一方、大人しい中忍の教師という印象しか彼に持っていなかった者達は、その土下座に少
なからず驚いていた。
本来入室が認められるはずのない奥の間に乗り込んできたのも、男として愛した女性とそ
の子供を守りたい一心での事。
その場にいた男達がイルカの行動に同じ男として共感とある種の感動を覚えたその時。
カカシがイルカの脇にしゃがみ、その肩をトントンと突ついた。
「…イルカ先生」
「あ、はい…」
「あの〜…こんな時にナンですが……順序が違います」
「…順…序」
「アナタ、先ずオレにプロポーズすべきだと思うんですが」
「…………あ……………」
何とも緊張感を殺ぐ声をあげたイルカは、そそそ、と土下座の格好のまま体の向きを変え
た。
「そ、そうですね…すみませんでした。先走っちゃって…」
イルカは髪を揺らしてぺこんとカカシに頭を下げる。
「…あの、突然の事で花も指輪も用意しておりませんが……カカシさん、どうか俺の嫁さ
んになって下さい!! お願いします」
にこ、とカカシは微笑んだ。
「……嬉しいです、イルカ先生。……誰が認めてくれなくても、オレの夫は貴方だけです」
「カカシさんっ」
ギャラリーがいる事も何のその、また二人の世界に突入してしまった恋人達に火影はまた
もやため息をつく。
「…えー加減にせえ、二人とも。…何やら真剣に論じ合うのがバカバカしくなってくるわい。
……イルカ、お前も相当度胸があるのう…色々な意味で。……仕方ない、結婚でも何でも
好きにせい」
イルカは勢い良く頭を上げる。
「お許し下さいますかっ!!」
「わしがダメじゃと言うたら、お前ら里を抜けて駆け落ちしかねんからな」
「ありがとうございます!!」
再度頭を下げるイルカ。
これにはカカシも倣って頭を下げた。
やれやれ、といった空気が上忍達の間に流れる。
里長が認めたものを、これ以上強硬に反対する理由も彼らには無い。
「……この子…産んでもいいんですね…? 火影様…」
カカシの問いに、火影は祖父のような笑みを浮かべる。
「…そうじゃ、まだ祝いを言っておらなんだな。…おめでとう、カカシ。イルカもな。
…腹の子を大事にせいよ」
ああ、とカカシが安堵の息を吐く。
火影は椅子から立ち上がり、カカシを手招いた。
「額当てを取って、こちらに来なさい…カカシ」
カカシが言われた通りに火影の前に出ると、火影は手振りでカカシに膝をつくように指示
する。
「…お前の左眼を封じる。……子供を産み育てるには不要なものじゃ」
カカシは驚いたように目を見開いたが、火影の意図を汲み取って微笑みを浮かべた。
「……お願い致します」
火影はゆっくりと複雑で長い印を切る。
そして、チャクラを載せた掌をカカシの左眼にあてた。
「…ッ!!」
衝撃を堪えたカカシの唇から低い呻き声が微かにもれた。
ぐらりと揺れたその身体を、慌ててイルカが支える。
カカシの左眼はぴたりと閉ざされていた。
もう、カカシの意志でも目蓋を開く事は出来ない。
「……写輪眼のカカシは今この時をもって里から消えた。……いずれ、また里がその者を
どうしても必要とする日まで」
「…よろしいのですか? 火影様」
カカシとイルカが退室した奥の間で、居残った上忍達は里長を見た。
「……まあ、カカシひとり欠けたところで木の葉がどうなるものでもなかろう? 大体、
あの子が勇気を出して引き継いでくれなんだら、もうとっくに失われていた『眼』じゃ。
……それにな」
火影はにやりと笑った。
「生まれて来る子がわしは結構楽しみなのよ。…カカシは優秀な忍。そしてお前らは知る
まいが、イルカの家…うみのの血は実はなかなかいい血筋でのう……あの二人の子なら
ば、良い子が生まれそうじゃぞ」
カカシの出産に反対した上忍が苦笑を浮かべる。
「…火影様もお人が悪い…」
「そう言うな。…カカシが誰の子を孕んだのかわしもついさっきまで知らなかったからな
あ。…どこかの行きずりの男と寝るような子ではないが、事故は往々にしてあるものじゃ
ろ? …ああ、アスマ」
「はい」
「…先程は、よく言ってくれた。……悪いがな、これからもあの子らの面倒を見てやって
くれ」
アスマは唇を歪めて、どうやら『苦笑』と呼べる表情をつくった。
「仰せとあらば」
「あのね、イルカ先生」
「はい?」
二人は、暖かな日差しの土手をゆっくりと歩いていた。
「…オレ、お腹に赤ちゃんがいるってわかった時、すごく嬉しかった。…先生は?」
「もちろん、嬉しかったですよ。…とても驚きましたけど」
イルカは木陰に作られていたベンチにカカシを座らせた。
「…先生に、今日の事教えたのって…紅…?」
「そうです…後で紅さんにはお礼を言わなければ…アスマさんにも」
そうですね、とカカシは微笑んだ。
そのカカシの顔を、イルカは気遣わしげに覗き込んだ。
「眼は…大丈夫…ですか?」
「大丈夫です。…封じられた時は何だか熱っぽかったけど、今は平気。…普段から額当て
で隠しているでしょう? だから、見えないのは慣れてますから」
「何も眼を塞ぐ事は…と言いたいところですが、おそらく理由あっての事でしょうね」
カカシは頷いた。
「ええ…すべてオレの為にして下さった事です。…写輪眼が封じられたという事は、オレ
の里に対する忍としての責任がだいぶ軽くなるんですよ。今までよりはずっとね。…それ
と、この眼の能力は実は結構不安定でして。…発動すればチャクラも恐ろしく消耗する、
諸刃の剣なんです。……妊娠している状態のオレには危険だと…おそらくそういうご判断
だと思います。……里の事は心配しないで、子供をちゃんと産みなさいっていう火影様の
親心でしょう」
「そう…だったんですか…」
カカシはふっと自嘲気味の笑いをこぼした。
「……オレ、ずるいですよね。…さっき、オレ、泣いたでしょう……? あれ、別に嘘泣
きじゃあなかったけど、抑えようと思えば抑えられる涙をオレは…抑えなかった。…計算
が働いたんですよ。ここは泣いて見せた方がいい。…その方が火影様の気持ちを動かせ
るって…」
イルカは微笑んだ。
「それで正解でしょう。貴女は子供を守りたかっただけだし、それは火影さまにも伝わった
はずです」
そう言うと、イルカは表情を曇らせた。
「……俺は…子供が出来た事は素直に嬉しいです。…でも、カカシさん。出産は一方的に
女性に負担をかけます。…さっき、上忍の方が言ってらした通り、貴女は今、忍びとして
心身共に充実期なのだと俺にもわかっているのです。…その貴女に…俺は………」
カカシはくすっと笑った。
「避妊しなかった…わざと。…でしょ?」
イルカはびっくりした眼でカカシを見た。
「…いいんです。だって、オレもしなかったから。……オレだって、やろうと思えば出来
たんです…避妊。そういう薬もあるし、術もある。…でも、しなかった」
「どう…して?」
カカシは手を上げてイルカの頬にあてた。
「…たぶん、貴方と同じだと思います」
イルカは自分の頬に当てられたカカシの細い指をその上から手で包んだ。
「………自然に任せたかった。………貴方との間に芽生えるかもしれない命の可能性を、
初めから絶ちたくなかった………身体を重ねれば、必ず子供が出来るというわけじゃない。
だから……出来たら、それは天の恵みだろうと…そう思って…」
イルカはカカシを引き寄せた。
「…あらためて、言わせて下さい。……愛しています、カカシさん。俺の伴侶になって下
さい」
「じゃあ、オレにも言わせて? …愛しています、イルカ先生。オレをお嫁さんにして下
さい」
二人は目を合わせ、互いへの返事の代わりにそっと口づけを交わした。
カカシは微笑んで、自分の腹部に手を当てる。
「…良かったね、お父さん、お母さんのことお嫁さんにしてくれるって」
「お父さん……うわ、俺、ホントに父親になれるんですね。嘘みたいだなあ」
イルカはカカシの手の上から彼女のお腹にそっと触れた。
「それを言うなら、オレがお母さんって言うのも嘘みたい。…あ、何だか、イルカ先生って
オレよりおむつの当て方とか上手そうですよね〜…」
「ああ、結構得意ですよ。子守りの経験ありますから。…カカシさんは産むだけでも大変
なんですから、産まれた後の育児はもちろん喜んで協力します」
「頼りにしてます」
イルカはカカシを彼女の部屋に送り届け、自分の家に帰ろうと道を急いでいた。
何か、やる事がたくさんあるような気がする。
カカシに子供が出来た事を知らせてくれた紅にも礼がしたい。
正式な結婚手続きに必要なものは何だったか。
そうだ、結婚式はどうしようか。やはり、した方がいいのだろうか。
早足で歩きながら、イルカは取りとめも無く色々なことを考えていた。
忍としては、注意力が散漫になっていたと言うべきか、相手が悪かったと言うべきか。
イルカは声を掛けられるまで相手の存在に気づかなかった。
「よう、色男」
ぎくりとイルカは足を止める。
「…あ…アスマ…上忍」
アスマはイルカの行く手を遮るような格好でのそりと身を乗り出す。
「ったく、よーやってくれたぜ。……あのカカシを孕ませるたァな」
カカシの話で、彼が昔から彼女を守ってくれた保護者的存在であると知っていたイルカは
深々と頭を下げた。
「…お腹立ち…ごもっともだと思います。申し訳、ありません」
「ほお、謝るか」
アスマの皮肉な口調にイルカは眉を寄せた。
「…威張れる事をしたとも思えませんから。…今でも頭の片隅で、本当にこれで良かった
のだろうかと思っています。思慮に欠けた振る舞いだったかと」
「…そりゃあ、カカシを孕ませた事かい? それとも今日奥の間に乱入した事かい」
「両方です。若気の至りで済む事柄じゃないですから…両方とも」
イルカの声は、静かで落ち着いていた。
「…なるほどね。自分が絶対に正しい、とは思ってないわけだ」
「そんな事思えるわけが無いです。…ただ、俺は…俺は、カカシさんと、子供を守らねば
ならない、と。それだけで動きました。正しくは無かったかもしれませんが、後悔はない
です」
アスマはふ、と息をつく。
「…カカシが大事か」
「―――もちろんです」
イルカの眼が、挑むような光を帯びる。
アスマはそれを認めて、苦笑した。
「…俺もだよ。…俺もアレが大事だ。まあ、お前さんとは少し違う意味でな。…それでだ、
俺の大事な妹を横からかっ攫いやがった挙句、さっさと孕ませたような野郎には拳の
一発もくれてやらにゃ、気がおさまらねー…ってわけだ」
イルカはぎゅ、と拳を握り込み、短く答えた。
「……はい」
「いい覚悟だ」
ひゅっと風を切る音がし、気づいた時にはイルカの身体は木の幹に叩きつけられていた。
てっきり顔面を殴られると思っていたイルカは、腹部に叩き込まれた拳を腹筋でガードす
るのが一瞬遅れる。
痛みと衝撃を頭が理解したのは一拍間が開いた後だった。
「げふっ…」
「顔殴ると痕が残るモンなア。…カカシに蹴られちまう」
アスマはサバサバした口調で言うと、イルカの上に屈み込んだ。
「…バトンタッチだ。…これからはお前がアイツを守れ」
イルカはハッとアスマを見上げる。
アスマの真面目な眼に、イルカは胸を突かれた。
腹を押さえ、大きく頷く。
「はい!」
そして、今度は謝罪ではなく、感謝の為に頭を下げる。
「―――ありがとう、ございました」
「お前にしてはあっさりと手放したな。…『大事な妹』を」
イルカが歩き去ったタイミングを見計ったように、エビスが姿を現す。
「まあな。…奥の間に飛び込んできた度胸に免じて…と、いったところかね。それにまあ、
どうやら周りが見えていない阿呆でもなさそうだから……許した」
アスマはゆっくりと紫煙を吐き出す。
「…あれで、自分達は愛し合っているんだ、とか、何が悪いんだと開き直られたら頭にき
ただろうが。自分は間違っていない、と手前勝手な理屈で正義を掲げて突っ走るバカも多
いからな。…ヤツは違った。…自分が間違っているかもしれない事を承知で、その上で自
分の誠を押し通す気だ。…責任を取るってぇ意味をはき違えてはいねえようだ」
「…なるほど」
エビスは苦笑を漏らした。
「それは、結構。…火影様ではないが、生まれて来る子が楽しみだ」
アスマもつられたように笑う。
「あれが母親かよ。…世も末だねえ……」
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