「イルカ先生? 交代します。どうぞ休憩にいらして下さい」
任務受付の窓口で書類のチェックをしていたイルカに、事務担当の中忍が声をかけてきた。
「あ、はい。ではよろしく…ここまではチェック済んでいますから」
律儀に引継ぎをしてから、イルカは席を立つ。
普通の足取りで廊下に出たイルカの姿は、一瞬後にそこから消えた。
アカデミーの建物からは結構離れた裏手の森、その中でも樹齢を重ねた立派な樹の根元にイルカは姿を現した。
殆ど予備動作を見せず、無言で頭上に張り出している枝に向かって飛び上がる。
あっという間にイルカの姿は緑の葉の中に吸い込まれた。
「やあ、いらっしゃい。仕事、もういいんですか?」
大きな樹のかなり上方の枝に座り、リラックスした姿勢で読書をしていた上忍は、飛び上がって来たイルカににこやかに挨拶した。
「交代になりました。今は休憩時間です」
イルカは手にしていた缶コーヒーをカカシにひょいと手渡した。
「あ、どーもv 喉渇いていたんですよね」
カカシは嬉しそうに缶を受け取り、読んでいた本を腰のポシェットにねじ込む。
イルカも自分の分の缶を取り出してプルトップを開け、一気に半分ほど飲んだ。
「ふう」
コーヒーを飲んで息をつくイルカに、カカシは苦笑する。
「お疲れ様」
「あ、いえ。カカシ先生こそ任務お疲れ様でした」
先刻、カカシはイルカのいる任務受付所に任務終了の報告に来た。
任務は新米下忍向けの簡単なもの。
カカシは単にナルト達の監視と指導に付き添っただけであるが、付き添う子供達がいずれも一癖も二癖もある子達であるだけに、飄々とした彼の表情からは窺い知れない心労があるだろうとイルカは思っていた。
その報告の際、カカシはイルカに向けて素早くサインを送ってきたのだ。
ベストの巻物ポーチに触れるようにさりげなく手を浮かせ、すぐ降ろす。
イルカが中忍でも目のいい方だからこそ見分けられたサインだった。
「あー、でも良かった。サインちゃんと見ていてくれて」
今度はイルカが苦笑いを浮かべる。
「はあ、何とか。…でもあれ、ちょっと言葉少なかったですよ。今度ああいう事なさるんでしたら、もう少し詳しい情報を下さい」
カカシの右目がにまっと笑みの形になる。
「何言ってんだか。貴方ちゃんとここに来れたじゃないですか」
「もし俺がサイン見分けられなかったらどうするつもりだったんですか?」
ふむ、とカカシは缶コーヒーを顎に当てて考えるフリをする。
「そうですねえ…ここで本読んで昼寝して…日が暮れても貴方が来てくれなかったら諦めて……文句と恨みを言いにアナタんちにおしかける。ま、そんなトコかな」
「恨まれちゃうわけですね。あは、良かった。恨まれずにすんで」
勝手なカカシの言い草に反論するでもなく、イルカは笑っている。
「で、何でこんな所で待っていたんですか?」
こんな人目を避けるような場所で、とは口にしなかったが、暗にそれをにじませた質問。
「えー、だって目立つ所でぼけっと貴方を待っていたりしたら、色々と面倒な事になるかもしれないでしょー…? 話しかけられたりとか〜、ヒマなら仕事手伝えとか火影のじいさまに言われるかもしれないし〜」
「ああ…そうですね。それにここ、何だか気持ちいいですよね」
樹齢を重ねた大木は、かなり上の方でもしっかりとした太い枝を張りめぐらせていて、足場には困らない。
カカシが言ったように、場所に気をつければ昼寝くらいは出来そうだった。
だが、木の上で待ち合わせ、などという子供じみた遊びに真面目につきあってくれるイルカに、カカシの心は和む。
「それにね」
カカシは悪戯っ子のように笑った。
「誰かに邪魔されたくなかったんです。…内緒話があるから」
「内緒?」
ふっふっふ、とカカシは何だか機嫌がいい。
「…あのね、貴方、背中の傷…まだ治っていませんよね?」
は? とイルカ。
「あ…いえ、もうだいぶ良くなって…」
「治っていないんです」
何故貴方が断言するんだ? というイルカの訝しげな表情にかまわず、カカシは続ける。
「古来より、傷の治療には湯治、と相場は決まっているんです」
そう来たか、とイルカはひきつった笑いを浮かべた。
「そ…そうかもしれないですね…」
「そういうもんなんですよ」
カカシはすうっと目を細める。
「……傷のまだ癒えない貴方には湯治が必要だと! オレから火影様に言って貴方の休暇をもらって、オレが付き添いって事で…」
イルカは慌てた。
「ま、待って下さい! そんなのダメですよ!」
「なんで?」
「なんでって…マズイですよ、何となく」
どうやらこの上忍は自分をダシにして温泉に行く気なのだと悟ったイルカは、心の中で悲鳴をあげた。
「と、とにかくですね! 火影様は俺の傷の具合くらいわかっていらっしゃいます! そんなん口実になりませんって!」
カカシはしゅん、と萎れる。
「…ダメかなあ…」
「ダメですよ。…それに貴方だってお仕事あるでしょうに」
「だーって、まだ御指名のお仕事なんてウチの班にあるワケないし〜…あいつらには自主トレさせればいいと思って。どうっせ、オレがついて行かなきゃ任務が与えられる事はないんだから、心配はないし〜…」
下を向いてぼそぼそと呟くカカシの様子に、これは早くも『息抜き』を要してきたのかもしれないな、とイルカは眉間に皺を寄せた。
今まで『合格者』を出さなかった、という事は、カカシは下忍(しかも子供)を担当するのは今回が初めてだという事だ。
大人の忍者が当然わきまえている常識や道理を知らない子供を指導するのが、ある意味通常任務よりストレスの大きいものだという事は、イルカは経験上誰よりもよく知っている。
上忍といえど人の子。
ストレスが皆無なわけがない。
イルカはカカシにそっと胸の中で同情した。
「あ…あのね? カカシ…先生」
「はい………」
「湯治…なんて、長い日数を要するのは無理ですけど……2、3日なら休養日を利用すれば…ちょっとした温泉旅行くらいなら…俺、お付き合い…出来るかも…」
カカシはぴょこん、と子供のように嬉しげに顔を上げた。
「ホントーに?」
まるでラーメンを奢ってやる、と言ってやった時のナルトのよう…と、その瞬間思ってしまった事は口が裂けても言えないな、と思いながらイルカは微笑んだ。
「ええ…近場なら何とかなるんじゃないですか? お互い」
よもや、それをイルカの口から言わせる事がカカシの本当の目的だったなどという事は―――このお人好しの中忍は一生気づかないだろう。
当のカカシが言わない限り。
そして、カカシはそんな事を言う気はさらさらなかった。
イルカと温泉旅行。
そのささやかな野望を達成出来ればそれでいいのである。
「じゃあね、イルカの今度の休養日、教えて下さい。オレ、スケジュール調整します」
その浮き浮きしたカカシの様子を微笑ましく思いながら、心の隅でこれはそうとうストレス来てたかな、などと少し見当違いな心配をするイルカであった―――
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