「あれ?」
辻に固まり、数人で買物帰りのおしゃべりに興じていた主婦の一人が、不意に顔を上げて
耳をそばだてた。
「この音…」
別の主婦が応じる。
「え? …あら、この笛音は…あらまあ素敵。きっと、祝言だわ。あそこの神社かしら」
祝言、という言葉に女達は反応した。
「ね、ね、見に行く? 御福分け、あるかもよ」
祝言を挙げる際は祝いに『福分け』をするのが里の慣習だ。
経済的余裕が無い場合を除き、新しく夫婦になった新郎新婦が祝いに来てくれた者達に、
何か振る舞いをする。
それは招待した知人でも、通りすがりに祝福してくれた他人でも分け隔ては無い。
それがもしも裕福な家同士の祝言だったら、餅を包んで配る、といった程度の福分けでは
なく、現金が撒かれる事もある。
女達は純粋に新しい夫婦の門出を祝ってやる気持ちと、あわよくば『福分け』に預かりた
いという可愛らしい欲で、楽音の聞こえる方向に走り出した。
「ねえ、見える?」
神社では女達が思った通り、婚礼が行われていた。
「まだ、始まったばかりみたい。…でも、思ったよりすごい人ねえ…大きな御家の祝言な
のかしら…」
女達は買物帰り然とした自分達の格好を少し恥じて小さく身を寄せた。
周りに祝いに来ている者達は、里では当然なのだが忍が多いように思える。
仕事の合間に来ているのか、通常の忍装束の者も多かった。
「あ、お婿さんだ。…やっぱ、これからね」
主婦の一人が目敏く、社殿左手の棟から歩み出てきた青年を見つける。
「…? あれ? あの人…」
「あら、あれアカデミーの先生…じゃない?」
どれどれ、と他の主婦達も伸び上がって青年を見る。
「そーよ! あの人、ウチの子の担任だった先生だわ! イルカ先生よ!」
「うっわ〜…馬子にも衣装っていうか…見違えちゃった。…結構いい男だったのね〜…」
普段高く結わえている髪を婚礼衣装に合わせて低い位置で結い、額当てを外している所為
でまばらに額におりている前髪が彼を年齢よりも若く見せている。
黒を基調にした婚礼衣装は、長身の青年によく似合っていた。
「あの先生が結婚するなんて、全然聞いてなかったわあ。噂にもなってなかったのに〜…
やーだわ。知ってたらこんな格好で来なかったわよねえ」
「ねえ。お祝いくらい持ってきたのにねー」
主婦たちは残念そうにざわめく。
「そっかー。アカデミーの先生なら、関係者も多いわよね」
「確か、あの先生受付もやってるから…その関係の知り合いも多いはずよ」
「そこにお嫁さんの方の知り合いも来るものね。多いはずだわね。祝い客」
彼女達のその視線の先で、青年が歩みを止めた。
右手の棟を真っ直ぐ見つめ、そこから自分の妻になる女性が出て来るのを待っているの
だ。
「どんな人かしらね。イルカ先生のお嫁さんって」
主婦達も興味津々である。
そこへ、子供達が慌ただしく走り込んできて、主婦の一人にぶつかった。
「あっ…ごめんなさいっ急いでたもんだから…あ、カナちゃんのおばさん!」
主婦は驚いてぶつかった少女を見る。
「まあ、サクラちゃん。あ、そうかイルカ先生のお祝いだものね」
サクラは頬を紅潮させて、うん、と頷いた。
「もー、朝からいいとこ陣取りたかったんだけどぉ、仕事入っちゃって…でも間に合った
みたいですねー。…あれ? サスケくんとナルトは?」
サクラと一緒に来たはずの男子2名が見当たらない。
きょろきょろと捜すと、二人はちゃっかり木の高い枝に登って見物していた。
「あっ…ズルイ…ッ」
私も、と行きかけたサクラの袖をおばさんが引っ張る。
「およし、サクラちゃん。人様の婚礼を女の子が木登りして見るなんて、はしたない。幸せ
な花嫁さんにあやかりたいでしょう? ほら、お嫁さんがもう出てくるわよ」
「…はあい」
サクラは素直に返事をして、主婦たちと一緒に大人しく人垣に混じる。
「あっ…来たよ、花嫁さんだ」
年配の女性に付き添われ、白い花嫁衣裳を纏った女性が静かに右手から現れた。
俯き加減の上、衣装から続く長い布を頭からかぶっているので顔はよく見えない。
「…口許くらいしか見えないね。…でも、ほっそりした感じの女の子ねえ…背も結構ある。
何だかあたし、イルカ先生のお嫁さんってもっとこう…小柄でころころした感じを想像し
ちゃってた。勝手に」
ひそひそと主婦の一人が仲間に耳打ちするのを聞いて、サクラも頷いた。
「ちょっと想像と違う雰囲気の人かな……唇の形は綺麗ね…でもまだそれだけで美人とは
言えないし…」
腹部を締め付けない緩やかな衣装。
彼女の胎内には既にイルカの子が宿っているのだ、と思い出したサクラは少し赤くなった。
静かに歩む花嫁は、夫となる青年の手前で止まった。
青年が徐に差し出した手に、そっと彼女は手をのせる。
大勢の里人が見守る中、婚礼儀式が始まった。
「…綺麗ですよ、カカシさん」
小さな声で囁くイルカに、カカシは恥ずかしそうに少しだけ顔を上げた。
「…オレ、口紅なんて生まれて初めてです…おかしくないですか…?」
「綺麗ですよ…とても」
カカシの細い指先を軽く握り、イルカは微笑んだ。
その爪も薄紅く染められていて、彼女の白い指をもっと白く見せている。
指を掴んだままつい、とイルカは彼女を促す。促されたカカシはイルカと共に社殿へ進ん
だ。
契りの儀式は見物出来ないので、祝いに来た人々は彼らが再び姿を現すのを表で待つ
事になる。
「ねえ、イルカ先生何か言ってたわよね」
「やあねえ、あんな時に男が言うセリフなんて決まっているわよー」
「むしろ言わない男は失格だわね」
主婦達がきゃあきゃあとさざめく。
「…イルカ先生、お嫁さんに『綺麗ですよ』って言ったみたい…だけど。唇、少ししか読
めなかったけど…」
サクラが自信なさげにつぶやくと、女達は大きく頷いた。
「でしょうとも! 花嫁姿を褒めない男なんてサイテーだわよ!」
「あ…あたしなんてっ…結婚式で旦那に眼ぇ逸らされたんよー! 綺麗のキの字も言って
くれなかったわー! ひどいでしょーっ」
「バカね、照れただけよ、それは」
あっはっは、とその場が沸く。
「そうそう。色んな男がいるからねえ…付き合ってる時はもちろん、求婚する時でさえ私
の名前を呼ばなかったヤツもいたわよ。恥ずかしかったらしいんだけど」
「…それで、どうしたの?」
「……いくら恥ずかしくても、求婚の時くらい名前呼んで欲しかったんだー…何か、そい
つの肝の小ささが見えたみたいでさあ、やめちゃった。でも、正解だったわよ。今の亭主
はちゃーんと私を名前で呼ぶもん」
「まあ、気持ちは分かるわ。『恥ずかしい』なんて、言い訳よねー…女を個人として認めて
りゃあ、名前くらい呼べるものよね」
「ちゃんと聞いておきなさいよー! 独身の男ども!」
主婦たちが周りに向かって声を上げると、聞くとはなしに聞いていた周囲の男達が苦笑気
味に笑った。
サクラはふと、思い返す。
イルカは『綺麗ですよ』の後に彼女の名前を言ったように見えた。
「カ…? カのつく名前…かな。よく読み取れなかったなー…イルカ先生、殆ど唇動かさ
なかったし…」
まあいいか、とサクラは社殿へ頭を巡らせる。
「後で、お祝いしに近くまで行くもんねっ! 名前もその時聞けばいいし、顔も見られる
わよ」
人々がしばらくざわめきながら待っていると、式を挙げた新郎新婦が姿を現した。
社殿の階段の上で、二人揃って、祝いに来た友人知人達に向かって一礼する。
わあっと大きく歓声があがった。
「うまくやったな! イルカーっ」
「おめでとうーっ! せんせーっ」
次々に祝いの言葉が二人に投げかけられる。
イルカは顔を上げ、にこりと微笑んで礼を言った。
「今この場に来て下さった全ての方に御礼申し上げます。ありがとうございます。これか
らもよろしくお願い致します」
花嫁は恥らうように顔を伏せたままだったが、イルカの言葉に合わせて会釈する。
再びわあっと友人達から祝いの言葉が二人に降りかかった。
イルカが花嫁を気遣うようにその手を取り、二人は階段を降りてくる。
それを合図にしたかのように、『御福分け』が配られ始めた。
主婦たちは目敏くそれに気づく。
「あ、始まったわ。…私達も先生にお祝い言いに行きましょうよ」
「そうね」
「あら、火影様だわ」
里長の登場に、イルカの友人達はさっと脇に寄って道を譲る。
「火影様」
イルカと花嫁も里長に気づき、礼をとった。
「おお、綺麗な花嫁さんだの。…良かったな、イルカ。おめでとう二人とも」
「ありがとうございます」
その時、周囲は初めて花嫁の声を聞いた。里長に向かって、彼女も礼を述べたのだ。
「…ありがとうございます」
柔らかなアルトの声。
花嫁は伏せていた顔をやっと上げた。
サクラからはその横顔しか見えなかったが、思わず息を呑んでしまった。
「……ウッソ…やだ、ホントにすっごい美人…綺麗…」
長い銀の睫毛に瑠璃色の瞳、白く透き通るような肌にすうっと通った鼻筋。形のいい唇が
緊張の為かキリ、と引き結ばれている。
ぴんと張り詰めた冬の空気にも似た、凛とした雰囲気の麗人だった。
「あんな…キレイな人が…イルカ先生のお嫁さん…」
周囲からも驚きのざわめきが聞こえる。
「おい、どこの誰だあれは…見た事もねえ美人じゃねーか…」
「いや、実はオレ、イルカが誰と結婚するのか知らないんだよ…いきなり結婚するって聞
いてさ…」
「まさかこれ、何かの仕掛けじゃねーだろーなあ…」
イルカの花嫁が予想外の美形だった為、妙に疑う者まで出てしまった。
「……イルカだぜ? 芝居する意味あるのかよ…」
「いや。あの花嫁がワケありだったりして…」
「そういや、イルカってさ…ホモとかいう噂あったよなー…そら、銀髪の上忍とつきあって
るとか…」
「噂だろ? ただの……」
ヒソヒソと囁きあうイルカの同僚の中忍達の肩に誰かが手を掛ける。
「おう、悪い。ちょっくら通してくれ」
「な…」
振り返った中忍達は、ぎょっとしてその男を見た。
「さ、猿飛上忍…」
アスマはさっさと人垣を分けて前に出ると、先ず火影に一礼した。
そして、新郎と新婦に笑いかける。
「遅くなったな。でも間に合って良かった…おめでとう、イルカ」
「あ、ありがとうございます…アスマさん」
アスマは優しく笑って花嫁の方に屈み込む。
「……よう。…幸せか?」
花嫁ははにかんだ笑みを見せる。
「…もちろん」
「そりゃ良かった…綺麗な花嫁さんだぜ」
「…アスマ…」
花嫁はぽろっと涙を零して、忍服のままのアスマの胸にしがみつく。
「ありがと……アスマ、怒ってるかと思ってた。…来てくれないかと…」
ひっそりと小さく呟くカカシをアスマは柔らかく抱き締め、周囲に聞こえないように声を
落として返す。
「ばっか…可愛い妹が嫁に行くってのに…誰が怒るかよ。おめでとう、カカシ」
そして、イルカの方にカカシを優しく押し戻した。
「お前さんも苦労すると思うけどな。…ま、よろしく面倒見てやってくれ、イルカ」
「そんな…苦労だなんて…」
その様子を遠巻きに見ていた周囲はああ、と少し納得する。
猿飛上忍と所縁の女性だったのか、と。
今までイルカと彼女が結婚するのを誰も知らなかったのは、おそらくひっそりとこの縁談
が進められたからなのだろうと。
「…アスマさん。悪いですが、彼女をお願いできますか。控え室まで連れて行って下さい。
……俺は祝いに来てくれた方々に挨拶をしなくてはいけませんが…」
「…イルカ先生…」
カカシが当惑したようにイルカを見上げる。
「……顔色が少し良くないです…疲れたでしょう? 貴女は今、大事にしなければいけな
い身体です…無理しないで休んで下さい」
「大丈夫…です」
「ダメです。…アスマさん」
イルカの呼びかけに、上忍は応じた。
「イルカの言う通りだな。おめえ、真っ白な顔してるぜ。血の気が無い。化粧の所為だけ
じゃねえよ、そりゃあ…」
アスマはイルカを振り返った。
「でも、ここで俺がこいつを連れて行くのも妙だぜ。お前が一旦こいつを控え室に連れて
行け。…そこまで俺が人が近寄らないようにガードしてやる」
「すいません。…火影様、そう言う事なので少し失礼致します」
「ああ、そうじゃな。そうした方がいい。…どれ、わしもついて行ってやろうの」
火影と、上忍のアスマが側にいる所為で皆遠慮してイルカ達には近寄っては来ない。
イルカは顔色の優れないカカシを気遣いながら、祝い客に一礼して控え室に引き上げた。
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