戦うDaphne−1

 

ああ、この忍服も着るの久し振りだなあ、とカカシは濃紺のアンダーを頭から被った。
晒しで胸をぐるぐると締め付けるのも久し振り。
「……最近は吸われないと出てこないみたいだけど、大丈夫かなあ…」
溢れてくる事は無いだろうと思うが、晒しで乳房を押し潰す事に少々不安を覚える。
チドリを産んだばかりの頃に比べたら少なくなったが、まだカカシの乳は充分豊かに張っ
ていた。
「染み出て匂わなきゃいいけど…」
手早く装備を確認して、最後に額当てをつけようとしたカカシは手を止めた。
「…髪……」
だいぶ、伸びている。
妊娠してからこっち、あまり髪を切ってはいなかったのだから当然だが。
「いきなり呼び出すんだから…切る暇なかったじゃない…」
カカシは箪笥の上段の小ひきだしからイルカの髪紐を取り出して、項で一纏めにした髪を
括る。
それで以前のように額当てを斜に当てると、鏡の中には昔と変わらない『はたけカカシ』
がいた。
「……ん、こんなもんか…」
襟足からちょろんと細い銀のシッポが覗いている他は、前と何も違わない。
出産後、体重も速やかに元に戻った。
足腰、腕。
無理をしない程度に筋力トレーニングも始めている。
カカシは寝室から出ると、台所にいる老婦人に声を掛けた。
「では、すみませんが留守の間チドリを頼みます、おヨネさん」
「はい、お任せください、カカシ様」
ヨネはジャガイモを剥いていた手を止め、丁寧に会釈した。
「…そうしていると、イルカちゃんと結婚なさる前みたいですわね。変わらず、凛々しい
事。……いってらっしゃいませ」
「…出来るだけ、早く戻ります」
カカシもぺこんと頭を下げると、ベビーベッドに眠る息子の髪を愛しそうに撫でてから玄
関に向かった。

久々にカカシは火影に呼び出されたのだ。
『はたけカカシ』として。
カカシは面倒そうに伸びをすると、軽い屈伸の後地を蹴って塀を足掛かりにし、跳んだ。
「う〜ん、ちょっとリハビリ必要かなあ…」
跳躍力が少し落ちているような気がしたカカシは苦笑いを浮かべた。
イルカの妻になろうと、チドリの母になろうと。
自分は『忍』なのだから。
持てる能力を磨き、万全の体調でいる事。
それが当然の『義務』なのだ。
「………でもカカシとして復帰しろって命令だったらヤだなあ……まだ本調子じゃないか
ら…それに…オレはまだ…」
カカシはため息まじりに呟くと、火影の執務室を目指した。


戸口に控えていた警護の忍は、カカシの顔を見ただけで戸口の脇に寄った。
それに軽く手を上げて応えてから、カカシは戸を叩いた。
「…カカシです」
「お入り」
「失礼します」
中に入ったカカシは「おや」とほんの少し眉を上げる。
先客がいた。
「……環(たまき)…」
以前はカカシと共に危険な任務にもついていた環だった。
「や、久し振りだね、カカシ」
「……ああ」
カカシは言葉少なに応じると、里長を眼で伺った。
「では、早速だが本題に入ろうかの……カカシ、…環は今、上忍師として新人の下忍を担
当しておる」
「……はあ」
サクラのおしゃべりの中で時々聞いていたから、環が彼らの教官である事は知っていた。
環は静かな風体の男だった。年齢は確かカカシより2、3歳ほど上だったか。
沈着冷静な性格、判断力の確かさ。
教官という任にふさわしい男だとカカシは思う。
だが、この執務室に環と共に呼び出される理由。
嫌な予感がする。
「彼は今年アカデミーを出た子達を預かっておるわけなのだが……うちはサスケ、うずま
きナルト、春野サクラ…というメンツをな」
「はあ」
カカシはまた曖昧に頷いた。
「実はな、カカシ。……サスケがこの間、任務中に…まだ不完全ながらも写輪眼を発現さ
せてしまってな…」
カカシの眉がぴくりと動く。
「…写輪眼…を?」
環は大袈裟に肩を竦めて見せた。
「……情けないが、私にはアレの面倒は見きれない。正直言って、目の当たりにするまで
はタカを括っていたんだが、あれは単なる瞳術じゃないな。―――きちんと眼の本質を知
る人間が指導する必要があると判断した」
「………火影様、まさか……」
火影は頷く。
「…カカシ。……上忍師として下忍の指導を命ずる。その代わり、指導の期間中はS及び
Aランクの任務を免除しよう」
予感的中。
うぅっとカカシは小さくうめいた。
「…オレに教官なんかが務まるとでも…?」
「写輪眼の使い方をサスケに教えられるのはお前しかおらん。遅かれ早かれ、お前にあの
子を任せようとは思っておった」
「オレは誰にも教えてもらってない! でも、何とかなりました。あんなもん、身体で覚
えていくもんです!」
「それを得た時、お前は既に上忍だったろう。まだヒヨコのサスケを自分と同じだと考え
てやるな」
カカシは表面平静を装いながら内心地団駄を踏んで暴れていた。
(何がヒヨコだっサスケはもう12だか13だろうっ! 甘えてんじゃねーっ! オレの
チドリはまだ6ヶ月だーッ! 離乳食も始めたばっかで、目を離しちゃいけない時期なん
だぞバカヤローッ! てーか、オレまだ乳なんか出ちゃうしっ…どーすんだよ、 クソジ
ジイ!)
ひとしきり心の中で毒づいてから、カカシは深呼吸して気持ちを落ち着けた。
「……里長の命には従う義務が私にはありますが。…火影様もご存知の通り、今の私は少々
個人的に複雑な事情を抱えております。それでも私に上忍師が務まるとお思いですか」
「思うから呼んだ。…カカシよ。何もお前に何から何までやれと言っておるわけではない。
環も続けて指導につく。特例だが、お前はサスケの個人指導をするに等しいな。…だが、
彼らの任務に同行しなければならない事もあるだろうから、指導中はS、Aランクの任務
にはつかんでいいと言っておるのだ」
カカシの拳が小刻みに震えた。
この里長には世話になった。
イルカとの結婚も半ば泣き落としで認めてもらった。
今も自分の家の使用人であるヨネを子守りに寄越してくれている。
この命令が、以前通りの任務に就くよりはカカシにとって負担が少ないものである事もわ
かっている。
何より、『火影』の命令に上忍のカカシが逆らえるわけがないのだが。
それでも今回は敢えて逆らいたかった。
まだ赤ん坊の息子の側にいてやりたい。一日中、側についていたいのだ。
「ですが、火影様…っ」
そうカカシが言い差した時、静かなノックの音が響いた。
「…お入り」
「失礼致します」
入って来た人物に、カカシは一瞬眼を見開く。
だが、務めて冷静に少し下がって火影の前をその人物の為に空けた。
その所作に対して、彼は会釈して礼を言う。
「…すみません。…火影様、お申し付けの資料をお持ちしました」
「ご苦労、イルカ。その資料はカカシに渡してやれ」
「はい。…どうぞ、カカシ上忍」
カカシはもう内心半泣きだった。
「聞いて下さいイルカ先生〜っ…火影様ったらひどいんですよお」
―――と、夫の胸に縋り付いて訴えたい。
だが環がいるのにそんな真似が出来るわけがなかった。
「あ…どうも……」
ぎこちなく手を出してイルカから書類のファイルを受け取った。
「7班の下忍達の、アカデミーの時からの資料です。家族構成、家庭環境、本人の身体デ
ータ、アカデミーでの成績、それから下忍として任務を請け負い始めてからの報告書の写
し。……他に必要なものがあれば仰って下さい。こちらで用意出来るものはお渡しします」
「……はい」
イルカはもうカカシが受けた命令について知っているのだ。
どうして反対してくれなかったのかなあ、いや、イルカ先生が火影様の命令に逆らえるわ
けないし――などとカカシが胸の内で呟いていると、いきなり環がくぐもった笑いを洩ら
した。
「……随分と他人行儀な夫婦だな」
カカシは右目を見開いて環の方を振り向いたが、イルカは動じた風もなくほんの少し苦笑
を浮かべた。
「…仕事中ですから。プライベートではきちんとそれなりに夫婦をやってますのでご心配
なく」
だが、カカシの方は落ち着いてなどいられない。
環はカカシが女である事も知らないはずだった。少なくても以前は。
「環っ!! お前知って……」
「……ああ。今さっき全部教えてもらった。……何と言うか、驚いたけどな」
「火影さまっ!!」
自分に無断で秘密を他人に漏洩するとは何事か。
カカシは里長を睨みつけた。
「仕方ないじゃろ。……お前が独身ならまだしも、乳飲み子がおる母親だ。環が事情をま
るで知らない場合、お前におそろしく負担がかかるじゃろうが…そんな苦労をさせたくは
ないのでな。環の人柄も考慮の上、打ち明けた。…環は死んでもお前の秘密を他人に話し
たりはしないと誓った。信じろ、カカシ」
環は真面目な顔で頷いた。
「…お前にも、それからイルカにも約束する。お前たちや火影様の許可なしに事情を他人
に洩らしはしない。この約束を違えた場合は、己の命をもって償う」
「……環…」
「いや、お前が女だってだけでも充分驚きだが、もう子供までいるってのが更に驚きだ。
……一緒に仕事していた時は全然気づかなかった……大したものだ」
笑う環に、カカシもようやく表情を柔らかくする。
「…アスマだって、最初は知らなかったんだ。……オレ自身、自分が女だって意識が低か
ったからな……わかった、環。お前を信用する」
「では、サスケの面倒を見てくれるな…?」
火影の言葉に、カカシは当然の懸念を口にする。
「……ですが、子供達はオレを知っています。…『芥子』を知っているんです。ナルトは
ともかく、サスケとサクラは『男』のオレにも会っていますから。たぶんすぐに気づくで
しょう……子供達にも事情を話すおつもりですか」
環も渋い表情になる。
「……サスケなら…あの子はおそらく言うなと言えば墓場まで秘密を抱えていくタイプで
す。サクラは非常に頭が良い子ですが…まだ少し子供なので心配が残りますね。………ナ
ルトに至っては……」
言いにくそうな環の言葉をイルカが引き取った。
「…ついうっかり大声で叫びかねませんね」
執務室に複数の重いため息が流れる。
「カカシの事を知っているのは、今まで上忍クラス、それもほんの一握りの口の堅い者に
限られた。後は医師が一人。それにイルカ。……いずれも事の重大性をしっかり認識出来
る大人だ。……まだアカデミーを出たばかりの子供には重荷であろう…」
火影の声がしばし迷うように震える。
「……故に、子供らには可哀想な事かも知れぬが…枷をかける」
はじかれたように顔を上げたのはイルカだった。
「まさか…」
環は少し眉を寄せた。
「…心縛術を…使うおつもりなのですね……?………つまり、不用意に『秘密』を口にし
ようとした場合、心臓に負荷がかかる術を」
嫌悪感を表情に滲ませたのはイルカだった。
だが彼は己の立場から黙って唇を噛む。
火影はそんな青年を見遣って深い息を吐く。
「…そう…心縛術の一種じゃな……そんな顔をするな、イルカ。話そうとすれば死ぬと言
う術ではない。ついうっかり秘密を言いそうになった時に肩をつかんで引き止めるのと同
じ程度のものだ。もっとも、その警告を無視した場合は…命にかかわるが…の」
イルカはますます唇を噛む。
子供達にそんな真似をしなければならないのは自分の所為だ。
カカシが独身のままなら『女』として彼らに会う事はなかっただろうから、正体を明かす
必要も無く―――心縛術も不要であったのに。
「イルカ」
火影の柔らかな呼びかけに、イルカは顔を上げる。
「…はい」
「だから、そんな顔をするでない。…わしもな、チドリが可愛い。あの子が生まれて良か
った、嬉しいと思っておる。親のお前があの子の存在を否定するような感情を持つもので
はないよ」
「火影…さま…」
イルカの頭は自然に下がった。
カカシはそっと夫の傍に寄ってその腕に触れる。
「………オレも…この先どんな事があっても…あの子を産んだ事を後悔はしないから…だ
から、イルカ先生。…何があっても、ご自分の所為だなんて思わないで下さい。…逆に、
オレは貴方に申し訳なく思う……オレがこんな面倒なものを抱えている所為で、貴方に心
配や苦労ばかりかけてしまう…」
「カカシさん、そんな…! 何もかも承知の上で俺は貴女を望んだんです。…すみません
でした。まだ少し覚悟が足らなかったようです…」
カカシは切なそうな笑みを浮かべる。
「オレもですよ。少しね、覚悟が足らなかった。…こういう事もあるのだと、当然予測す
べきでした」
そしてカカシは里長に向き直った。
「…火影さま。……サスケ達にはオレから話します。そして、その時の反応を見て心縛術
をかけるかどうか…決めれば良いのでは?」
「では、カカシ……」
カカシは頷いた。
「サスケの件、了解致しました。…彼の瞳術の指導教官の任、お受けします」

 

 



7班の先生、既存のキャラを使わせて頂こうかと思ったんですが、色々考えた結果オリキャラになってしまいました。
後の話の展開の都合上です。申し訳ありません。

 

 

(………ああ、コレ書いた当時、テンゾウがいてくれれば…っ! と思わずにはいられない…^^;)

 

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