を重ねた。
「………オレは、カカシですよ。…嘘じゃ、ないです。………カカシなんです」
「カカシ………」
でも、とカカシは続けた。
「………貴方の息子の、カカシではない」
咽喉がカラカラに干上がったような気分になった。
「ちゃんと、お話します。………こんな所では、落ち着きませんね。予定通り、お茶飲みに行きましょう。…大丈夫、もう一人で歩けますから」
レストランは、表参道に面した場所にあった。
東照宮の中に在って、そのレストランの外観はいささか浮いているようにカカシには感じられた。
昼食にはほんの少し早かった所為か、待たずに席に案内される。
サクモが紅茶をオーダーしたので、カカシもそれに倣った。
「………ここの紅茶は、ロンネフェルトなのですね。……ドイツの紅茶です。日本は水の質が違うから、味は少々違ってしまうかもしれませんが」
「すみません。…そこら辺は勉強不足でわかりません」
サクモはニコ、と笑った。
「素直ですね。…いいんですよ、わからなくても。………私だって、わからない事だらけです」
やがて運ばれてきた温かい紅茶を一口飲んでから、カカシは話し始めた。
「話は少し、長くなります。よろしいですか?」
「構いません。…どうぞ」
「貴方にとっては突拍子も無い話から始めなければいけないのですが。…オレは、この世界の人間じゃありません。他の世界で生まれた、カカシです」
サクモは、眉を顰めた。
「………何を言っているのです?」
至極全うなサクモの反応に、カカシは微笑んだ。
「だから、突拍子も無い、とお断りしたでしょう? 説明します。…平行世界、という概念をご存知でしょうか」
それからカカシは、丁寧に事の発端―――つまり、自分とこの世界のカカシが、お互いの世界の夢を見ていた所から話し始めた。
そして、二度、実体を持ってこの世界を訪れていた事、そのうちの一度はこの世界のカカシと入れ替わりになってしまっていた事などを打ち明ける。
「………そして、今回はいつもとパターンが違っていまして。オレの意識だけがこっちの世界に来てしまっていて、目覚めたらカカシ君の身体だったわけなんです。……カカシ君の意識は、もしかしたらオレの方の身体に入っているのかもしれません………」
カカシがそこまで話し終えた時、テーブルの上の紅茶はすっかり冷めてしまっていた。
「えっと………信じて、頂けますか………?」
サクモは、難しい顔をしたまま、ゆっくりと口を開いた。
「その前に。………今の話、ミナトとイルカ君は、知っているのですか」
はい、とカカシは肩をすぼめた。
「イルカ君は、一連の事件をすべて知っている人間ですし。…ミナト先生には、その日のうちに打ち明けて、協力を頼みました」
「………何故、私には隠したのです?」
カカシは視線を彷徨わせた。
「それは…あの…ただ、心配させたくなかったんです。…こんな話を聞いたら、貴方はカカシ君のことを心配するに決まっていると。………だから、貴方には言わないでおこう、と思ったんです。……でも」
カカシは項垂れた。
「すみません。………黙っていても、貴方に心配させることに変わりはなかったんですね」
サクモは黙って立ち上がった。カカシは、驚いてサクモを見上げる。
「………とう…サクモさん?」
「……ホテルに戻りましょう。………もう少し、詳しく話が聞きたいです」
サクモは勘定書きを手に、さっさと会計をしに行ってしまった。慌ててカカシが追いかけると、目の前にスッと五千円札が差し出される。
「…え?」
「店の外で、パイを売っていたでしょう。人数分、買っておいてください」
カカシは機械的に札を受け取り、頷いた。
「………ハイ。わかりました………」
衝撃的(?)な話を聞かされた直後の割に、態度が冷静だ。心持ち首を傾げながら、カカシは店の外に出て、お土産用に売っているカレーパイを買った。
人数分なら四個でいいのだが、何となく一人一つでは足りないような気がして倍の数を買ってしまった。
会計を終えたサクモが出てくる。
「ああ、ありました? …これ、ミナトが食べたがっていたのですが、この間は売り切れていたのですよ」
「えっと…すいません、ちょっと多めに買いました」
クス、とサクモは笑った。
「それでいいですよ。たぶん、ミナトは一つでは物足りないでしょうから。君やイルカ君も、まだ食べ盛りでしょう?」
何事もなかったかのように、サクモは微笑んでいる。
「さ、戻りましょう。…これから陽射しが強くなる。ホテルの部屋にいた方が、君の身体に障りません」
「そうですね。……すみません、ご心配掛けて」
まだ、サクモは半信半疑なのかもしれない。
それでも、ここに在るのが息子の身体だということに変わりは無いので、こうして気遣ってくれているのだろう。
「あ、そうだ。……これ、お釣りです」
パイを買った釣銭を返そうとした手は、やんわりとサクモに押し戻された。
「いいです。カカシの財布に入れておいてください。さっき、拝観料とか出してくれたでしょう?」
「…………わかりました。ありがとうございます」
サクモの、『お借りします』はこういう意味だったのだ、とカカシは悟った。
息子の財布から金を出させっぱなしにしないのは、やはり他人行儀な距離感からくるものだろうか。
カカシが父親と外で買い物をしたり、食べたりしたのはほんの子供の頃だったので、親であるサクモが支払うのは当然だった。
もしも、カカシが大人になるまで生きていてくれたら。
こんな時、どちらが払っていたのだろうか。
サクモの背中を見るカカシの胸を、ほろ苦く切ない痛みが通り過ぎていった。
ホテルに戻ったカカシ達は、サクモの部屋に入った。
ベッドメイクと掃除は既に終わっており、茶器なども綺麗にセットされ直されていた。
さっき紅茶を飲んだばかりだが、やはり何かあった方がいいだろうと思ったカカシは、ポットの湯で茶を淹れた。
お茶をテーブルに置いたカカシは、立ったまま訊ねる。
「………さっきの質問。まだ、答えを聞いていません。………オレの話、信じてくれたんですか………?」
手を洗いにバスルームに行っていたサクモは、ついでに顔も洗ったらしい。
少し濡れた前髪をタオルで拭いながら、冷蔵庫から何か取り出した。
「はい、お菓子。…ここで一つ質問です。このお菓子は、このホテルに来てから誰かが買ってきてくれたものです。誰が買ってきたか覚えていますか?」
テーブルに置かれた菓子箱を見て、カカシは首を振った。
「………いいえ。知りません」
フ、とサクモは吐息をつく。
「そうですか。………覚えていない、ではなく知らない。…なるほど」
サクモは椅子に腰をおろした。
「どうぞ。君も座ってください。………さっきの質問の答えを言いましょう」
カカシは、サクモの前に座った。
「君の話は確かに荒唐無稽です。普通なら、信じられません。……でも、その話を前提にして考えた方が、色々と辻褄が合うのです。………信じたくは無いけれど、信じるしかない、でしょうね」
サクモは菓子箱をトントン、と指先で突いた。
「このお菓子は、カカシが買ってきてくれたんですよ。…なのに君は、知らないと言う」
「あ……そうだったんですか。カカシ君が………」
どうしてもっと上手くやれなかったのだろう、とカカシは肩を落とした。
この人を、最後まで騙し通したかった。
ここまで上忍にあるまじきボロを色々と出してしまった自分が、情けない。
「すみません………」
「………謝る事はないです。………君は…君達は、私を心配してくれていたのでしょう? 本当の事を知れば、ショックを受けるだろう、と。………ええ、それはショックですよ。どう反応したらいいのかわからないくらい、私も混乱しています。カカシの事も、心配です。あの子は今、何処でどうしているのだろう、とか。本当に元通りになるのだろうか、とか」
膝の上で組んだ、サクモの手が小刻みに震えていた。
「………でも、私が取り乱して、パニックになっても………事態は変わらないです…ね。………それで、解決策はあるのでしょうか?」
「大変心苦しいんですが、無い、と言うしか………いつも、ただ待つだけなんです。きっと戻れると信じて、元の状態になるのをじっと待つんです」
サクモの手の震えが、止まった。
「………すみません。………困っているのは私ではなく、君とカカシなのに。………君は、自分の事よりも私を心配してくれていたのですね。………ありがとう」
カカシは黙って首を振った。
「いいえ………オレは………」
サクモの為、というよりも、自分が見たくなかったのだ。
息子を心配し、恐慌状態になるサクモを。
それを恐れていただけなのだ。
―――精神の均衡を崩しかけた、実の父を目の当たりにしていたから。また、あんな思いをしたくなかった。
「………君も、カカシなのだ、と言いましたね。…………では、君のご両親は?」
「…父は、はたけサクモ。…貴方とソックリ同じ外見で、やはり忍者でした。母の事は知りません。オレがまだ赤ん坊の頃に失踪したので」
サクモは、複雑そうな顔をした。
「や…そ、そうですか………そちらも、何か色々と大変そう…ですね」
「そうですねえ。………大変じゃない世界なんて無いんだなあ、と思いますよ、本当に」
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