はつゆき−2

 

カカシが『息抜き』を欲した時は付き合う、とイルカは以前約束した。
だから、今彼はここにいる。

『木ノ葉隠れ温泉郷』
(―――こんな所あったんだー…)
「イルカせんせー? こっちこっち」
ぼうっと周りの景色を眺めていたイルカは、連れの声に我に返った。
「あ、すみません」
慌てて走り、先を行くカカシに追いつく。
「ここ、初めてですか?」
「は…はい。温泉って、前にアカデミーの父兄親睦会で一度行きましたけど…ここじゃなかったです」
ああ、と頷いてカカシは笑った。
「ああいうのはね、里の厚生施設っていうか…まあ、息がかかっているとこ使いますからね。ああいう所を利用すれば安くはなりますけど…でも、顔見知りに会う可能性が高いからねー…」
それじゃあ息抜きにならない、とカカシはサングラスをちょっと指で押し上げた。
忍び装束でなく、ごく普通のシャツにジーンズの彼を見るのは久し振りだ、とイルカは目を細めた。
イルカも忍び装束でなく、普通の服だったが。
それでも習性で手にした鞄には忍び道具一式入れてしまったし、上着の隠しや手首足首にはクナイやら小刀が数本忍ばせてある。
まったくの丸腰ではもはや落ち着いて歩けない生き物。
ふと、それを少し悲しく思っている自分にイルカは気づいた。
「…イルカせんせ?」
黙りこんだイルカを訝って、カカシは振り返った。
「あ、すいません。ちょっと考え事しちゃって…何でしたっけ」
「……里の息がかかっていない宿を使うからちょっと割高になるって話です」
「ああ、えーと…超高級でなければ大丈夫ですよ。あのね…」
イルカはちょっと声を落として、内緒なんですけど、と前置きした。
「封印の書の流出を防いだご褒美を三代目が下さったんです。…怪我で収入が減るかもしれないのを見越して下さったんでしょうけど」
「ま、そのご褒美は当然ですよ。貴方、体張って守ったんですから」
「……あの子があんな巻物に手をつけたのは…俺の指導不足もあるから…本当は、当然の責任だったんですけどね…あれは」
カカシは首を振った。
「いやあ、話を聞けば、やっぱり甘い言葉で子供を騙した、そのナントカって奴が悪い。だいたいね、火影様の巻物管理もぬるいんです。血相変えて取り戻さなければならんモノを、下忍にすらなっていないガキに簡単に盗まれるなんて、そっちの方が恥ずかしいでしょ。ナントカって奴も、巻物が欲しいなら自分で盗めばいいんだ。頭の悪い奴ですよねー。ナルトが失敗して捕まったら、そそのかした自分の名前が出るのはわかりきっているのに。…オレなら、ナルトに変化して盗み出し、罪をなすりつけておいて、その夜のうちにナルトは始末しますね」
物騒な事をにこにこしながら口にする上忍に、イルカはあいづちも打てなかった。
ミズキが、カカシの言う通りの事を実行していたら、あの子供はもうこの世にいない。
事実が露見するにせよ、しないにせよ、奪われた命は戻らない。
それを思った途端、イルカの胸は締め付けられた。
こめかみの辺りが、すうっと冷たくなったような気がする。
(…何だ? 俺…あの子なんかいなければいいとすら思った事もあるくせに…あの子が無実の罪を着せられて殺されていたかも、と思っただけで……こんな…)
つくづく自分は甘いのだとイルカは心の中で自嘲した。
孤独な子供に自分の影を重ね、同情し…そして、無邪気に懐いて来たあの子に情が移ってしまった。
無意識に唇を噛んでいたイルカの背中を、ポン、とカカシが叩いた。
背中の傷の位置がわかっているかのように上手に避けて。
「湿っぽいカオしない! ナントカがアホウだった事を天に感謝して、貴方は当然の報酬で温泉を楽しめばいいんです。ほらほら、行きますよー! あー、引率癖がついたな……」
イルカはぷっと吹き出した。
「何ですかぁ? カカシせんせ、いつもそうやってあいつ等指導しているんですか?」
カカシはぷくんと頬を膨らませた。
「そーですよ。だぁって、面倒だけど声かけなきゃ奴ら勝手にどっか行きそうになるんです」
「そういうもんですよ。子供なんて」
はああ、と今度はカカシが項垂れた。
「もー、あいつ等のハナシ、やめましょ…オレ、早くでかい風呂入りたい…」
「はいはい」
イルカはくすくす笑いながらカカシについて歩き出した。
前を行く上忍が、その笑い声にほっと胸をなでおろしていた事にイルカが気づくはずもない。
当然、イルカの顔を曇らせてしまった事に彼が内心大慌てしていた事も。


「わー、綺麗ですねえっ…ほら、すごい紅葉」
「……あれは、食おうと思ったら食えますよ」
美しく色づいた紅葉に、部屋の窓から身を乗り出すようにして見入っていたイルカは赤くなってカカシを睨んだ。
「もー、意地悪ですねえ。俺だって、何でもかんでも食おうと思っているわけじゃないんですから」
出会いの時に、カカシが連れて行った公園で秋桜が食えるかどうか開口一番に訊いた事で、未だにイルカはカカシにからかわれていた。
「あは、すいませんね。何しろ、インパクト強くて」
(―――そんな貴方が可愛かったんだけど。)
ぺろっと舌を出して、心の中でカカシは呟く。

二人が通された温泉旅館の部屋は、なかなか小奇麗で感じが良かった。
カカシはごそごそと物入れの下から篭を引っ張り出し、浴衣のサイズを確認している。
「んー、何とかなりそう。オレもだけど、イルカも手足長いから…ほら、浴衣。あ、ここちゃんと足袋もある」
カカシの差し出した浴衣を、すいません、と礼を言いながらイルカは受け取った。
「部屋風呂もついているみたいですけど…やっぱり大浴場行きます?」
イルカは洗面所を覗いてからカカシを振り返った。
「部屋風呂…?」
カカシはイルカの肩越しに洗面所の奥を覗く。
「うーん、二人で入るにはちと狭いな。せっかくですもん、大きな風呂で手足伸ばしましょうよ」
狭いと言っても、イルカの自宅についている風呂に比べれば倍くらいありそうだったが、せっかく温泉場に来ているんだから、というカカシの言い分にイルカも頷いた。
「そうですね。じゃ、夕飯の前にひとっ風呂浴びますか」
イルカはせっせと手足の武装を外している。
さすがに風呂に入るのに刃物を持ち込むのはまずいよな、と一人で首を捻ったイルカだったが、それでも手拭いの間に小刀を一本忍ばせてしまった。
(―――だって、二人っきりじゃないんだから。備え有れば憂いなしって言うじゃないか)
それを視界の隅に入れていたカカシはそっと苦笑した。
何だかんだ言っても、イルカも根っからの忍者なのだ。
(―――因果な商売ですよねえ、お互い……)
カカシの手拭いの中にもクナイが一本。
その鋼の感触を愛しむように、カカシは布越しに指を滑らせた。


「おお、いいー眺めですよー」
大浴場の壁は一面が大きな窓で占められていて、先程部屋から眺めた紅葉が一望出来るようになっていた。
まだ時間が早い所為か、広い浴場に他の客の姿はない。
腰に手拭いを巻いたカカシと同じスタイルのイルカは、その声に応じて窓に寄った。
「本当に…………」
カカシのすぐ隣まで来たイルカは、何気なく振り返って言葉を無くした。
カカシの左眼が晒されていた。
ここに来るまでもサングラスを外さず、前髪で覆うように顔面の左側を隠していたカカシ。
彼の左眼を見るのは、イルカも初めてだった。
「…気持ち悪い?」
そのカカシの問いが、彼の左眼を指しているのだと気づいたイルカは慌てて首を横に振った。
「いいえ。……綺麗です」
たとえそれが異能のものでも。
その眼はカカシの武器だ。
戦いを生業とする者が、その研ぎ澄まされた武器に対して贈る、素直な賞賛。
美しいと、本当にイルカはそう思ったのだ。
その言葉をカカシは疑いはしなかった。だが―――
「なら、どうしてそんな顔をするんです…?」
イルカの顔は、どこか辛そうに微かに歪んでいた。
「……すみません。…その…傷痕が…」
すっぱりと左眼の上を縦に裂く傷痕。
それが、イルカの眼にはとても痛々しく映ったのだ。
カカシは指で自分の傷痕に触れた。
その指を、イルカの顔の中央に持っていく。
「貴方だってあるじゃないですか。キズ」
「そりゃそうですけど…」
あ、とカカシは声を上げた。
「あー、キズで思い出した! 背中背中。明るい方に背中向けて。ほらほら」
ぐいっとカカシに反転させられ、イルカは背中を窓に向けて立つ。
「うわ、結構ぐっさりいきましたねー、これ。…完治、とは言えませんね。無理したらまたぱっくりいくんじゃないかな」
傷の様子を観察するカカシの声がどこか楽しげなのは気のせいだろうか。
イルカは自分の肩越しにカカシをそっと見た。
(……あ、にこにこしてる…)
カカシは楽しそうに時々指先でイルカの背を突っつきながら傷の具合を見ている。
「ん、でも湯に入るのに問題は無さそうです。安心なさい、背中はオレが洗ってあげますからv」
気のせいか、語尾にハートマークがついていたような…
「気にしないでいいですよー。だって、オレもイルカに背中流してもらおうって思っているんだから」
写輪眼と顔面の傷については、あれでお終いになったようだ。
どこかほっとしてイルカは苦笑した。
「わかりました。じゃ、ひとまず湯に入って暖まりましょう」

湯船に手拭いを入れるのは行儀の悪い事。
わかってはいるが、目の前でさっさと手拭いをはずして手桶で湯をかぶり、湯船に足を入れたカカシに、イルカは眼のやり場に困って視線が泳いでしまった。
(―――あああ…バカ…俺。男同士だろー…)
自分の目の良さがちょっとばかり今は恨めしい。
一瞬眼にしたカカシの裸体に走っていた幾つもの小さな傷痕すら、鮮明にイルカの瞼に焼きついてしまった。
まだ午後の陽射しで明るい浴場は、カカシの色の白い肌を更に白く見せる。
自分の動揺はその所為だとイルカは思った。
(―――俺より強い上忍のクセして、あんなに細い腕して…なんか、反則…)
イルカの日焼けした肌の上にも、白い傷痕が何本も走っている。中にはまだ治っていないものも幾つかあった。
だが、イルカは自分の傷には無頓着だった。
顔面の傷にしろ、もう子供の頃からあるものだから慣れていて気にならない。
努めて平静を装って、イルカは自分も手桶の湯でざっと身体を洗ってから湯船に入った。
見れば、カカシは壁に貼られた効能書きを読んでいる。
「ええと、肩こり、腰痛、四十肩…胃弱…婦人病? あ、傷にもいいって。…あらら、よく見たら背中だけじゃないですね。貴方の傷」
大腿、腹、胸、肩、腕…カカシの言う通り、イルカは傷だらけだった。
「これとこれはクナイ…これは手裏剣。…こっちの古いのは刀傷。…ずいぶんと実戦経験もあるようだ」
はは、とイルカは頭をかいた。
「そりゃあ…少しは。まるで実戦を知らない人間が、戦いを人に教えるわけにはいきませんから」
血の匂いと傷の痛み。人の命の儚さ。
…知っているからこそ真剣に下忍を育てられるのだと。
イルカの眼はそう言っていた。カカシも厳粛にその事実は認める。
「……ですね。あ、ここにもあった」
「数えないで下さいよ。増えちゃいます」
「……それ、ホクロですよ。数えると増えるっていうの…」
数えるだけで傷が増えたらオカルトだ。
「そーでしたっけ? あ、やめて下さいって! カ、カカシ先…カカシせってば! くすぐったいです〜〜!! がはっ」
カカシはイルカの足を持ち上げ、足の裏まで調べている。
「がはっ」は足を持ち上げられた為、ひっくり返って口に湯が飛び込み、むせた音。
他人の目が無くて良かった。
つくづくそう思うイルカだった。
(―――まあ、俺をおもちゃにして、それでカカシせんせのストレスが少しでも発散出来るんならいっか…)
そう、元々この温泉旅行はカカシの気晴らしだとイルカは信じている。
付き合う、と約束したからついてきた。
カカシが自分を同行者に選んだ事は不思議だったが、正直嬉しかったし。
(あれ? でも…上忍の友人だって…いるはずだよな。)
そんな事をぼーっと考えていたら、今度は違う方の足を持ち上げられて、イルカの頭は再び湯に沈んだ。
(―――上忍相手にこういう遊びは出来ないからか……)
ごぼごぼと湯船で泳ぎながら、悲しい結論を一人で出すイルカ。
「さーあ、じゃ、洗いましょうかね! 乱暴に出来ない傷の位置はわかりましたから!」
洗って頂くのは背中だけで結構です…というイルカの呟きは無視された。
夕飯前のひとっ風呂、がずいぶん時間のかかったものになった事は言うまでもない。
風呂から上がる頃には、カカシの裸もすっかり見慣れてしまったイルカだった。

 

 

 





 

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