君ノ面影ニ心ハ開ク −5

by 最阿流さま

 

 
 2週間が過ぎた。
 サエとの契約は、今日で終了。サエの怪我も、すっかり良くなった。本当はもう2,3日早く終了しても良かったのではないかと思われたが、前金で報酬が振り込まれていたので、最後まで付き合うこととなったのだ。
 うっすらと伸びていた髭をあたり、鏡に向かって毎朝の恒例となっていた気合入れをし、イルカは朝食のパンをかじった。
 寒い朝だ。空は明るいが、雲が重く垂れ込め、雪になる気配がする。
 帰りまでもてばいいが。
 サエが選んで、半ば強引に持ちかえらされたカップと茶碗は、やはり食器棚に仕舞われることなく、布巾を掛けておいてある。先日カカシの残り香に欲情し、かなり気まずい結果を残してしまって以来、イルカの気持ちははっきりした。自分はやはり、カカシが好きなのだ。例えカカシが殉職したり、二度と会えないと告げられても、きっとまたカカシの残り香に甘え、睦言を吐き自分を慰めるだろう。カカシの幻と同棲し、一人を一人と思わず、そのことさえ幸せだと感じる余裕を身に付けるだろう。
 誰かを求める気持ちが、特定の人しか求めない欲に変わった今となっては。
 漫然とした幸せを空想するのは容易かった。だが、現実にする気はなかった。誰かと結婚して、平凡な家庭を築くと想像してはみたが、実際そこに誰かが居て欲しいとはまるで思わない自分に気がついたから。
 好きな人に居て欲しい。
 カカシは一人しかいないから、たった一人のカカシに居て欲しい。
 一人のカカシと、その他大勢。量より質ということか。
 どんなに寒かろうが暑かろうが、一年通して変わらない標準装備である忍服を着て、イルカは出勤した。
 「お早うございます、イルカさん」
 サエは今日はいつもより丁寧に化粧していた。明るい色の服に、ほのかに香水が香った。
 「お早うございます・・・サエさん、今日はなにかありますか?」
 サエがめかしこんでいるので、イルカは軽く訊いてみた。いつも賑やかな同僚と快気祝でもするのかと思ったのだ。
 サエはぽっと顔を赤らめ、首を振った。
 「いいえ!!・・・何にも。あ、イルカさん、なにかありますか?」
 「ん・・・いえ、俺もべつに」
 イルカは白い自分の息を見ながら言った。「・・・今日は冷えますねェ・・・久しぶりに暖かいものでも食べたいなぁ、サエさんが言ってたみたいな」
 「鍋物ですね」
 サエは笑った。踊るような足取りで、イルカの腕に絡みつく。足が治ってからは、任務で同行しているというより、毎日デートしているようだった。不必要な日数は削って、その分の代金を返還してもいいのだが、サエはそういう細かいことは気にしない性格なのか。
 「・・・じゃあ、食べます? 今日でお願いしていたお医者通いも終わりですし。お祝いに」
 サエは大きな目を輝かせて言った。
 「私、イルカさんのお好きなもの作ります!!何がいいですか!?」
 「別に好き嫌いはないですよ、俺」
 同僚と出掛けるための化粧ではないのか、とイルカは思った。
 「じゃ、決りですね!!」

 なにが?

 「今日でもうお終いかと思って、寂しかったんです。イルカさんの方から、そんなこと言ってくださるなんて、嬉しい・・・私、本当に、イルカさんのこと・・・」
 潤んだ瞳で、サエは告げた。赤い頬が冬の寒気のせいにしては、妙に生々しい。最近サエがこんな風に顔を赤くして、声を掠れさせているのにイルカは気づいていたが、どうやら風邪のせいでもないらしい。元気はあるようなので、心配ないとイルカは安心していた。
 「今日のお医者さまの診療で、最後ですから。」
 サエはにこにことイルカを見上げた。
 「またお昼休み、お願いします。帰りにお買い物して・・あ、そういえば、イルカさんの家に、カップ置いてあるんですよね、使うの楽しみです!」
 なんだかよく判らないまま、サエの職場に着いてしまった。
 「イルカさん、ご苦労さまでした!!」
 「あの、これ、よかったら、皆さんで・・」
 「お時間ありません?お寒いですから、中でお茶でも」
 サエの同僚たちは、イルカの姿を見ると一斉に声をあげ、群がってくるようになっていた。
 ご丁寧な挨拶やお誘いをこちらも丁寧に返し、お断りし、お土産を頂いて、やっと解放された。
 朝からどっと疲れる。それも今日限りだと思うと、ほっと胸を撫で下ろしてしまうイルカだった。
 アカデミーに着くと、これまた恒例になった挨拶が始まった。
 「よお、うみの、お早う」
 「彼女はもう出社したか?」
 「今日はどうだった?美人の彼女」
 鞄を机において、イルカはため息を付く。
 「・・・依頼主だ、彼女じゃない」
 「だけど、もう足、治ってるじゃないか、彼女」
 この2週間、毎日真面目に任務にあたるイルカに、始めは理解を示していた同僚たちであったが、可愛い女性のエスコートという、男には羨ましい限りの任務であるため、やっかみもでてきた。
 さらに、イルカには深刻な問題も起きていた。
 「まぁ、でも、良かったよ。お前には、やっぱ女の子の方が似合うもんよ」
 「はあぁ!!?」
 イルカは同僚を睨んだ。
 「・・・あの上忍、最近見ないもんな、手ぇ引いたんだ」
 同僚はにこにこと話を続ける。
 「お前が正気に戻ってくれて、廻りも安心してんだぜ? イルカがわけわかんねぇ男に引っかかって、困ってるって、心配してたんだよ、俺ら。絶対、たちのさんのほうが良いって!! もしあの上忍がまた何かちょっかい出してきたら、出来るだけ穏便にお断りを・・・」
 ダン、と激しい音が響き、教員たちがしんとした。
 イルカは立ちあがり、顔を伏せたまま部屋を出た。
 話の腰を折られた同僚は、口を閉じるのも忘れて、立ち尽くした。一瞬垣間見た、イルカの怒気。
 あの男でも、怒るんだ、と、イルカの下忍時代を知っている彼は思い知った。

 夕方から、雪になった。
 サエは傘を持っていなかったので、どちらにしろ、イルカの家に寄らざるを得なかった。サエのアパートと職場の中間あたりに、イルカの家はあったのだ。途中で寄ってもらい、傘を貸すのはイルカにとって当たり前の行為だった。
 しかし、サエの目的が違っているようなので、イルカは困惑していた。
 大量の野菜や肉を買い込み、うきうきとイルカの家にやって来たサエは、家の落ち着いた佇まいを誉め、小さな庭に感嘆の声を上げた。
 流しの横に、それだけ別にして置いてあったイルカ柄の食器を見つけると、サエの顔がぱっと輝いた。
 反対にイルカの気分は沈んだ。この家に、カカシ以外の女性を上げてしまったのが、後ろめたかった。こんな時にまだ、良い人ぶる自分が情けなかった。
 外の雪が悪いんだ、と考えた。この雪の中、傘のない女性に帰れと言う訳にはいかない。傘を貸すと言っているのに、サエは帰ろうとしない。どうやら、自分のほうが誘ったことになっているらしい。
 きっぱり断る、ということほど、苦手なものはなかった。
 
 里に着いた時は、雪になっていた。
 ようやく傷口は乾いてくれたが、少し無理をすればまた開くのは判っている。
 走る力も、もうない。自分がどこを歩いているのか、時折認識し、また朦朧とする。足元に積もり始める、白い雪。綺麗とも冷たいとも思わなかった。
 火影の待つ里の中心部。アカデミーに隣接する本陣が、恐ろしく遠い。
 立ち止まって、蹲ってしまいたい。せめてどこか安全なところで、休みたい。巻物を届けなくては、任務は終了しないのは判っている。写輪眼の使用に伴うチャクラの大量消費で、体はもう限界に近い。他の忍たちはどうしただろう。誰が本命の機密文書を担ったかは判らない。
自分の持つこれが、そうかもしれない。とにかく。歩き続ける。
 もう一度辺りを見まわす。住宅街の外れに広がる畑と野原の間に、ぽつぽつと一軒屋が並ぶ。
その光景には、見覚えがあった。
 正気が戻ってきた。
 記憶に勇気づけられて、歩いた。この近くに、どうしても会いたい人がいる。

 玄関を叩く音がした。
 「はい?」
 イルカは忍装束にエプロンという家庭的な姿のまま、顔を覗かせる。
 「・・・ども」
 寒気が流れ込む、玄関先に。
 全身に降り積もる雪を払う力もなく、血と泥に塗れて、カカシが立っていた。
 イルカは口がきけなかった。
 銀に煙るも髪も白磁の頬も、こびり付いた血に汚れ、ポケットに手を入れて猫背で立つ姿は、悪夢と現実が入り混じっているようだった。
 「・・・カカシさん・・・・」
 イルカは呆然と囁いた。
 「・・・え、と。突然、すみません」
 カカシの声は、疲れ切って掠れていたけれども、間違い無くカカシの声だった。
 「その・・・どうしても、顔、見たくて・・・」
 正直にカカシは言った。
 ただ会いたかった。
 助けて欲しいとか、慰めて欲しいよりも、顔を見たかった。イルカの顔を見て、やっと自分が生きていることを実感できた。冷え切って感覚も無くし、意識も半分のこの体に、未だ命が残っていることを思い出させてくれる、灯火のようだった。
 安心して目を落とし、そこに女物の靴を見つけた。
 「上がって下さい、すぐに!!」
 イルカは裸足のまま玄関の土間におり、カカシの体を支えた。雪が解け始め、ぐっしょりと濡れた忍装束。対衝撃仕様のジャケットに刻まれた無残な刃物傷。重さも無くしたような、頼りない体が、イルカの手の下で揺れた。
 「−−−イルカさん?」
 暖かな室内から、心配げなサエが覗いた。
 「あの・・どなたかいらっしゃいました?」
 カカシのぼんやりとした視界に、サエの顔が映った。
 見覚えがあった。訓練によって、一度見た顔は、千人中千人覚えておけるのだ。ああ、あの人だ、と思った。
 自分が居ない世界で、イルカと出会っていく人。
 平凡で幸せな人生を送るイルカの傍にいる女性。
 イルカはサエを振りかえり、困惑した。
 カカシに今すぐ手当てが必要なことは、一目瞭然だった。しかし他人のいる前で、カカシの正体が判るような事は出来ない。サエは以前カカシに会っていて、今もはたと目を見開いている。
 「その人・・・たしか、あの時の・・・?」
 何とかして、サエを遠ざけねばならない。
 イルカが行動に出ようとしたとき、カカシの体がすいと泳いだ。
 「・・・すみません、任務の途中でした」
 カカシはにこ、と笑った。「お邪魔して、ごめんなさい。近くに来たから、ちょっと脅かしてみようかなぁ、なんて・・・」
 「・・・大丈夫ですか?お怪我してるじゃないですか!!」
 サエは悲鳴のような声で言う。
 「あ、大丈夫。これ、返り血ですから。怪我は大したことないです」
 カカシはひらひらと手を振る。視界の隅に、怒りに震えるイルカの顔が見えた。
 「気持ち悪いでショ?脅かす、てこのこと。まずは成功かな」
 くすくす笑って、カカシは踵を返す。「・・・じゃ、これで。お休みなさい」
 「はあ・・・」
 サエは呆然と頷く。なんとも風変わりな人だ、物凄く綺麗な人なんだけど。一度みたら忘れられないくらい、印象的な人。
 背を向けるカカシの腕を辛うじて掴み、イルカはサエに聞こえないよう囁いた。 
 「・・・後で必ず、来てください。待ってますから」
 微笑むカカシの目は何も答えない。
 「来てくれなければ、何処まででも探しに行きます」
 イルカは手を離した。
 イルカの本気。
 カカシは後ろ手に玄関を閉めて、歩き出した。雪は本降りになっていった。
 「・・・イルカさん?」
 サエが心配そうに声を掛けた。
 「・・・良いんですか?お友達なんでしょ? 上がってもらえば良かったのに。私だったら、気にしませんよ」
 「仕方ありませんよ、任務の途中では。」
 イルカは部屋に上がり、サエの横を通りぬけ、部屋へ戻った。
 「・・・ちゃんと報告を上げるまでは、任務完了とは言えません。そのくらい心得ている人ですから。」
 「そう・・ですか」
 いつものイルカらしからぬ素っ気無い態度に、サエは困惑した。
 ちゃぶ台には、サエが張りきって作ったすき焼きが湯気を立てていた。炊きたての白飯に、卵を乗せた小鉢。誇らしげに並べられた、イルカ柄の茶碗。
 「どうぞ、頂きましょう」
 イルカが席を勧める。サエはイルカの向かいに座り、箸を取った。
 「頂きます。・・・お口に合うかどうか」
 「美味しいですよ、サエさん、料理上手いです」
 まだ大して口もつけていないのに、イルカが答える。明らかに、何かが変わってしまった雰囲気に、サエはどうしていいのか判らなくなる。
 「・・・い、今の方、どんな方なんですか?」
 何とか会話の糸口を掴もうと、サエが聞いた。
 「凄い方ですよ」
 少し考えてから、イルカは答えた。いくらか機嫌が治ったのか、声が柔らかくなった。
 「そうなんですか? なんだか面白い人ですよね」
 サエは思い出したようにクスリと笑った。
 「あの人も忍者?お強いほうなんですか?そうは見えなかったですけど。 イルカさんの方が、ずっと頼もしそう」
 無邪気に言うサエを見つめ、イルカは静かに微笑んだ。
 「・・・あの人は、一流ですから。」
 
 

 上手く笑えたか、自信がない。
 いつの間のか、また胸の傷が開いたらしく、冷たい感触が伝った。
 目がよく見えない。耳もよく聞こえない。体に染みついた方向感覚だけで、本陣を目指した。
 ・・・だって、他に如何しようもないでしょ?
 頭の隅に、イルカの怒り顔。最後に何か言ってたな。よく聞こえなかった。可愛い人の前で、おれに何が出来るっていうんです。泣いて縋れば良かったですか。捨てないでと哀願すれば満足ですか。そうしたかったけど、しませんでした。
 おれの意識は、おれのものじゃあないんです。
 感情は捨てろ。状況を読み対処せよ。
 それが忍というものだ。

 本物の巻物は、どうやら無事に届いたようだ。
 五本のうち届いたのは四本。
 「ご苦労。下がってよい」
 火影の一言に、カカシは一礼し、部屋を出る。この時点で、任務は終了。それから医療部に向かう。
 多くの秘密を抱えるはたけカカシという忍の体には、特別の医療技術者が専任として付いている。医療部の特別の一室に通され、胸と脇腹の深手を手当てしてもらい、細かい傷は、「舐めときゃ治る」と放りだされた。
 「・・・わぁ、本降りだよ、こりゃ」
 すでに人影も疎らになった、アカデミーの渡り廊下。
 残業組の教員たちが、雑談交じりに通りかかる。
 「早く帰っとけばよかったなぁ・・・先帰ったやつら、運がいいぜ」
 「運ねぇ、それ、あるかもな」
 「ああ、ある。いつもは残業一番手のやつが、任務で定時帰り・・・」
 「しかも今日は、新しい彼女と親睦会!!」
 「え!?何、それ!」「知らねぇのか? サエちゃん、山ほど買い物してた、てよ。今夜はたっぷり栄養付けて・・・」
 「うわ、やべぇ・・・」
 「イルカもなぁ、いまいち良くわかんねーよ。女の噂、聞かねぇわりに、いかがわしい上忍と付き合い出したとか言いやがるしよぉ・・・」
 「いかがわしいか、あの人?」
 「いかがわしいよ!! 居るのか居ないのかわかんないくせに、他所の国じゃあ有名だ、て言うジャンか。何とか、て、物凄い術使うらしいぜ。」
 「そんな色物に、イルカが引っかかったのかぁ?」
 「んーー・・だからよぉ、ありゃぁ、絶対、誑かされたんだと、オレは思うんだよねぇ」
 「そうか? おれは羨ましいな、て思ってたぜ。あんな格上の上忍のお気に入りなんて、ドンだけ美味しいか」
 「お、言うね」
 「・・・まぁ、得したのか損したのか、イルカの身になってみないと判んねぇな。上忍のお小姓で出世するか、可愛い彼女と宜しくやるか。」
 わはは、と笑って、中忍の教師達は通り過ぎる。
 渡り廊下から人影が消えた。
 雪明かりが、明るい。
 コントラストのはっきりした影の中から、少し猫背の人影が現れる。
 雪と相性の良さそうな、銀色の髪。
 猫のように足音をさせず、空気さえかき乱さず。
 静かに、廊下の向こうに消えた。

 
 
 



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