「ねー、先生のお弁当ってさー、これ自分…で作ったのかしら…」
もぐもぐ、と美味そうに握り飯を頬張るナルトの膝に置かれた弁当を見て、サクラは首を傾げた。
「おにぎりだけじゃなくて、ちゃんと卵焼きとか色々おかずまであるもんね〜…」
「それがどーかした? サクラちゃん」
ナルトはきょとん、として卵焼きを口に入れた。サクラは唇の動きだけで「ばぁか」と言った。
「だからアンタ鈍いのよ。…これ、先生が作ったとは到底思えないもん。てぇ事はよ、先生はこれ、
彼女にでも作ってもらったかもしれないって事じゃない!」
何故か声を落として、ヒソヒソと彼女はナルトの耳元で囁いた。
「だったらマズイわよぉ。…あたしだったら、サスケ君にって思って作ったお弁当、あんたが食べ
ちゃったらすっごいショックだもん」
黙々と食べていたサスケがさりげなくススス、とサクラに背を向ける。ほんのり赤くなった顔をサ
クラにもナルトにも見られたくないらしい。
サスケに対する恋心を隠そうともしないサクラの言動にはもう慣れっこになっているナルトは、特
に傷ついた風でもなく手元の弁当に目を落とした。
「でもさ、でもさ、コレ食っていいっつったの先生じゃん。…それでもダメなわけ?」
遠く離れて座り、いつものように本を読んでいるカカシにサクラはちらりと目を遣った。
「あーもー、わかってないんだからぁ……だから余計ショックなのよ! 作った方としては!」
ナルト達の会話を聞くとはなしに聞いていたカカシは小さく笑った。
サクラは声を押し殺していたが、この位の距離ならば上忍のカカシには造作も無く聞き取れる。
(なーるほどねえ…ま、もし『彼女』ならサクラの言う通りかな。 )
でも、『あの人』なら。サクラの言うような反応は絶対にない。
彼が怒るとすれば…弁当がどうしたとか些細な事ではないだろう。カカシよりも年下であるにも
拘わらず、イルカは時々まるで保護者のようにカカシを包み込んでくれる。
(大丈夫なんだよ、サクラ。その弁当を作ってくれた人はね…オレなんかを本気で懐に入れてく
れる、度量のある人なんだから… )
それにしても、もう少しバランスを考えてパンの種類を選べよ、と内心ナルトに文句を言いながら
三つ目の甘いクリーム入りのパンを仕方なく齧るカカシであった。
弁当が包んであった小風呂敷をナルトから取り戻したカカシは、それを懐にイルカの部屋へ『帰
宅』した。
おそらく…いや、確実に自分より支給金が低いであろうイルカに、あまり一方的に食事をたかっ
てはいけない。そう考えたカカシは、帰りに惣菜を買って、小風呂敷で包んだ。
カラのものを返すより、その方がいいような気がしたのだ。
コンコン。呼び鈴のないイルカの部屋の、粗末な木のドアを行儀良くノックして。
数秒待つと、カカシの期待通りの穏やかな笑顔でイルカがドアを開けてくれた。
「ただいま。…って、オレんちじゃなかったですね、ここ」
イルカはにこ、と笑う。
「いいんじゃないですか? 貴方、今朝はここからご出勤なさったんだし。…おかえりなさい」
カカシはハイ、と手にしていた包みをイルカに渡した。
「え…これ…あ、暖かい。何か持ってきてくれたんですか? …あ、焼き鳥ですね? いい匂い
だ」
風呂敷の上から匂いをかいで、イルカは嬉しそうな顔をした。
「豚汁、もう少しで出来ますから。…上がって、楽にしてて下さい」
「すいませんね。イルカも仕事で疲れているのに」
「いえいえ。カカシ先生もお疲れ様。あ、お茶でも淹れますね」
カカシはよっこいしょ、と柱に背を預けて座り、重いベストを脱ぎながら首を振った。
「お気遣いなく」
イルカはそんなカカシの返事を聞いているのかいないのか、やかんを火にかけている。
「……そう言えば…今朝はすみませんでした」
カカシはきょとんとした。
「今朝?」
「…俺が…その、貴方のお出かけの邪魔しちゃって…時間過ぎているのにあんなキスしちゃっ
て…」
ああ、とカカシは微笑った。
「あれですか。それこそ気にしなくていいですよ。…多少待つのも修行の一環。あいつらはま
だまだですねえ…オレが遅れる度、カリカリイライラしているのを隠そうともしない。もう少しポ
ーカーフェイスも出来なきゃねえ…あの、ガキの割にクールなサスケでさえ、完全には気をコ
ントロール出来てない」
「…そういう修行もアリですか…じゃあ、俺もまだまだですねえ」
ふとイルカが振り返ると、離れて座っていたはずのカカシがすぐ後ろに立っていた。
「イルカはすぐ赤くなっちゃいますもんね」
「カカ……」
まるで子供がおんぶを要求するように、イルカの背中にくっついたカカシは両腕を彼の首に
回した。イルカの首筋に鼻先を埋め、目を閉じる。
「…カカシ先生…?」
「…オレ、卵焼き食べ損なってしまいました」
「………は?」
「他のおかずも」
きゅう、とカカシはイルカに抱きつく力を一瞬強めた。
「…あいつ、そこら辺の店でね、パンなんか買って来ていたんですよね……オレ、どーもなけ
なしの良心が痛みまして…貴方の作ってくれた弁当をあいつの側で食うの。…オレはまた
夜に貴方の作ったもの食えるのに」
イルカは事情を察し、カカシの腕をぽんぽん、と優しく叩いた。
「……弁当、ナルトに食わせてやってくれたんですね…?」
こくん、とカカシの頭が動いた。
「あいつのパンと交換しました」
それは、本当はナルトにも弁当を作ってやりたかったという、イルカの気持ちをも汲んだ結果
の行為だという事が彼の少ない言葉からも察せられ、イルカの胸の中を暖かくした。
カカシの腕を、きゅっとイルカは握る。
「………カカシ先生、腕、緩めて下さいよ」
「あ、すいません。重いですよね」
そうじゃなくて、とイルカは微笑った。
「この体勢じゃ、俺の手が貴方に届かないからです」
カカシが腕を緩めると、イルカはゆっくりと反転してカカシと向かい合う。
「イル……」
イルカの腕が伸ばされて、カカシの胴体をぎゅっと抱き締めた。
「…ありがとうございました」
カカシの思いやりが、カカシがそういう心を持っている人間だという事が、イルカには嬉しかった。
ほ、とカカシがイルカの耳元で息をつく。
「……良かった。…やっぱり貴方は怒らない…」
「…何で俺が怒るんです…?」
昼間のサクラとナルトのやりとりを話そうかな、とカカシが口を開きかけた時、どんどん、と無遠
慮なノックの音が響いた。
「………」
イルカとカカシは一瞬顔を見合わせたが、カカシがすぐに腕をほどくとイルカはドアに向かって
誰何(すいか)した。
「はい。どちら様?」
「………せんせー…オレ」
とても聞き覚えはあるが、元気のない声が応えてきた。
「ナルトか、どうした?」
イルカはそっとドアを開けて顔を出してやる。
「…あのさ、オレさ…相談とかできんの、イルカ先生しかいねーから…そいで…」
「……相談? 込み入った話か?」
ナルトはもじもじ、と普段の遠慮のなさからは考えられないほど歯切れが悪い。
「ウン……ウウン、た、大したコトじゃねーんだってば……オレ、さっきカカシ先生んち行ったんだ
けど、せんせ、いなくてさ…」
「何だぁ? ナルトー、オレに用事かー?」
突然、部屋の奥からカカシの声が聞こえて、ナルトは飛び上がって驚いた。
「エ――――ッ カカシせんせ、何でいるんだってばよ――――ッ」
カカシはイルカの背後からのそ、と顔を出した。
「そりゃお前、出来の悪い生徒の傾向と対策を、元担任の先生にくわしーくレクチャーしてもらって
るワケだよ。…お前、ゲタはかしてもらって卒業したっつう自覚をもっと持てよな」
「…ゲタ??」
ナルトはカカシの言い回しが理解出来ないのか、目をぱちくりさせている。
イルカは苦笑をかみ殺した。
「ゲタはかせるっていうのは、本当は点数が足りないのに、水増し点数で足りている所まで持って
いくってコトだ」
イルカの説明に、ナルトは頬を膨らませる。
「何で水増しなんだってばよぉ。…オレ、ちゃんと分身の術、出来たじゃん」
「お前ねえ…その経緯を考えりゃ、あんまり威張れないでしょー……それから、オレの方ははっきり
言って、ゲタはかしてやったからな」
カカシの容赦ない言葉に、ナルトは「たはー」と小さくなる。
さすがのナルトも、下忍への最後の関門を自力で突破したとは断言出来ないようだった。
「そいで、オレに何の用?」
あ、とナルトは顔を上げた。
「中、入るか? ナルト」
イルカの問いかけにナルトは首を振る。
「ん〜ん、いいってば。……あのさ、カカシ先生、お昼、オレに弁当くれたじゃん? …カノジョに怒ら
れたり…しなかった?」
目を丸くしたのはカカシではなくてイルカの方だった。
「…カノジョ…?」
「ん。サクラちゃんがそう言ったってばよ。カカシせんせーのお弁当、きっとせんせーのカノジョが作っ
たんだって…それをオレが食っちゃったから、カカシ先生カノジョに怒られるんじゃないかって…」
カカシは屈んでナルトの頭を軽く小突いた。
「お前、それが気になってオレんち行ったのか? …ばっかだなあ。確かにな、弁当は作ってもらっ
たモンだけど、その人はお前に食わせたコトを怒るような心の狭い人じゃないんだよ。気にすんな」
ナルトはホント? とカカシを見上げた。
「……本当」
カカシはさりげなくイルカに目配せする。事の次第を全部飲み込んだイルカは、ナルトに笑いかけた。
「カカシ先生がこう言ってんだから大丈夫だ。…弁当、美味かったか? ナルト」
ナルトは目を輝かせた。
「うん! すっげー美味かったってば! …イルカせんせも早くあーゆー弁当作ってくれるカノジョ、
みっけなきゃダメじゃん」
途端に、イルカの脳裏にナルトの悪戯、『お色気の術』にまんまと引っ掛かってしまった恥ずかしく
も嫌な過去が甦り、思わず声が低くなる。
「よけーなお世話だ、マセガキ。…晩メシ、食わせてやろーかと思ったけどやめだ」
「あーっそんなー! せんせーッ一楽のラーメン〜〜〜」
途端に悲痛な声を上げるナルトに、イルカは苦笑する。
「ラーメンばっか食ってんじゃないよ。栄養偏るだろーが。仕方ないな、待ってろ」
イルカは奥に引っ込み、しばらくしてから小さな鍋を持って出てきた。
「野菜、いっぱい入ってるからな。ちゃんと食えよ。…お前も忍者の端くれなんだから、汁をこぼさず
に持って帰れるだろ?」
「味噌汁?」
「豚汁だ。ここで食ってってもいいけど。どーする?」
ナルトは背の高い二人の教師を代わる代わる見上げた。
「……持って帰って食う。…なんか、せんせー達と食ったら、食ってる間中二人からセッキョーされ
そうでヤダ」
「遠慮すんなよ、ナルト。ねえ、イルカ先生」
カカシとイルカに、にやにやしながら見下ろされたナルトはそろそろと後ずさった。
「ん〜ん、オレ、先生達の仕事の邪魔しねーってば…じゃ、イルカ先生…後で鍋、返しに来んね…
…」
「おー、気ィつけて帰れよー。鍋は明日でも明後日でもいいからな」
肩の荷が下りた、といった顔でナルトはカカシとイルカに手を振って帰って行った。
「……女の子って、本当にオマセさんですね」
笑いを堪えながらイルカは戸を閉めた。
「…カノジョ、じゃなくて『彼』なんですけどねー…弁当作ってくれたの」
「ええ、子供に弁当食わせたからって怒るような心の狭い『彼』じゃなくて、良かったですね、カカ
シ先生」
「はあ、幸せモンですねえ、オレ」
そこで二人は我慢しきれなくなって、盛大に噴きだす。大声で笑うと隣近所への迷惑になるので、
二人とも懸命に声を殺して笑い続けた。
「あは…涙でた……腹いて〜…」
「こ、こんなに苦しい笑い方…したの…久し振り……」
涙をぬぐいながら、イルカは台所に戻った。
「もっとちゃんとナルトを引き止めてやれば良かったですか? イルカせんせ」
「え…いやあ、いいですよ。あれは遠慮じゃなくて本気で嫌がってたようですから」
「すいませんね…オレがいなけりゃアイツも上がってメシ食ったんだろうにな…」
「わかりませんよ。俺はよくメシ食いながらヤツに説教しますから。…だから今も後ずさって逃げて
行ったんだと思います。……それに…ナルトがいればいたで迷惑とは思いませんが…正直なと
こ、貴方と二人きりの方が…その…俺…」
カカシはコンロの前で口篭もっているイルカを背後から抱きすくめた。
ビクッとイルカは身体を震わせる。
「…さっきの続き、いいですか?」
ナルトに、さっきまでのあのいい雰囲気を壊されたカカシは、物足りなくて仕方なかったのだ。
「だ、ダメですよ…ほら、もう湯が沸きますし…」
イルカは宥めるようにカカシの腕を軽く叩いて、はずそうとする。
「……朝の続きもしたいと思うんですが…」
食い下がるカカシ。
「…食って、風呂入ったらしましょうね。ほら、食べ損なった卵焼き、作ってあげますから」
照れ隠しなのか、背中にカカシを貼り付けたまま、イルカはせっせと食事の仕度を敢行している。
「風呂なんか入ったら、オレまた泊まっちゃいますよ。いいんですか?」
「俺は構いませんけど…ご自分ちのお風呂の方が良ければ敢えてお引き止めはしませんが?」
「引き止めて下さいよ〜…冷たいなあ。今、風呂入ったらしましょうって言ったくせに〜」
ぴた、とイルカの手が止まった。
「………」
「……イルカ…?」
いきなりくるりとイルカは向き直り、『お伺い』もなしにカカシに口づけてきた。
予測もしていなかった、噛みつくようなキス。おまけに、背骨が軋むかと思うほどきつく抱き締め
られて。
「んん…ッ……」
(わかった! わかりました! 貴方の気持ちはイタイ程…ッ! ――ホントに痛いです…肋骨
のあたり)
…というカカシの心の叫びが聞こえたかのように、イルカはカカシを解放した。
「……と、言うわけですから…晩飯抜きで明日の朝を迎えたくなかったら、今は離れてて下さい
ね。俺は今、飯を作るという使命感を維持する事によって、自分の欲求行動を抑えているんです。
…でも、貴方の体温を感じていたら、理性なんかどこかへ行きそうなんですよ」
「…すっごくよくわかりました。……冷たいなんてもう言いません…」
つまり、今これ以上カカシが余計な接触をした場合は、晩飯も風呂もすっ飛ばして即ベッドだと、
イルカは脅しをかけてきたのだ。
おまけに言葉のニュアンスから察して、翌朝まで食事は無しらしい。
「イルカ先生って、オレが思っていたよりずっと情熱的なんですねー…」
調理作業に戻ってカカシに背を向けていたイルカの肩がぴくんと揺れた。
「…………俺も驚いています。…自分に」
人と人は、つきあう時間を積み重ねていくにつれ、互いの見えていなかった部分を発見する。
それは、相手の事だけではなく、自分自身の発見にもつながっているのだ。
今まで、イルカは温和な男だと言われてきた。イルカ自身もそう思っていた。
だが、自分自身の心の奥にも、熱い、凶暴な獣が巣食っていた事にイルカは気づかされてしまっ
たのだ。イルカは振り返り、何とも言えない切なげな微笑を浮かべる。
その、半分泣きそうな笑みを、カカシは不思議な思いで見つめていた。
「イ……」
カカシが口を開きかけた時、どちらのものか判じ難い、かすかな腹の虫が鳴いた。
『クゥ』
イルカの表情が、すうっといつもの穏やかな笑顔に戻る。
「カカシ先生、お昼パンだったんですもんね。腹減りますよねー…すぐにご飯にしましょうね」
「やだなあ、今鳴ったの、イルカ先生の腹でしょー?」
「えー、カカシ先生の腹ですよ」
イルカの用意してくれた焼きおにぎりと豚汁、卵焼きに、カカシのおみやげの焼き鳥。
それらは、いい加減空っぽになりかけていた胃袋を暖かく満たしてくれ、心の方も落ち着か
せてくれる。 だがカカシの脳裏には、先程の半分泣きそうなイルカの笑みが、いつまでも印象
深く焼きついて離れなかった。
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