君ノ面影ニ心ハ開ク −2

by 最阿流さま

 

 
 晴れ渡る空は、もう冬の近いことを物語っていた。
 火影の元に届け物を済ませたイルカは、渡り廊下を通りアカデミーの教員詰所に戻った。突き刺すように寒い空気が、標準服である忍装束に纏わりつく。
 「お早う、うみの」「よ、イルカ」
 「お早う」
 同僚たちと挨拶を交わし、自分の机に着いて書類を確認する。間もなく朝の職員会議があり、今日の授業が始まる。一日無事に終わるといいな、と、イルカはぼんやり考えた。
 「今日はなんか、顔色いいな、お前」
 隣の同僚が声をかけてくる。「良いことあっただろ?」
 「は?」
 微かな動揺を隠して、イルカは笑って答えた。
 「良いことってなんだよ・・・なにもないよ」
 「そおかぁ? 艶がいいぜ」
 しかし同僚は誤魔化されてくれない。にやにやと訳知り顔で追求してくる。
 「・・・聞いたぜ? 昨日、例の目立つ上忍と歩いてたそうじゃないか。まさか、あれが相手か?お前って、見掛けによらないんだなぁ・・・」
 「カカシさんはそんなんじゃない」
 顔を顰めてイルカは反論する。「そんな噂、流さないでくれよな。先方に迷惑だろ」
 「わかったよ、そう睨むなって」
 ちっとも判っていない顔で同僚はひらひらと手を振った。
 「でもなぁ、噂流すな、たって、別に俺が流したわけじゃないからな。マジであの人、目立つンだよ。なんかさぁ、上忍の中でも、結構狙ってる人がいる、て話も聞くし・・・お前、知らないとこで敵作ってっかもよ?」
 「・・・なんだ、それ」
 あはは、と笑って去っていく同僚の背中を睨みつけ、心中穏やかでなく、イルカは書類の上に意識を戻した。
 ・・・マジで目立つ人。狙われている。
 確かに、昨日は何かあった。思い出すと、まだ腰の辺りが落ち着かなくなる。
 2週間振りなんだぞ。何もなくていられるか、とイルカは内心赤面しながら言い訳する。確かに四回はやり過ぎだったかも知れないけれど。
 昨日のどの場面でも容易に思い出せて、イルカは頬に血の気が昇るのを感じ、ぶんぶんと首を振った。カカシの手や唇の感触が今でも残っていて、それ以上を思い出すのは危険すぎた。
 しかし、気になることも同時に思い出されてきて、イルカはふと冷静になる。
 無我夢中で抱きしめている間は気が付かなかったが、カカシはずっと泣いていたように思える。初めは、久しぶりの行為に気が昂ぶっていたのかと思っていたが、嵐が過ぎて漸く身を離し、布団に包まって幸せな眠りについたあとでも。
 夜明け近くになって、すすり泣く声に気づいた。
 傍らのカカシが、自分に背を向けて泣いていた。
 声をかけることもできないほど、必死に押し殺した様子に、イルカは気が付かない振りをしていた。どのくらいそうしていたか判らないが、何時しかカカシが眠りに落ちたのを確認して、イルカも不安なまま眠ったのだ。
 朝になり、目覚めた時は、いつものカカシで。
 簡単な朝食を一緒に作って、届け物があるため早出のイルカに代わってカカシが洗い物を引きうけ、笑顔で送り出してくれた。行ってらっしゃいの言葉が、じんわりと嬉しかった。
 その笑顔に紛れて、涙の訳を聞きそびれてしまった。
 やはり、やり過ぎたのだろうか。発情期の若造なみにサカった自分に、カカシは怯えたのだろうか。
 そう思うと、赤くなるより落ち込んでくる。もっと優しくしたかったのに、カカシが良くなるように導いてやりたかったのに、と後悔が立つ。そして今夜こそ、とイルカは密かに拳を握った。今夜こそは、ちゃんとカカシを昇天させるのだ。
 禁欲生活で抑えが効かなかった昨日とは違い、今夜は自分にも余裕がある。
 時間をたっぷりとって、満足のゆく方法で、カカシを愛するのだ。恋人を泣かせるだけのセックスなど、イルカの趣味ではなかった。
 ・・・もっとも、泣きながらいやを言うカカシに、普段感じたことの無い情欲を覚えたことも、事実なのだが。
 ごほん、と空咳きをして、思考を切り替えた。ああ、俺って結構けだものかもしれない、と思いつつ。
 


 上忍詰所で、カカシは膝を抱いてソファに座り込んでいた。
 「いよう、久しぶり」
 大柄な体躯に強い髭面の、下忍担当上忍猿飛アスマが頭をぐりぐりと掻きまわしてくる。
 「準警戒巡回、お疲れさん・・・昨日は休んだか?」
 「お早う、アスマ」
 顔を上げないまま、手だけを上げてカカシは答える。
「やっぱ年末はつらいわぁ・・・寒くて動きにくい時を狙って、わざわざ仕掛けてくる奴らって、なぁに考えてるのかね。」
 「ほお、なんか出たかあ?」
 「侵入まではして来なかったから、深追いはしなかったけど・・うろついてるね、周りを、うろうろ」
 「・・・ご苦労なことで」
 「で、その苦労に報いてやらねばなるまいと思ってな。」
 突然割り込んできたドスの効いた声に、しかし二人の上忍は驚かなかった。
 何時の間にか立っている、不吉な黒いロングコートの、強面の男。
 露出した顔面だけでも、無数の傷跡が走るその男に、カカシはようやく顔を向け、ため息をつく。
 「・・・お早うさん、イビキ上忍」
 「お早う、はたけ上忍。早速だが、今夜から第2級警戒巡回だ。今夕18時を以って、任に着くよう」
 「は? おれ昨日帰ってきたばかりよ?」
 カカシはただ一つ覗く右目を丸くして答える。「ちょっとそれは、こき使いすぎでしょぉ?」
 「年末はつらくてな」
 イビキは胸を反らして、薄笑いを浮かべて言う。
 「どの忍も任務で手が足りん。今年中にこなさなくてはならん依頼を片付けるのに、中忍以下は余裕がない。休みなしの超過勤務だが、上忍を遊ばせておくゆとりはないんでな。」
 「遊ぶわけじゃないよ、休みたいだけなのに。」
 すうっと目を細めて、カカシは言う。
「・・・こっちの逞しいお兄さんなんかどう? 最近大人しいお仕事ばかりだから、暴れ頃なんじゃなーい?」
 「あ、俺パス。中忍以下余裕なしっての聞いてたか? もおD.Cランクの仕事で、飯食う暇もありゃしない。」
 アスマはあっさりと言いのけ、カカシの睨む目を無視する。「いやぁ、下忍の指導ってのも、奥が深くてねェ・・・今年一杯は、休みとれねェわ、マジで。」
 「うわ、嫌味ったらしー・・・」
 「では、申し送りしたぞ、はたけ上忍。あとで特務のほうに、任務依頼書を受け取りにくるように。」
 イビキは言うことを言って、さっさと詰所を後にする。納得のいかないカカシと、同情はするが手助けはしないアスマが、憮然としたまま残される。
 「だぁあ、おれって不幸?」
 抱えた膝に顔を突っ伏して、カカシは嘆息する。
「なぁんでおればっかりぃ? おれ、ひょっとして、行い悪い?」
 「よかぁねえだろ、やっぱ」
 答えるのもなにかとは思いつつ、アスマが答える。「行いのいい忍者って、どんなんだ?」
 「まいったなぁ。今夜からかぁ・・・」
 カカシはくぐもった声で嘆いた。
 「どうしよ・・・なんて言えばいいんだろ?」
 「は? なんか言わなくちゃいけねえのか?」
 アスマが新しいタバコを咥えて聞きかえす。普通、上忍の任務は、A級以上の特務が主になる。極秘が基本なので、上忍同志ですら内容を教えあうことは滅多にない。今回のように、他の上忍の前で依頼を伝えるケースは、特異なのだ。
 逆にそれは、暗にこの任務が尋常の巡回警備ではないことを物語っている。カカシになにかあった時、その事情を知る者として、アスマが選ばれたのだ。
 つまり、何かが起こることが前提の、任務。
 「・・・黙ってるわけ・・・いかないよ、ねぇ・・・」
 複雑な思いで、カカシはつぶやいた。
 あの人は、どう思うだろう?
 最悪、もう二度と会えないかもしれないと、伝えたら。
 怒るだろうか。少しは、心配してくれるだろうか。死んだら悲しんでくれるだろうか。
 自分がいなくなった後のあの人は。
 一人で悲しみに沈み、世を儚むほど自分を思ってくれるだろうか。それともやっぱり、悲しむだけ悲しんだら、時間の経過と共に自分を忘れ、別の可愛い女性と恋に落ち、結婚して幸せな家庭をもつのだろうか。
 きっとそうだろう。死者は生きている者の生活を脅かしてはいけないのだ。
 どんな痛みでも、人は乗り越えていけるものだし、ましてや忍道に身を置く自分たちは、仲間や家族の死に対するある種の覚悟は常に持っている。人一倍強い覚悟をもって、あの人は自分の不在を受け入れるだろう。
 死ぬことは仕方ないと思った。それは運命というよりも、選択肢の一つだった。忍には死ぬことも任務のうちなのだ。
 きっと。
 自分よりふさわしい人が、イルカには現れる。
 そう思った途端、カカシは息が出来なくなった。
 「ん・・・!」
 「どうした?」
 傍らにいたアスマが、カカシの変調に声をかける。
 「だ・・いじょう・・ぶ?」
 カカシは自身、首を傾げて言った。「・・・あれ?おれ、どうしたんだろ?」 
 「・・・マジやばくねぇ?お前」
 薄気味悪そうに、アスマはタバコをふかす。「・・・俺ゃあいやだぞー、お前の名前の入った慰霊碑に、しおらしく花なんか手向けることになるなんてよぉ。ほんとに行くのか、この任務?」
 「行かなきゃなんないでしょぉ、お仕事なんだから。」
 盛大にため息をついて、カカシは立ちあがった。「・・・依頼書、貰ってこなきゃ。生きて帰ったら、なんか美味しいもん奢ってな、アスマ」
 「んんー、考えておくわ。」
 大男もまた、体を伸ばす。「・・・考えが決まったらおしえっから。聞きたきゃちゃんと帰ってこいや。」
 両手をポケットに突っ込んで。猫背気味に背を丸めて。
 カカシはゆらゆらと歩きながら、背後に向かって手を振った。


 待ち合わせは、何時もの公園の時計塔の下。
 特に指定しない時は、そう決まっている。
 仕事を終え、公園についたイルカは、周りを見まわして自分が一足先に着いたことを確認し、ほっと安堵のため息をついた。
 時計塔の下の円形の土台に腰を降ろし、今朝の思索の後を追う。これからカカシの会ったら、言いたい事が沢山ある。確かめたいことを、頭の中で反芻してみた。
 昨日の涙の訳。どうしても気になってしかたのない、あの痛みの理由。あれは自分に原因があるのだろうか。もしそうなら、誠心誠意謝って、許してもらうつもりだった。そしてもし、別の理由があるのなら、そして自分に出来ることがあるのなら。
 ぼんやりと頬杖をつくイルカの目の前で、急ぎ歩く人々が交錯する。丁度仕事帰りの時間帯なので、商店街の通り沿いにあるこの公園の前は人通りがある。
 かつかつと急ぎ足の足音がした。音からして、女性だと知れた。
 踵の硬い靴音は、カカシでは有り得ない。忍装束の靴は、足音を立てない仕様になっている。
イルカは見るともなく、音の方を向いた。
 「・・・きゃあぁ!!」
 目の前で、女性が派手に転んだ。
 一瞬、イルカは手が出なかった。別の思考に頭が行っていて、反射が間に合わなかったのだ。
忍者にあるまじき緊張感の欠如。
 イルカは慌てて立ち上がり、転んだまま立ちあがれない女性に駆け寄った。
 「大丈夫ですか? お怪我は?」
 「は、はい・・・大丈夫・・・です・・」
 苦しげに、女性は言う。
 長い黒髪が乱れて、顔に掛かっていた。ほんのり赤い唇と、涙目になった大きな瞳。イルカの手を借りて何とか体を起こすが、立ちあがることが出来ない。
 「すみません、お騒がせしました・・・あ、あの、もう結構ですから、ありがとうございました。」
 冷たい地面にぺったりと座り込んだまま、女性は無理に笑顔を造って言った。服にも泥が付き、膝から血が出ている。靴が片方脱げて吹き飛び、その足が明らかに腫れている。
 「無理に立たないで下さい、取り敢えず、こちらに」
 イルカは軽々と女性を抱き上げる。まだ若い、イルカより年下らしい女性だった。突然、見知らぬ男に抱き上げられて、女性は声も出せないほど驚く。
 今までイルカが座っていた土台に女性を座らせ、イルカはジャケットの標準装備から救急手当て用の湿布と包帯を取りだし、簡単な手当てを施す。イルカの手馴れたようすと、その装束から、女性はやっと気がついた。
 「・・・え・・と、忍の方です・・よね?」
 「はい、教員ですけど」
 誰からも評判のいい笑顔で、イルカは答える。特に最近は、その笑顔に男の色気が加わったと、密かに囁かれる有名な微笑み。
 思わず勘違いしたくなるその笑顔に、初対面の女性もまた、ぽっと頬を染める。しかしイルカが確かめるように腫れた足に触れると、声を上げた。
 「いたぁ!・・・」
 「・・・やっぱり、挫いてますね。これでは、歩くのは無理です。」
 考えながら、イルカは言った。
 時計は、5時20分。カカシとの待ち合わせが、5時30分。
 忍の足で、この女性を担いで10分で行って帰ってこられる医者を頭の中で当たる。なんとかなると踏んで、イルカは頷いた。
 「取り敢えず、お医者に行きましょう。俺がお連れしますが、宜しいでしょうか?」
 「はぁ!?」
 意外なことを言われたように、女性は目を見開いた。
 「そんな・・・困ります、その・・し、知らない男の方に、その・・抱っこ・・して頂くなんて、私、その・・」
 「でも歩けないなら、仕方ありませんから」
 女性の反応が何となく面白くて、イルカは笑った。
 「ご心配なく、なにも不埒な真似は致しませんから」
 「その通り、この人は真面目が服着てるみたいな人なんだから」
 不意に背後から声が降ってきて、イルカは固まった。
 カカシが目顔で笑って、イルカ越しに女性に話し掛けていた。「送ってもらいなさい、そのまま放っておくと、治りが悪くなりますよ」
 「はあ・・」
 突然現れた、片目しか覗かせない異国風の美しい忍と、優しい黒髪の忍者とに説得されて、女性はようやく頷いた。
 5時25分。カカシもまた、約束より早く来たのだ。
 背後にカカシの体温を感じて、イルカは胸騒ぎを感じた。気配も足音もなく声を掛けられるまで気づかせない技は、相変わらず見事だ。格の差は歴然としていた。いつもはちゃんと、イルカに気配を感じさせて近づいてくるカカシが、何故今日は違うのか、イルカは昨日のことと考えあわせて不安になった。
 「じゃあ、カカシさん、ちょっと待っていて頂けますか?すぐ戻りますから」
 ひょいと女性を抱き上げて、イルカはカカシに頭を下げた。「すみません・・後で」
 「気を付けて」
 片手を上げて、カカシは言った。
 真っ赤な顔でイルカに身を預ける女性を見るカカシの胸の中は、穏やかではなかった。
 長い髪で、可愛い顔で、純情で清楚。イルカが好む典型的な女性の雛型。
 風のように走り出すイルカの背を見送って、カカシは時計を見上げた。
 5時38分。
 6時までにイルカが戻ってきてくれるといいのだが。
 時計塔の下に腰を降ろし、カカシは膝に頭を預けた。なんと言って、イルカにまた任務で行かなくてはならないと伝えようかと、ずっと思っていた。まさかこんなカタチで、問題が解決するとは。
 5時40分。今生の別れかもしれないのに。忍の宿命とは、こんなものか。死は日常。明日は未定。いただきますとかおやすみないと同じように、これで最後、と言って別れるのも当たり前。
 思いがけず、イルカが自分のいない所でどうするのかを見た気がした。あんな風に、偶然がイルカに相応しい女の子を連れてきて、きっかけが二人を引き寄せて、日常になっていく。自分のいない世界。自分がいなくても、まあるく廻っていく未来。
 5時55分。集合は里の南門。
 5時58分。
 カカシは立ちあがり、姿を消した。


 教員詰所で、イルカは今日のシフト表を確認する。
 今日は午後からアカデミー上級生の火薬実技の立会い。その前の午前中は、依頼所の受け付け。机の上に置かれた連絡事項のプリントをチェックして、依頼所に向かう。
 まだ教員しかいない依頼所で、形通りの挨拶を交し合い、イルカは席に着く。依頼の用紙や必要書類をより分け、申し送り事項に目を通す。
 何一つ、問題のない日常。注意を引くものは何も無い。イルカはほっと安堵のため息をつく。
 問題があるのは、俺だけか。
 おととい。カカシが何も言わずに泣いていた。慰める術もなく、気づかない振りをするしかなかった。
 昨日。結局女性を医者に連れていった後、どうしても歩くのは無理と見て、家まで送って行ったのだ。恐縮して家に寄っていって欲しいというのを振りきり、公園に戻った時には約束の時間を40分過ぎていた。
 カカシは居らず、慌てたイルカはカカシの家を訪ねたがそこにも居らず、イルカは自分の家に帰ってみたが、やはりカカシは居なかった。どこに行ってしまったのか見当もつかず、動揺したままイルカはあちこちを走り回ることになってしまった。
 諦めて家に帰ったのは、もう深夜に近かった。冷え切った家の中には、朝、カカシが片付けてくれていった茶碗や湯のみが水切り篭に重ねてあった。
 何の伝言も断りもなく、こんな風にカカシが姿を消すとしたら。
 頭では判っていた。きっと緊急の任務が入ったのだ。上忍の中でもカカシほどの忍になると、都合もシフトも無視した任務が依頼される。当人にしか臨めない仕事というものがあるのだ。
 ろくに話もできない別れだった。2週間会えなくて、たった一日。逢瀬というにはあまりに短い時間。今度会えるのは、何時なのか。そもそも会うことは出来るのか。
 暗い考えになる前に、イルカはぶんぶんと首を振った。大丈夫。カカシが帰ってきたら、今度こそちゃんと話をしよう。その時、覚えていられればいいのだが。きっとまた、話どころかけだものになって、それどころでは無くなってしまうのかもしれないけれど。
 とにかく、仕事だ。
 年末は溜まっている任務の消化に追われる上に、新たな依頼も容赦なくやってくる。大晦日と新年を家で迎えたいのなら、雑念は振り払って集中することだ。
 依頼所開門を告げる鐘の音が響く。受け付け担当たちは一斉に立ちあがり、一礼する。今日一日よろしくお願いしますという心構えである。
 「・・・・あの」
 朝一番の依頼主には、見覚えがあった。
 「イルカ・・・さん?」
 イルカはああ、と立ちあがった。「昨日の・・」
 痛む足を引き摺って、昨日の女性が恥ずかしそうに頭を下げた。
 「あの、昨日は、ありがとうございました。ほんと、何にもお礼もしませんで・・」
 女性はたちのサエといった。
 「いえ。却ってわざわざすみません。そんなお怪我では、ここまでくるのは大変だったでしょうに」
 サエの足を気遣って、イルカは手を伸ばしてサエを支えようとした。サエはほんのりと頬を染める。
 「いえ、あの・・今日は、実はその件で・・ここって、忍者の方に、色々お仕事を頼める所ですよね?」
 「はい」
 この場に相応しい営業用スマイルで、イルカは答えた。

 サエの依頼は、付き添いだった。
 足の捻挫は、全治2週間。その2週間の間、サエの家に迎えに来てサエを職場まで送り、終業後サエを家まで送り届ける。医者の都合で、何日になるかは判らないが、予約の取れた日は医者へも付きそう。それをサエは、特にイルカ指名で依頼してきた。
 忍の里である木の葉の住人であるのに、サエは忍に依頼をするのは初めてだという。忍という人々がすぐ傍に暮らしていることは知っている。でも、自分には関係ない職業だとずっと思っていたのだ。忍というのは、殺し合いや裏黒い陰謀に関わるのが本領、一般人の自分のような人間には、何も頼み事などあろうはずがないと思っていた。
 イルカに助けられて、忍というのがこんなにも身近で、いい人なのだと初めて知ったのだ。
人を引きつける優しい笑顔と、細やかな気遣い、そしてやはり尋常ではない体力。なにしろイルカは、自分を姫抱きに抱いたまま、一キロ以上を早駆けに走って、医者に連れて行き、かつ家まで同じく連れ帰ってくれたのだ。別れる時も息一つ乱れておらず、帰る時の早さはその場から掻き消えたといった方が正しいくらいだった。
 サエの忍に対する認識は180度変わった。いや、175度くらい。究極の技と体という項目については、再確認したというところか。
 肉親が無く、杖となってくれるような逞しい彼もいないサエにとって、多少金子が掛かっても、忍に依頼を出すのが一番手っ取り早かった。そして依頼するなら、一度でも顔を見知っている相手のほうが、より安心できる。誠実で、笑顔の優しい、顔に印象的な一文字傷のある忍。
別れ際、社交儀礼で名乗ったイルカのことを、サエは忘れられなかったのだ。
 仕事の格付けは、Cランク。仕事的には危険も機密性もないが、時間を守って毎日続けなくてはいけないのと、人一人支える体力がいるという点で、子供には任せられないと判断されたのだ。
 そして依頼人が女性で、初めての忍への依頼という事で、安心を売るためにも、依頼人の希望を入れ、イルカの担当ろ成る事が決定した。
 本来、アカデミーのベテラン教員であるイルカのような男に、任務が回ってくるような事は滅多にない。里の内務に無くてはならない人材なのだ。しかし今回は危険はないし、期限も限られている。特別なシフトが組まれ、イルカはサエ専任となった。
 希望が通った時のサエは、正に花開くような笑顔で目を輝かせた。よろしくと何度も頭を下げ、早速今夕から、イルカの送り迎え任務が始まった。


 任務とはいえ、イルカはいつも帰るよりはるかに早い時間に帰宅することが出来た。
 いつもは残業や居残りの付き合いは当たり前で、いつが定時か忘れているくらいだったのだ。
特別に定時帰宅を敢行するのは、カカシが里に居る時。
 誰もいない古い家。親が残してくれた、平屋だが庭もある住み慣れた木造の部屋に帰ってきて、そのしんと冷えた空気にイルカは白い息を吐く。
 取り敢えずジャケットを脱ぎ、適当に放り出した。時間は早いが、風呂の用意をする。脱衣所にはいり、洗濯機の蓋を開けると、丸めたシーツが目に入った。
 どきりとした。カカシが入れていったのであろう、あの夜の印が残るシーツ。昨日は気が付かなかったが、カカシはわざわざベッドのシーツを換えて行ってくれたのだ。流石に洗濯して干している時間は無かったのか、洗う準備だけして行ったのだ。
 考えまいとしていた不安が、じわりと胸を暗くする。
 風呂に火を入れ、その間に食事の用意をする。いつも一人の時は料理せず、外食か出来合いの物で済ませてしまうので、食材の買い置きはしていない。
 大した期待もなく冷蔵庫を開け、イルカは再び息を止めた。冷蔵庫の中を占領する、タッパの数々。
 そうだった。カカシが来るというので、彼女の好きそうなものを作り置きしておいたのだ。
 先の任務は帰還の日程が決まっていたので、大体の当たりを付けることが出来て、日保ちのする煮物などは作って冷凍したり、野菜は下茹でしておいたりしたのだ。
 突然、火影の用を言い付かり、買い物に付き合わせ、一息ついて。食事をすることも忘れていた。
 情けない気持ちで、イルカは用意していたタッパを見繕った。
 何を出したかも確認せず、台所で食事の支度をする。手元に出したのは、切干大根と、茹でたほうれん草。切干大根を小鍋にあけ、ほうれん草は味噌汁にする。
 味はわからなかった。
 食事を終えたイルカは、機械的に風呂に入る。湯船に浸かり、目を閉じた。
 静けさに思考が集中する。いつもの一人。誰もいない、思い出だけは沢山染みついた生家。
何一つ馴染みないものはないのに、よそよそしく、孤独に感じるのは、何故なのか。
 イルカは目を開けた。これ以上誤魔化すのは嫌だった。自分は寂しいのだ、後悔しているのだ。何故、たった一言、カカシに言えなかったのか。涙の理由を、何故聞けなかったのか。
 いつも、カカシの姿を見ると胸が痛む。喜びと安堵と、締めつけられるような愛しさと。何から話したらいいのか判らなくなる。人目を避けて僅かしかない時間をかき集めて、待ち望んでいた逢瀬を味わう。苛酷な忍の世界から束の間解放されたカカシは、自分にとっては心優しい恋人で。触れ合う温もりは何よりも大切で、愛しさのみがつのり、熱さが体を、思考を支配する。獣が理性を食い荒らし、もう何も考えられない。
 こうして思い出しているだけで、イルカは自分が昂ぶっていくのを抑えられない。激しい仕草でイルカは湯船から立ちあがる。洗い場に降りると冷水を汲み、頭からかぶった。
 犬のように頭を振り、水気を飛ばす。荒くなる息が整うまで、イルカはじっとしていることを自分に強いた。
 自分がしたいのは、そんなことじゃない。体だけの関係が欲しいのではない。
 過去がどうであったかは想像するしかないが、孤独だった自分よりもっと孤独だっただろうカカシ。その未知の年月を埋めたかった。人間的な生活をしなかった彼女の安らぎになりたかった。男ではなく、女であることは許されず、人と接するのは右の目と指先のみ。呼吸さえも忍のマスク越しに、気配も匂いもなく。世の中から隔絶された存在。別の宇宙にいる人。
 その人が、人間に戻ること。それが自分の望み。それが出来るのは、自分の前でだけなのだと、イルカは自負している。伊達にアカデミー教員を長く続けているわけではない。落ち零れの生徒を拾い上げ、標準まで持って行く。それが出来ると信じなくては、絶望的な仕事なのだ。
教師というのは、楽天的でなくては務まらない。
 それに。
 カカシが別の男に取られるなど、考えたくもない。
 『狙ってる人も多い』。『知らない所で、敵を作っている』。
 昔のイルカなら、その言葉に敏感に反応し、カカシとの間にすすんで距離を取ろうとするだろう。
 誰かに恨まれたり、誰かの邪魔をすることに、イルカは恐怖に近い感情を持っていた。見知らぬ人間が怖くて計り知れなくて、誰からも恨まれず、嫌われずにいることがイルカの存在意義だったのだ。
 だが、今は、たとえ世界を敵に回しても、カカシは誰にも譲れない。自分にあの人が必要なだけでなく、あの人には自分が必要なのだ。思い込みでも、錯覚でもいい。カカシが自分の傍らでなら泣けるのだと、知っている今なら。
 だから後悔しているのだ。
 泣いていたカカシが、それを隠して笑っていたことが。泣きたい時心行くまで泣ける場所を、また一つ失わせてしまったことが。
 又、考えがそこに帰着する。カカシが何を言いたかったのかが、気になって仕方ない。昨日の突然の任務。あの涙は、この事を知ってのことだったのだろうか?
 だとしたら。
 再び、イルカは水をかぶる。真っ黒な考えに、水の冷たさよりも不安で体が凍りつく。
 カカシは、帰ってこないかもしれない。


 未だ太陽の気配のない早朝、イルカは小さなアパートのドアを叩く。
 「お早うございます、サエさん」
 「お早うございます、イルカさん」
 白い息を吐きながら、お互い挨拶を交わす。
 サエは里の外れの静かな住宅街から、アカデミー近くの衣料品の店に通っている。仕事はお針子で、なかなか腕はよく、頼りにされているので、毎日休めない。依頼の代金も、半分は店から出ているようだ。
 サエは恐縮したようにイルカに持たれかかる。なるべく体重を架けないようにとの医者の注意なので、半ばイルカに抱きかかえられての移動となる。これなら、初めの時のようにイルカが抱いて運んだほうが早いくらいだ。
 「俺は構いませんよ?サエさん、軽いですし」
 イルカは言ったが、サエはぶんぶんと首を振る。
 「ダメですっ!! そんなところ、誰かに見られでもしたら・・・!!あ、いえ、べ、別にイルカさんが嫌、て訳じゃないんですよ!? 忍の方に、偏見持っているわけじゃないんです
けど・・・」
 一生懸命言い訳するサエを、イルカは笑って落ち着かせる。
 「いいんですよ、サエさんがしたい様にして下さい。俺は杖でも車にでも、何にでもなりますから。」
 サエはそんなイルカの笑顔に、いつも頬を染める。「・・・はい」
 片腕にサエを抱いて、もう一方には自分の鞄と、サエの荷物。
 格好が格好だけに、人目を気にするサエは、あまり人通りのない早朝を指定してきた。店の開店時間には随分早いが、サエを送り届けると、一先ずイルカの仕事は終わる。当然イルカも、大幅に早くアカデミーに着くこととなるが、夕方また送り迎えがあることを考えると、却って助かることもある。早いうちから仕事を始めておけば、残業の心配は減る。
 医者へ行く日は、許可が出ているので、就業時間内でもサエを迎えに行く。
 事は医者の診療の時、あっさりと発覚した。

 「・・・見られてしまいました・・・」
 愕然と、サエは打ち明けた。顔は真っ赤で、目は虚ろだ。
 「・・・職場の友達に・・・イルカさんとお医者さまの所へ行った日。あの人、彼氏?て・・・」
 「はあ」
 早朝出勤2日目だった。「早かったですね」
 「考えてみたら、お店に近いお医者を選んだんですものねぇ」
 力なく、サエは肩を落としてため息をついた。「・・・昼間なら、誰かに見られて当たり前です・・ああ、私って馬鹿だぁ・・何の為に、イルカさんに無理言って、朝早く来てもらってたんだろ!」
 落ち込むサエを優しく見つめ、イルカは肩を抱く。
 「・・・まぁ、お怪我が治るまでは辛抱していただくしか・・きっとすぐに、誤解は解けますよ。俺みたいなのが彼氏なんて、サエさんみたいな可愛い方には、有り得ませんから。」
 「え、えー!? そんな、逆ですよ!! 私みたいなのに、イルカさんみたいな、素敵な人、勿体無いですっ!!」
 サエは大声で叫んだ。
 イルカは安心させるようにサエを促し、ゆっくりと歩き出す。
 「ほんとの事を言えばいいだけですから。怪我のせいで歩けないので、忍に依頼して付き添って貰っている、て。里では良くあることですよ」
 「あ・・はい」
 気遣いの篭った、ゆっくりとしたリードで歩きだし、サエはぎこちなく頷いた。イルカをそっと見上げて、その何時に変わらぬ微笑に勇気づけられる。何時しかサエの顔にも、明るい笑顔が戻っていた。
 「・・・じゃあ、イルカさん・・・。申し訳ないんですけれど、朝の時間、変更してもいいですか?もう誰かに見られるの、気にしてられないし、何時もの時間に間に合えばいいので・・・」
 残念。早朝仕事をするのは、気に入っていたのに。
 「勿論、いいですよ」
 「よかった」
 サエは言い、にこにこと付け加える。「イルカさんて、ほんと良い人ですね」
 「良く言われます」
 照れも気負いもなく、イルカは答えた。

 
 



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