世界にひとりのあなた −1
ううむ、とカカシは洗面所で唸った。 朝起きて顔を洗い、そのまま鏡を覗き込んで唸っている。 「おはよう、カカシさん。……どうかしたんですか?」 洗面所の横を通りかかったイルカは、眉間に皺を寄せている妻に声を掛けた。イルカが起 きた時彼女はまだ夢の中だったので、これが今日の『初顔合わせ』だったのである。 「…おはようございます…あ、いや何でも……朝ご飯の仕度、手伝いますっ」 カカシは慌ててごしごしっと手拭いで顔を拭くと、にっこり微笑んだ。 「いや、いいですよ。もう出来ます。カカシさんはチドリのお出かけの仕度をして下さい。 保育園の連絡帳は見てますか?」 いけない、見てない! と声を上げたカカシはチドリの通園用の鞄を捜しに小走りで居間 に駆け込んで行った。 「……………」 イルカはカカシが見ていた鏡を一瞥する。 特に彼女の顔に異変は見られなかったが。 むくんでいるとか、何か腫れ物が出来たとか。もしもカカシにそんな変化が起きたのなら、 本人よりも先にイルカが気づく。 しかし、自分の容姿をあまり気にしない彼女が鏡を覗き込んでいたのだから、本人にしか わからない違和感でもあったのだろうか。もしかしたら、封じられている写輪眼に異変で もあったのかもしれない。イルカは心配げに眉を顰めた。 彼女に何かあったら、と思うと途端に不安で落ちつかない気持ちになる。 木ノ葉の里でもエリート中のエリート、天才忍者の誉れ高いカカシだったが、イルカにと っては世界一可愛い自分だけの恋人である。子供までなして、正式に妻となった女性を恋 人と称するのはおかしいかもしれないが、イルカの中では彼女はそういう存在だった。 朝食を載せた盆を持ったイルカが部屋に戻ると、カカシはチドリのおしめを替えたところ だった。チドリはおしりを綺麗にしてもらって、ご機嫌でお気に入りのおもちゃを齧って いる。 イルカはそんな息子を膝に抱いたまま連絡帳を開いているカカシの顔を上から覗き込んだ。 「カカシさん、身体の調子でも? もしも体調が悪いようでしたら我慢せずにすぐ言って 下さい」 え? とカカシは顔を上げる。 「さっき、鏡を見て首を傾げていたでしょう。調子でも悪いのかと…」 ああ、とカカシは納得げな顔をしてからきまり悪そうに笑った。 「ううん。…ゴメンなさい。心配しないで? 何でもないから。…あ、おかしいなって思 ったら、一番最初にイルカ先生に言います。お約束しますから!」 「…そうですか? …わかりました。では、ご飯にしましょう」 それ以上しつこく問いただすわけにもいかず、イルカは自分の箸を手にする。 「はい! わ、美味しそう。ひじき入りの卵焼きだ〜! いただきますっ」 独身時代には朝食を摂る習慣のなかったカカシだったが、チドリを身篭って火影屋敷に身 を寄せ、火影の孫の婆やであったヨネに世話になっていた時に半ば強引に朝からきちんと 食べる事を覚えさせられてしまった。一度習慣になると、朝食を摂るのが当たり前になっ てくる。もっともイルカが朝はしっかり食べるタイプだったので、ヨネに世話をされるこ とがなかったとしても、毎日朝食を摂る生活こそが『健康な人間の正しいライフスタイル』 だと刷り込まれた事だろう。 「カカシさん、今日は任務ですか?」 「はい、十時からです。今日はね、引越しのお手伝いですって。色んな事引き受けるんで すねえ、里も。……イルカ先生、午後受付シフトじゃないんですか?」 「ええ、午後はアカデミーの職員会議ですから」 受付に入れば、カカシ達が今日どんな任務で何処へ行ったのかイルカにはわかる。わざわ ざ予定を聞くまでもない。 「……遅くなりそう?」 いいえ、とイルカは首を振る。 「たぶんね、大丈夫です。夕方にはチドリのお迎え、行けますよ」 「…いつも、すみません。じゃあ、後片付けとお洗濯はやっておきますね」 「お願いします」 家事はその時出来る方がやっておく。 イルカは若い割りに古風で色々と保守的な部分もある男だったが、『家事と子育ては女の仕 事』だとか、『男子厨房に入らず』といった考えは毛頭ない。もっとも、ずっと家にいて食 事を作って待っていてくれるような妻が欲しいのだったら、最初からカカシとは結婚して いないだろう。イルカは、子供を産んでくれる家政婦が欲しいわけでも、早くに失った母 親の代わりが欲しいわけでもないのだ。 「夕飯もたぶん、俺が用意できます。カカシさんは気にしなくていいですよ」 生まれて初めて、心の底から欲した愛しいひとが自分の家族となってこの家に、自分の目 の前に座っている事こそ、奇跡のような幸せだとイルカは思う。 だから。 「…すみません…オレ、いつも…」 カカシはこんな、申し訳無さそうな弱々しい笑みなど浮かべなくてもいいのだ。イルカは 微笑むと身を乗り出し、卓越しにカカシの頬にキスした。 ナルト達が一生懸命引越しの荷物を運び、荷車に載せてロープで固定する作業を、上忍達 は少し離れた所で監督していた。 「……環はさ、イルカ先生の結婚式って見てないんだよな?」 環はカカシをちらりと見る。 「…ああ。私も一応知らせはもらっていたんだがな。あの日は任務があって…ナルトやサ クラは彼のお祝いにぜひ行きたいと言っていたんで、早めに切り上げさせたんだ。私は事 後処理があったんで、失礼してしまったんだが。…お前は顔を出したらしいじゃないか」 カカシは軽く噴き出した。 顔を出したも何も、結婚式のもう一方の主役はカカシだったのだが、環もそれは承知の上 でわざとそういう言い方をしているのだ。 「まあね、イルカ先生とは友達だから。お祝いくらいひとこと言いたいじゃない?」 「……友達だったのか」 「悪い?」 なるほど、『はたけカカシ』は表面上イルカの友人として振舞っているのだと今更ながら環 は認識した。 「で? 何だ? いきなり」 「いや……彼の嫁さんってどういうイメージかな〜って思ってさ」 環はカカシの意図をはかりかねながらも、一応返事をしてやる。 「イメージ? …お前、『彼女』を見ているんだろう?」 「……ちらっとね。オレはイルカ先生にお祝い言いに行っただけだから」 あくまでも他人の事として話をするカカシに環はあわせる。誰が聞いているかわからない 街中では当然の配慮だろう。 「そうだな…結婚式に行ったイルカ先生の忍師仲間の話じゃ、すらっとスマートで割りと 背の高い、クールな印象の色白美人だそうだぞ?」 「………ふうん…」 そうか、そんな風に見えていたのか……とカカシはやはり他人事のように相槌を打った。 「じゃあ、あんまりソコからかけ離れちゃ変かな?」 「何の話だ?」 「……芥子さんの話。やっぱり奥に引っ込んでばかりじゃダンナ様の顔が立たないんじゃ ないかと思い始めたらしい。…でもホラ彼女、地がアレでしょ? ちょいと無理ない程度 に表じゃネコかぶるつもりらしいわけ。で、印象調査」 環は笑いを堪えたような、微妙な顔で微かに首を振った。 「……ボロ、出ないといいがな」 「…あのねえ、彼女も一応、忍なわけよ? 潜入先でボロ出した事は無いって」 潜入任務のつもりで『人格』を創るつもりだと暗に言うカカシに環は軽く眼を瞠った。 「なるほど、割り切ったわけだ」 「まあね」 カカシが本気らしいと悟った彼は、具体的にアドバイスをし始めた。 「…イルカの嫁さんに伝えてやれ。……今更だが、自分とかけ離れた全くの他人になりき るよりも、自分と微妙に重なる人物を演じる方が難しいぞ、と。…出来たらチャクラには 頼るな。見た目の印象を変えるだけなら、カツラか付け毛でも使った方がいい。ベタだが 眼鏡を使うの効果的だ。…後は、雰囲気の方が大事だろうな。経歴は?」 「……一応簡単な身上書はあるけど」 環は声を低く落とした。 「少し細かく作っておいた方がいいかもしれない。……主婦は結構プライベートな話題で も遠慮なく突っ込んでくるらしいぞ。……保育所の母親たちが全員元くノ一なら話は別だ が? 彼女等は芥子が上忍と知っただけで細かい事に触れるのは避けるだろうが」 カカシは首を振る。 「…忍の子も多いって聞いてるけど。……わかった。やっぱ、潜入任務のつもりで本格的 に創った方がいいんだな」 「……言葉遣いは、無理ない程度でいいと思うが…男みたいな口調のくノ一は珍しくない から。…でも、一人称は変えた方がいいな。聞いた方は一瞬違和感を覚えるかもしれん」 「………了解。彼女に代わって礼を言う」 「どういたしまして」 カカシも、『上』と改まった話をする時は一人称をきちんと『私』にする。だが物心ついた 時から二十年以上自分の事を『オレ』と呼んでいるので、咄嗟に口をつくのはこちらだ。 気をつけねばこういうところから『ボロ』を出しかねない。 「……人妻が『オレ』じゃあねえ…興醒めってモンだものな…」 ただでさえ人前に出れば色々な意味で関心を集めそうだということはわかっているのだ。 詮索される材料をこちらから提供する事もないだろう。 「…大人しくって目立たない静かなオクサンが理想だなー…オレ的には」 環は呆れた眼で同僚を見下ろし、ボソッと呟いた。 「……まあ、言うだけはタダだな」 「と、ゆーわけでね、アスマ。この間アスマの言った通りにね、『芥子』創りをすっから協 力して。……何せ、『親戚』だもんねえ、オレ達?」 久々にアスマの部屋に上がり込んだカカシは、勝手知ったる他人の台所でお茶を入れてい た。 「……そうだな……先ず、その親戚関係からいくか。遠縁って言っても色々あるからなあ …そうだな、木ノ葉の外れに黄櫨ってえトコがある。知っているか?」 「知っている。染物が盛んだったな、確か。任務で滞在した事がある」 「それなら話が早い。あそこに俺の親父の従姉妹が嫁いでいる。その嫁ぎ先の旦那の従弟 の娘、くらいにしておけ」 カカシはお茶を卓において苦笑した。 「すげえ遠縁。既に他人」 「まったくだ。マジにそんな女が現れても普通は本気にしねえな。…ま、それくらい濁し ておかねえとマズイだろ」 「まあね。え〜と、アスマの親父さんの従姉妹の旦那の従弟の娘、と。…実際に親父さん の従姉妹さんが嫁いでいる辺りがリアルでいいねえ」 「木ノ葉のアカデミーには行っていなかったって方がいいな。…芥子と同期のはずの人間 が、誰一人彼女を知らない、というのはおかしな話だ。忍者として登録するのにアカデミ ー卒業は絶対条件じゃないはずだから、大丈夫だろう」 アスマはずずっと茶をすすった。 「…お前、茶を入れるの上手くなったな」 そお? とカカシは満更でもなさそうな顔で微笑った。 「でもまだダンナにゃ勝てないけどね。あの人器用なのよ〜そういうの。…アカデミーは オレ自身殆ど行ってないから、それは不自然じゃないだろ。…事情があって、個人指導を 受けてたって事にしておくよ。……里内でオレ…いや、芥子の知り合いがいない事につい てはどうしようかなあ……」 「そーだなあ………里外任務に長期間就いていた事にするしかなかろうよ。…それで任務 で身体壊して治療する為に里に戻り、俺の実家で静養してたってのはどうだ? そこに三 代目の使いで来たイルカと出逢って……つうシナリオは」 カカシは持ってきた紙にアスマの提案を書きつけた。 「それナイス。それなら今まで芥子が家に引っ込んでいた言い訳になるモンな。イルカ先 生が三代目のお使いでアスマの実家に行く事なんてのもいかにもありそう……そのシチュ エーションいいな〜…テレビのメロドラマみたいだよねっ…身体壊して静養中の儚げな美 女と誠実で純朴な青年が偶然に出逢って恋に落ちるって」 うっとりしているカカシにアスマは顔を顰めた。 「……イルカの方はともかく、お前の方のフレーズに無理が…」 うるせえ、とカカシはテーブルの下でアスマの膝に蹴りを入れた。 「実際のオレはどーでもいいんだよ、この際。…結婚式でオレを見た連中の勝手な想像が 一人歩きしてるのが迷惑だしな。この際、きっちり『芥子』像を創るの!」 「それはわかってるけどよ、その芥子夫人のイメージに『儚げ』を入れるのはよせ。一年 やそこらバケるんじゃねえんだ。ボロ出るぞ」 カカシは上目遣いにアスマを見た。 「へええ? 美女、にクレームはつけないの?」 「つけねえよ。…お前は美人だ。そこは否定しねえ」 カカシは驚きのあまり椅子から落ちそうになった。 アスマと知り合って既に十年以上。今まで一度だってアスマがカカシの容姿を褒めるよう な言動をした事はなかったからだ。 しかも、『美人』とはっきり言うなど。 「……アスマ、熱あんじゃねえ?」 「…俺は客観的な事実を述べたまでだ。お前は自分をきちんと見ていないのか」 カカシは唇をかんだ。 「鏡くらい見てるよ。…だから、わかるんじゃない。自分が不細工な女だってコトくらい 知ってる! こんな大きな傷跡があって、目つきはキツイし、唇は薄いし。全然…ダメだ もん…」 今度はアスマが驚いた顔になった。カカシが本気で言っているのがわかったからだ。 「……お前…自分の事をそんな風に……おい、イルカは! あの野郎はお前の事を褒めた 事は無いのか?」 「…え…えっと、イルカ先生は…キレイだって…言ってくれるけど…あの人優しいし…あ、 あの…でも見え透いたお世辞言うような人じゃないから、か…彼の眼からはそういう風に 見えてるって言うならオレ、嬉しいかもって…」 うわあ、とアスマは思わず嘆息した。 今まで多くの同僚達は、カカシが放つ他人を寄せ付けない空気に気安く話しかける事も出 来ず、距離を置いて『彼』と接してきた。額当てと口布でカカシの顔の殆どは覆い隠され ていたが、唯一晒された右の目元と鼻梁の形だけでも、『彼』が美形だろうという事は簡単 に想像がつく。だが、それを本人に言うような人間はいなかったのだろう。 「…お前なあ…そりゃあ、美人って言っても色々だ。時代や地域でもそういう基準は変わ るし、その中でも人によって評価は変わるだろうよ。好みもあるしな。…でもな、今現在 の木ノ葉でお前の素顔を見た大半の人間はお前を美人の部類に入れると、俺はそう言って るんだ。少なくとも不細工じゃねえよ」 カカシは思いっきり不審げな顔でアスマを見ていた。 「……こんなデカイ傷があるのに?」 アスマは何秒か彼女の傷跡を眺めた後、優しい顔で微笑った。 「…その傷はなあ…正直、女の顔にそいつは可哀相だと思う。…普通ならな。…でもな、 そいつはお前の忍としての勲章だろう。生き様の象徴とも言える。…だからな、その傷も 『お前』にとってマイナスにはならねえんだよ。イルカも、きちんとお前のそういう部分 が見えたから綺麗だと…そう言ったんじゃねえのか。…お前、俺がこんな事言うとまた気 持ち悪がるかもしれんが、そいつも含めてお前は綺麗なんだ。普通ならその傷に負けちま うだろうがな。…お前の場合は負けてねえ。まるで化粧みたいにな、そいつがお前の顔を 引き立てるアクセントになっているのさ。……俺はまさかお前がそんなにその傷を気にし て…コンプレックスにしちまってたなんて知らなかった。…考えてみれば、お前も女だ。 …当然だったのに……もっと早く言ってやれば良かったな。…すまん」 カカシは黙ってアスマの顔を凝視した後、眼を伏せて頭を振った。 「……ううん…ありがと………」 自分の方こそ、気づいていなかったとカカシは思った。こんなにも優しい眼で彼が自分を 見ていてくれた事に。 実際のところ、イルカに恋をするまではカカシは顔の傷などあまり気にはしていなかった のだが。彼と恋仲になった事で、改めて自分は女なのだと強く意識した結果、顔面につい た大きな傷痕は彼女にとってコンプレックスになってしまったのだ。だが、他人の眼から 見て自分がどう見えるかなど、どうでもいい事だとカカシは思った。 イルカとアスマ。自分にとって一番大事な男達が二人とも自分の『内側』まで見てくれて、 その上で『綺麗』だと言ってくれているのだ。もうそれだけで充分過ぎるほどだ。 「……でも、その傷痕が人目を引くのも事実だな。……いらん好奇心と憶測を呼ぶ可能性 がある。写輪眼のカカシの左目と即結び付ける人間はいねえかもしれんが」 現実問題に立ち返ったアスマに、カカシは頷いた。 「そうだね。オレ、カツラか付け毛で左側をさりげなくカバーしようかなって思ってたん だ。今、写輪眼は封じられているから、眼そのものは気にしなくていいけど……普通さあ、 女の眼が潰れてて傷痕があって…それを髪で隠そうとしているみたいに見えたら、かえっ てヒトってそれには触れないようにするんじゃないかなあ。わざわざ、「それ、どうした の?」とは訊かないよね?」 「……ま、よっぽど無礼でデリカシーが無い奴じゃなきゃな。もしもそんな無礼者がいた ら、黙って俯いて泣いてやれ」 ぶは、とカカシは笑った。 「それって女の必殺技だよねっ! うんうん、わかった。都合の悪い事訊かれたらそのテ を使うわ、オレ」 「…余計な入れ知恵しちまったかな? まあいいか。…じゃあ、後は何だ?」 万一の時に話が矛盾しないように、『芥子』の生まれ・経歴・その他結構細かいところまで 打ち合わせ、カカシはアスマの家を後にした。 「よし! 次は見た目だ。…こいつはやっぱり専門家に相談すっか…『女』を専門のウリ にしている御姐さまにね」 こんな時、カカシの唯一の女友達は頼りになる姉御であった。
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初出/イルカカ夫婦茶碗B『Kaleidoscope』に書き下ろし。 完売して少し経ちましたのでUP。 『カカシちゃん、女装に挑戦す』の巻。 素直にタイトルを『世界にひとつだけの花』にすれば良かった。 パクリやんけ、ソレ(笑)。………でも、元々夫婦シリーズはそういう誰でもご存じのタイトルをお借りしてきているのが多いので。最初があれだし。 いっそ、夫婦シリーズはタイトルを全部何かのパクリにすれば良かったですね。………いっそ、清々しかったかも。(爆) |