bird cage−2

 

ここ数日、今までに覚えがないほど体調が悪く、サクモはずっと床に伏していた。
その原因は、自分でもわかっている。
精神面に受けたダメージが、身体にまで影響を及ぼしているのだ。自分はこんなにも弱かったのかと、サクモは自嘲していた。
他人の悪意が、毒のようにサクモを蝕んでいく。
自来也達、ほんの数人の善意や好意で打ち消そうにも、サクモの傷口に塗りこまれ、吐きかけられるその悪意はあまりにも陰湿で、免疫の無かった彼を苦しめていた。
(………僕が、甘かったんだね………)
自来也達が気づいた事を、サクモが気づかぬわけがない。
今回の事件が、三代目に反発している派閥の者達に利用されているのだと、わかっていた。
仲間をあんな所で死なせたくないと思った。
あれは、任務中断によるリスクなど覚悟の上での撤退だ。損失を出した責任は取るつもりでいたし、任務そのものを投げ出す気も無かったのに、仕切り直しての任務続行は却下された。
その任務における『隊長』としての資格無し、と査問を担当した上忍は、サクモの弁明など問答無用と聞こうともしなかったのである。日頃から、サクモの評判を面白く思っていなかったその上忍にとっては、溜飲を下げるまたとない機会だったのだ。
サクモは大人しく退いた。
任務から降ろされることも、処罰のひとつだと思ったからだ。
(………こんなに甘くて弱い人間が、火影になれるなんて思っていたんだろうか…? 笑ってしまうね)
サクモは、火影になりたいなどと思った事はない。自分を育んでくれたこの里を、自分が愛している者達がいるこの里を、護っていきたくて―――だからこそ、忍としての力を磨いてきたのだ。
だがそれは、他の者達から見れば『火影に近づこうとしている』行為にしか見えなかったのだろうか。そもそも、そんな器ではない自分の不始末で三代目に迷惑をかけてしまったのだと思うと、申し訳なかった。
そして、裏で巧妙に煽っている者がいるのだとしても、それに簡単に同調する人間が大勢いたのだという事実がサクモを一層傷つけていた。
任務を中断して火の国に損失を出し、里の信用を損なったことで責められても仕方が無いが、まさかあの時に『死なせたくない』と救った仲間達にまで悪し様に罵られるとは思わなかった。

「…お父さん。スープなら飲める?」
息子の気遣わしげな声に、サクモは眼を開けた。
そういえば、ここのところ食欲が無くて、あまり食べていなかった。
食べていないが、不思議と空腹感が無い。これはあまりいい傾向ではないな、とサクモは薄っすらと思った。
「………スープ? うん、そうだね………飲むよ。ありがとう」
その答えを聞いたカカシは、少し嬉しそうな顔をした。父親の食が進まないのを心配して、どんな物ならば口にしてくれるか、一生懸命に考えたのだろう。
そんな息子の気持ちがわかるから、「欲しくない」とは言えない。それに、きちんと栄養を摂らなければ、この体調の悪さも治らないと理性ではわかっているのだ。
身体を起こそうと、サクモはシーツに手をついた。身体が、酷く重く感じる。
「大丈夫? お父さん」
「………うん。大丈夫、大丈夫。…ここのところ、ちょっと寒かっただろう? 風邪をひいただけだから、ね?」
「…お医者さん、呼ぼうか…?」
サクモは微笑って首を振る。
「大丈夫。…寝ていれば、治るよ。………カカシは任務に行かなくてもいいの?」
「いいの。お父さんの傍にいなさいって、先生が言ったんだ。だから、お父さんの傍にいるのが、オレの任務なんだ」
カカシはスープの椀を父親に差し出した。
「…もっと、何か他に食べたいものある? 何なら食べられる?」
幼い息子に気を遣わせているのを申し訳なく思いながら、サクモは首を振った。
「今は、スープだけでいいよ。…ごめんね、カカシ。…カカシは、好きなものを食べなさい。………お父さんも、お腹がすいたらちゃんと食べるから」
うん、とカカシは頷いた。
冷蔵庫には、サクモとカカシを気遣ったミナトが詰め込んでいった食料がたくさんあった。あれがあれば、しばらくは買い物に行かなくても済む。父の傍を離れなくて済む。
「オレ、洗濯してくる。…お父さん、ちゃんと全部スープ飲んでね」
「…うん。…ありがと、カカシ」
小さな背中を見送り、サクモはそっと息をついた。
ゆっくり、ゆっくりと暖かな液体を飲み込む。
飲み込む事が、ひどく億劫だった。
何故、こんな事になってしまったのか。
たくさんの人に迷惑をかけ、小さなカカシに心配をさせて。
(―――僕は、そんなに間違ったことを…してしまったのか………)
ふと、玄関に馴染みの無い気配を感じたサクモは、椀を横に置いた。
カカシは裏庭だ。
サクモは何とかベッドから降りると、重い足取りで玄関に向かう。
やはり、戸の向こうに誰かがいた。
「………どなた………?」
誰何すると、細い声で応えがあった。女の声のようだが、よく聞き取れない。
サクモは戸を開けた。
そこには、青白い顔をした女が一人で立っていた。見覚えがある。確か、部下の妻だ。
「………あ………ミヤギ…君の、奥さん………?」
女は、無表情にじっとサクモを見上げ、微かに頷いた。
そして、唐突に告げる。
「あの人が、死にました」
「………え………?」
サクモは面食らった。………誰が、死んだ―――?
「ミ…ミヤギ君………が?」
「一昨日、川に落ちて死にました」
そんなバカな、とサクモは耳を疑った。
彼は、もうすぐ上忍に昇格するかという程の確かな腕を持った中忍だ。水練だって達者だし、いくら川の水が冷たくても落ちた程度で死ぬなど考えられない。
「な………ぜ………そんな………」
女の表情は不気味なほど変わらなかった。
「泥酔していたんです」
それも、俄かには信じ難かった。サクモの知る彼は、節度のある飲み方をする男で、しかもそう強くはないからと、泥酔するまで飲んだことなど一度も無かったからだ。
「あれから、ずっと。…毎晩のように酔うまで飲んでいました。…隊長が責められているのは、自分の所為だと。貴方に謝りながら、何度も謝りながら、毎晩潰れるまで飲んでいました。身体に悪いからやめて、とあたしが言っても聞きやしなくて………とうとう…」
サクモは言葉をなくした。
確かに、彼もあの時同じ隊にいた。サクモが任務を中断しなければ、彼はおそらく殉職していただろう。
だが。
「………あたしは、覚悟してあの人と一緒になりました。…あたしだって、くノ一の端くれでしたから。任務であの人が先に逝ってしまかもしれないのは、覚悟していた。………でも………」
女はキッと顔を上げた。
「あんな死に方、あたしは納得できないっ! あんな………あんな、死に方っ! 任務で死んだのなら、まだ諦められる! 誇りにも思える! でも、でも………ッ…あんな………」
女の双眸から涙があふれた。
「―――あんたが殺したんだ!」
サクモは、殴られたように蒼白になった。
任務の上での殉職ならば、英雄として慰霊碑にも名が刻まれる。彼女の言う通り、遺された者は悲しみながらもそれを誇りに思い、慰められるのだ。
それが、泥酔した上の溺死。
忍としては、これ以上ない不名誉な死に方だ。笑いものになるだけで、遺族は救われない。
返す言葉も無く唇を震わせている男を見て、彼女は涙に濡れた顔に昏い笑みを浮かべた。
「だから、あんたも死んで。………あたしに刺されて、あんたは死ぬの。…さぞ、滑稽でしょうねぇ………中忍にもなれなかった女に、白い牙が殺されるのよ………」
女の手には、いつの間にか短刀が握られていた。
その鈍く光る刃を見ても、サクモは動かない。
「………死んで………」
女は、サクモの腹に切っ先を向けた。その切っ先が着物に触れても、サクモはそれを避けようとはしなかった。
それどころか、彼女に向かって優しく微笑んだのだ。
「…そこじゃないよ。…もう少し、上だ。でないと、刺しても致命傷にはならない。忍だったのなら、知っているでしょう…? ほら…」
ここ、とサクモの手が彼女の手に重なり、短刀の切っ先を急所に誘導する。
女は虚を突かれたような顔で、ポカンとサクモの綺麗な微笑を見ていた。
そして、彼の着物に真っ赤な血が広がり始めたのにようやく気づき、悲鳴をあげた。
「きゃあぁぁぁああっ!」
彼女の悲鳴を聞きつけ、カカシが飛んでくる。
「お父さんッ!」
父の身体に刺さっている短刀を見て、カカシは顔色を失った。明らかに急所だ。
「…お前が…ッ…」
腰を抜かしてその場に座り込み、ガタガタ震えている女に、カカシはクナイを向ける。
ス、とカカシの眼前にサクモの手が伸びた。
「………よしなさい、カカシ。………いいから」
「お、お父さん…でも、でも…ッ………」
そうしている間にも、どんどん父の着物を染めていく血に、カカシは狼狽した。
これは、自分にはどうにも出来ない。
「ひ、人を呼んでくるっ!」
慌てて飛び出そうとしたカカシは、腕をつかまれて驚いたように振り向いた。蒼い顔をした父が、しっかりとカカシの細い腕をつかんでいた。
「放して、お父さん! 助けを呼ばなきゃ!」
サクモは首を振った。
「………カカシの任務は、僕の傍にいることだろう…? なら、いなきゃダメだよ」
「何言ってるの! そのままじゃ死んじゃうよぉ………」
うん、とサクモは頷いた。
「そう………だね。…だから、いて。…カカシ、ここにいて………」
「お………とぅ………さん………」
カカシは、ぺたんと父親の脇に座り込んだ。
サクモの額に、脂汗が滲む。相当、苦しいのだろう。
「………聞いて、カカシ。………お父さんは、間違えてしまった。………人の命を救ったつもり………で、その人の、心を…殺してしまった………忍としての…誇りを………」
サクモは、泣き出しそうに顔を歪めている息子の柔らかい頬に手を当てた。
「………これは、その罰だよ。………僕が、受けなければいけない、罰だ………」
だからね、とサクモは微笑んでみせる。
「…お前は………誰も…恨んではいけない。………僕、以外は」
「お父さん………やだ、お父さん………」
父の顔から、どんどん生気が奪われていく。
「…人に………聞かれたら、お父さんが…自分でやったんだと………言いなさい。…彼女の、所為じゃない。………いいね………?」
カカシは激しく首を振った。
「やだ………やだ、おとうさ………」
「………いいね、カカシ。…約束して………」
「お父さんッ!」
サクモは、愛おしそうに指でカカシの頬を、唇を撫でた。
「………ごめんね………僕は………いいお父さんじゃ…なかった………ね………」




 

自来也よりも一足早く里に帰還したミナトは、報告もそこそこにサクモの家に向かった。
嫌な胸騒ぎがして仕方なかったのだ。
前庭に足を踏み入れた途端に鼻をついた濃い血臭に、ミナトは顔を歪ませた。
「………まさ、か………っ………」
急いで玄関の戸を開けると、そこには最悪の場面が広がっていた。
着物を真っ赤に染めて事切れている、白銀の髪の男。
玄関の隅に座り込んで、狂人のように焦点の合わない眼でブツブツと呟いている女。
そして、男の亡骸の傍に、呆然と立ち尽くす子供。
辺りは、血の海だった。
ミナトは、口を覆った。
「………なんて………ことだ………………」
サクモの胸には、短刀が刺さったままだった。その顔は、眠っているように穏やかだ。
もう、手遅れだと承知しつつ、ミナトはサクモの脈を診る。その肌はまだ、温かかった。死亡してから、そう時間は経過していない。
ミナトは唇を噛んだ。では、自分の帰還がもう少し早ければ、いや、報告など後にして先にこちらに来ていれば。
サクモは死なずに済んだのかもしれない。
ミナトは、犯人らしき女を無視してカカシの前に膝をつき、そっと呼びかけた。
「………カカシ。………聞こえている? カカシ。…私だ」
カカシの視線は、ぼんやりと父親から青年に移った。
「…………………ぃ…?」
「…うん。………私だ。………何が、あった? 話せる? カカシ」
カカシは、抑揚の無い声で、ヘタな芝居のセリフのように呟いた。
「………おとう、さんが、じぶん、で、やった……………」
思わずミナトは、カカシの細い肩を両手でつかむ。
「何だって?」
カカシはもう一度、同じセリフを繰り返す。
その後は、酸素を求める金魚のようにパクパクと口がわななくだけで、声が出なくなってしまった。
「………わかった。もう、いいよ………カカシ」
ミナトは、恐ろしいほどの喪失感に耐えながら、子供の細い身体を抱きしめた。

これほど、自分が無力に思えたことは無かった。

 


(2009/05/10)

 





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