今日は任務が無かった。
正確には、カカシの率いる第七班が受けられるような任務が無かったのだ。
いつもなら、「じゃあ、今日は訓練」という事になるのだが、カカシはその気になれなかった。
任務受付所にはカカシの見慣れぬ中忍ばかりが座っていて、イルカの姿はない。
イルカと顔を合わせなかった事に少しほっとしている自分に、カカシは愕然とする。そんな気
持ちになったのは初めてだった。
それじゃあ今日はどんな訓練をするの? と見上げてきた子供達に、
「今日は解散。自主トレでも何でも好きにしろ」
と告げて、カカシはサボリを決め込んだ。
任務の無い上忍が、情報交換や休息に使用している棟が目に入り、カカシは何気なく其処
へ足を運ぶ。茶くらいは飲めるし、誰か暇つぶしの相手が見つかるかもしれない。
ただ、それくらいのつもりだった。
気軽に声を掛けられるような知り合いは其処にはおらず、カカシは紙コップのコーヒーを両手
で包んでぼーっと長椅子に腰掛けていた。
(……何やってんのかね、オレ…)
サボると決めたのに、手持ち無沙汰で時間を持て余している図、というのは我ながらマヌケ
だと、カカシはため息をついた。更にぼーっとしていたカカシは、何気なく聞こえてきた会話に
耳をそばだてた。
(―――今、何て…?)
会話は女性同士の声。椅子の脇に置かれている観葉植物のせいで、姿は見えない。
「あ、知ってるわ。…時々、任務の受付所にいる中忍でしょ? 鼻んトコに傷のある、黒髪の」
「そうそう。アカデミーの教師兼任しているって話」
「真面目そうに見えるよね。…何、アンタあーゆーのタイプ?」
「…んー? 悪くないと思うけどなー。それにねえ…最近、ちょっと色っぽい感じ、すんのよね」
「えー、男の色気?」
クスクス、と笑う声。
「いいじゃん。あーゆー男は惚れさせたら勝ちよぉ。きっと、尽くしてくれて、お買い得って感じ」
カカシはもう少しで持っている紙コップを握り潰しそうになった。
(―――イルカ…先生。 )
女性達が話題にしていたのがイルカの事だと気づいたカカシの心中は穏やかならざる感情が
渦巻いて…思考は凍結一歩手前のていたらくであった。
「………何やってんだ? お前」
紙コップを握ったまま固まっていたカカシを、ひょいと男は覗きこんだ。
「……アスマ…?」
「目ぇ開けたまま、寝てんじゃねーよ。まぎらわしい」
無遠慮にどさりと隣に腰掛けたアスマは新しい煙草を取り出して火をつけた。
「…寝てないけど……」
「嘘こけ、オレが声かけるまで全然気づかなかったじゃねーか。30秒はお前の真ん前に立っ
てたんだぜ?」
「…あ、そ……」
さしてそれを気にする風でもなく、カカシは持っていた紙コップをアスマに差し出した。
「飲む?」
アスマはやれやれ、と顔を顰めた。
「……いつのコーヒーだよ…」
どう見ても冷めきっているうえ、埃が浮いている。
「…………」
カカシは紙コップを床に置いた。
「おい…」
「あ? ああ、後でちゃんと捨てるよ」
そーじゃなくて、とアスマは頭を抱えた。
「お前、ずっとここにいたのか? 昼前に見かけた時もここに座っていたじゃないか」
カカシは壁にかかっている時計を見上げる。
「………三時…過ぎてる…?」
「おいおい、どーかしちまったんじゃねーか?」
はあああ、とカカシは盛大なため息をついた。
「…アスマぁ…」
「あ?」
「……あんた、好きな人いる?」
アスマは思わず椅子からずり落ちかけた。
「おめ…まさか……」
アスマの頭の中で、この事態に対する二択が行われた。
一、
大声で笑い飛ばし、ひやかす。
二、 真面目に相談に乗ってやる。
アスマにとってこのカカシの状態は非常に珍しく、かつ興味のある出来事だったので、二を選
ぶ事にした。からかったが最後、カカシは拗ねて何も話さなくなるだろう。
それではつまらない。
そこで、しごく真面目な顔を作り、悩んでいるらしいカカシ青年の肩など叩いてみる。
「…おにーさんで良かったら、話くらい聞いてやるぞ? 自慢じゃねーが、場数は踏んでるか
らな。…どんな女に惚れたんだ?」
カカシはぼーっと顔を上げ、何か言いたげに両手を浮かせ…わきわき、と指を動かしたが、結
局何も言わずに手をぽとん、と膝に落とした。
(……うわあ、重症かも…)
アスマはカカシの様子に目を丸くする。
「…ごめん……いい…」
カカシはふわっと立ち上がってアスマに弱々しく手を振り、ふらふらと戸口に向かって行って
しまった。
「おいおいおい……」
アスマは目を丸くしたままそれを見送る。
「……結局、このコーヒーはオレが片付けんのかよ…」
床に置き去りにされた紙コップを、アスマは爪先で突付いた。
「バカだな。オレは」
カカシは小さな声で呟いた。
ほてほてと歩いているうちに演習に使う森の近くまで来ていたので、辺りに人気はなかった
が、つい小声になってしまう。
カカシにとって、「人間関係」というものは然程重要なものではなかったはずだった。
任務におけるチームワークと、個人的な人間関係は別物だと割り切っていたので。
「…バカだよ、オレは」
懲りてない。全然懲りてない。
大事な友人を何人も目の前で失い、なくす事が怖くなって、深く人と係わる事を避けてきた
つもりだったのに。唐突にカカシは自覚した。
(―――寂しかったのか…? オレは……)
独りでも自分は平気。そう思い込もうとしていた事すら、イルカに出会って忘れていた。
一緒に歩いて、話して、食事をして。
久し振りに、誰かといる楽しさを味わってしまって。もっと、イルカから感じる暖かさと安らぎ
が欲しくなった。
イルカは。
珍しく、カカシからモーションをかけた相手だ。
初めは友人として。それから、恋人として。
「とんだ臆病者じゃないか…え? カカシ先生」
イルカが自分に恋をしていたわけじゃないから。イルカを手に入れたがったのは自分の方
だったから。だから、不安なのだろうか。
カカシがこんなにも弱気になっていたのには理由があった。
夕べ、イルカはちゃんと泊めてはくれたのだが―――キスひとつで誤魔化し、とうとう彼は
カカシを抱こうとはしなかったのである。
カカシには訳がわからなかった。
昨日は、二回もイルカの方からキスしてくれたのに。カカシが驚くほどきつく抱き締めても
くれたのに。食事と入浴を済ませた後、イルカはベッドの上でカカシをあやすようにふんわ
りと抱いて、優しいキスをくれて―――
「おやすみなさい」
と、眠ってしまったのだ。
今朝も今朝で、食事を済ませた途端、「今日は遅刻はダメです」と、早々 に部屋から追い
出された。
カカシはキスをねだる機会も与えてもらえなかったのだ。
(―――オレ、何かドジったかなあ…… )
カカシは、イルカのあの半分泣きそうな微笑みを思い出していた。
イルカの好みは、本来ノーマルだと知っているカカシは朝から二十回目のため息をついた。
(―――イルカせんせ、無理してたのかも…… )
こうなると、思ったよりもずっとしっかりと広かったイルカの度量に嬉しさよりも不安を覚える。
その広さゆえにカカシを受け入れてはくれたが、それはカカシを拒めないイルカの優しさで
あったとしたら。今まで何回か身体を重ねた事も、あの優しい抱擁も、激しいキスも。
でも、突然男の相手をするのが嫌になってしまったのかもしれない。
「あああっ! オレらしくないっ!! 女々しいっっ!!!」
カカシは早々に思い悩む自分に嫌気がさし、手近にあった樹に拳を叩きつけた。
と、誰かの手に、それを阻まれる。
「自然破壊はやめようなー、カカシ先生」
拳が、がっしりとした掌にすっぽりとはまっていた。
「……何だ。またあんたか」
「いやあもう、恋に悩むはたけカカシの図っつうのがあまりにも傑作なんで、つい…」
「それで? お節介か?」
カカシはアスマの手を振り解きざま、もう一方の手で相手の顔面を狙った。
その手刀を楽々と避け、アスマは笑う。
「お前の飲めなくなったコーヒー、始末しといてやったぜ」
「そりゃどうもっ!」
今度は鋭い蹴りがアスマを襲う。間一髪でそれも避け、アスマは笑いをひっこめた。
「…おいこら、何なんだよ」
「樹は殴っちゃいけないんだろ? ならあんたが代わりになれよ。オレ
は今、ムシの居所が悪いんだっっ!」
アスマはやれやれ、と一瞬天を仰いだ。
「……しょーがねーガキだな……」
誰よりも忍らしい忍たらんとして、カカシが自ら精神の一部の成長を放棄した事を、アスマ
は知っていた。
「…ったく器用なんだか不器用なんだかっ」
早熟な天才忍者だったカカシ。忍びである為には「まともな大人」である条件の一部が邪
魔である事に、早い時期に気づいてしまった不幸な子供。
(まーでも、ずいぶん人間らしくなったじゃねーか。 )
矢継ぎ早に繰り出されるカカシの攻撃を何とかかわしながら、アスマは内心手を叩いてい
た。誰かに恋して、どうしようもない気持ちを持て余して。
こんな風に突っかかって来るなんて、以前は考えられなかった。
「げふっっ!」
考え事が祟ったのか、カカシの蹴りがまともに鳩尾に入り、アスマの大きな身体が宙を舞
った。
「あー、やっと手応えあった。…生きてっかー? アスマぁ」
(人様に蹴りくれて、晴れ晴れとした声だしてんじゃねーよ、このクソガキ! )
「あ、恨みがましそうな眼。…アスマ、オレの相談相手になってくれようとしたんだろー?
なら、怒るなよ」
アスマはケッと口を歪めた。
「おめーの相談の仕方ってのは、相手の腹に蹴り入れる事かい」
「ハハハ、悪い悪い。…でも、おかげでちょっとすっきりした。身体動かすって、いい事だな
あ…」
受身を取りきれず、尻餅をついてしまったアスマの脇にカカシは膝をついた。
「甘えついでに、もうひとつ、いいかな」
「………何だよ」
「ちょっとさ、抱いてくれない?」
空白。
アスマの思考が一瞬白くなった。
「……おま…」
あ、とカカシは手をパタパタ、とアスマの顔の前で振った。
「やーだなー。えっちな意味じゃなくって〜…あ、そうそう。抱擁ってやつ。……ほら、お父さ
んが子供抱っこするみたいなの」
「オレが五歳の時の子か? やだねえ、お前みてーな可愛げのないガキなんざ、欲しくもね
え」
悪態をつきながらも、アスマは「ほれ、来い」と手を広げた。カカシはアスマの胸に頭を預け、
くにゃ、と力を抜いた。
「…頭、撫でて」
「へいへい」
アスマは逆らう気も失せて、カカシの言う通り髪を撫でてやった。
「………煙草臭い……」
「うるせえガキだな」
しばらくそのまま、カカシはおとなしくアスマの胸に懐いていたが、やがて「ふー」、と息をつい
て、アスマの腕から抜け出した。
「もーいいのか? ボーヤ」
「…うん。…何か、わかったから」
立ち上がって、アスマを見たカカシは、もういつもの捉えどころのない眼をしていた。
ふ、と笑みをこぼすと、高速移動の印を切り始める。
「礼を言うよ、アスマ。今度一杯奢る。じゃ」
瞬時に姿を消したカカシに、アスマは呆れて言葉も出ない。
(―――ったく、勝手なヤツ……)
強引に組み手の相手をさせ、挙句、抱けだの、撫でろだの。恋愛相談というのは、もっと違う
もんだろう、とアスマはげんなりとして自分の掌を見つめた。
「……タル一杯奢らせてやる……」
カカシの重い蹴りを食らい、しばらくの間痛む腹を宥めながらそこで休憩する羽目になったア
スマにとってはタル一杯でも足りない気がしたが。
カカシは、アスマの事は好きだった。
大勢いる上忍の仲間の中でも、いい奴だと思っていたし、もしイルカと出会う前にアスマが色
事を仕掛けてきていたら、拒まなかったのではないかと思う。
それでも。
アスマの大きな腕の中はもっと心地いいかと思ったのに。
無骨な指が髪を撫でてくれるのも、決して不快では無かったけれど。
(―――イルカの腕の方がいい。 )
イルカが優しく髪を梳いてくれる指の方が気持ちいい。
(――ちゃんと、訊こう。…もし、オレが悪いんなら、謝る。イルカは、まだオレを拒んだわけじ
ゃない。……オレの一人合点かもしれないじゃないか…… )
「バカでも何でも構うかっ! オレは欲しいもんは欲しいんだっっ!」
カカシはイルカの姿を求め、アカデミーの校舎に向かった。
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