蒼穹の欠片 -Epilogue-

 

 

「イルカ先生、メシでも食いませんか? 確かこの辺りにねえ、美味い店があるってアスマが言ってたんですよね」
辺りが薄暗くなり、飲食店などがつい眼を惹かれる暖かな色の提灯を軒先に下げる時刻。
通りを歩きながら、カカシは店を捜すように頭を巡らせる。
「アスマ先生、そういうのよくご存知ですよねえ。美食家なんですね」
イルカはにこにこと頷いて、食事を摂る事に賛成する。
これから夕食の支度をするのは少し辛いとイルカも思っていた所だったのだ。
「ハハハ…アスマのは美食というよりただの食いしん坊って感じですけどねえ。何せ、美味いとなったらガキに混じって屋台の団子食うような奴ですから。でもまあ、奴が美味いと言ったものにハズレはないです。その点は信用できるかな…ヘビースモーカーのくせに舌だけはマトモなんですよね」
ああ、あった、とカカシは足を止める。
「…もーね、ホントにただの定食屋さんなんですって。でも、出てくる料理が何かねえ、オフクロの味って言うんですか。すっごい深くて暖かい味なのだそうです。…イルカ先生の料理もそんな感じだとオレは思うけど……あれ? イルカ先生?」
暖簾をくぐろうとしたカカシは、すぐ後について来ないイルカを訝しんで振り返った。
イルカは、店を見て立ち竦んでいる。
「…イルカ先生?」
カカシに再度声を掛けられたイルカは、我に返ったように慌ててぎくしゃくと微笑んで見せた。
「な、何でもありません……ここ、ですか…」
「…イルカ先生、何か顔がヘンですよ? もしかして、具合でも悪いんじゃ…」
イルカはぶんっと首を横に振った。
「いいえ! 大丈夫です。…入りましょう」
カカシは少し心配げな顔をしたが、イルカに促されて暖簾をくぐる。
「はーい、いらっしゃい。お兄さん達、二人かい」
威勢のいい女性の声が二人を出迎えてくれた。
「うん、二人」
カカシはひょっと二本指を立てて見せる。
「今、ちょっと混んでるんだよ。カウンターでいいかしらねえ」
「構いませんよお。…ねえ」
カカシは連れを振り返る。
「…構いません」
カカシの後に続いて暖簾をくぐったイルカは、眼を細めて店内を見た。
「ごめんねえ、普通の卓より少し狭いけど…………」
店のおかみは、ふいに言葉を切って、入って来た青年を凝視した。
「…………あんた…もしかして…イ、ルカ……ちゃん…?」
イルカは丁寧に頭を下げた。
「………ご無沙汰しておりました、おかみさん」
「やっぱりイルカちゃんなんだね? …まあまあ、大きくなって!」
カカシは首を傾げた。
「あれ? お知り合い?」
イルカは微笑む。
「はい。……昔、お世話になっていました」
おかみは小走りにイルカの近くに寄り、しげしげと顔を見上げる。
「あらまあ、いい男になったねえ。…痩せっぽちのおちびさんだったのに。……やだよ、この子は……あれきりぷつりと来なくなっちまって。…生きていたんなら何で来なかったの……あたしは…てっきりあんたまで死んじまったのか…って……」
目を潤ませるおかみに、すみません、とイルカは再び頭を下げる。
「…意気地なしだったんです…あの人がいないのに、ここに来るのは……正直、辛かった。……すみませんでした。ご心配…おかけして……」
おかみは首を振る。
「…そうだね。…あんたの気持ちもわかる気がするよ…あの子はあんたを可愛がっていたからね……」
「おかみさん…」
事情がわからずに置いてきぼりをくっているカカシを気遣い、イルカは彼を振り返る。
「あの……以前、お話した事があるでしょう。俺がまだ下忍になったばかりの頃、中忍の方の補佐任務についていたって…その人によくこの店に連れて来てもらってたんです。それで、このおかみさんにもよくしてもらってたんですよ。……ここに来るのは…もう十年ぶり…くらいですか…」
カカシの眉が心持ち寄せられる。
「そうだったんですか…奇遇…ですね」
「ええ…」
イルカはにこ、とおかみに笑いかける。
「ホント言うと、おかみさんの作ったご飯、ずっと食べたかったです。…今日は久し振りなんで楽しみですよ」
「うん。久し振りだからね。…ゆっくりしておいき。……そっちの、イルカちゃんのお友達もね」
「どーも。俺はカカシって言います」
「カカシさんね」
店内の空気が小さくざわ、と波立った。
店の中には相変わらず忍の姿が多い。
上忍の『写輪眼のカカシ』の事は噂でしか知らない忍達は、皆興味を抑えきれずにこちらに注意を向けている。
おかみはそのざわめきを見事に無視し、イルカとカカシをカウンターに案内した。
店内に背を向けてしまうカウンター席は、好奇心を持ってこちらに向けられる視線を遮断してしまうには都合が良かった。
「何にする?」
おかみは熱いおしぼりを二人に渡す。
「…カカシ先生、ご希望はありますか?」
イルカに訊かれてカカシは目の前のお品書きを一瞥し、軽く唸る。
「腹減ってるんで目移りしますね。…イルカ先生にお任せします」
イルカも渡されたお品書きを眺め、困ったように苦笑した。
「俺も何だか目移りしちゃうなあ…おかみさんに任せようかな。…おかみさん、今日のお薦めがあったらそれをお願いします」
おかみは目を細め、「あいよ」と頷いた。
「ちょっと待ってね」と断わり、厨房に戻って先に注文のあった客の料理を運んでくる。
その客にも愛想よく話し掛け、疎外感を与えないように気を配っている彼女にカカシは感心した。
そして先に来ていた客の注文をさばいてから、イルカ達に口取りの小鉢を持って来てくれた。
「はい、取りあえずこれでもどうぞ。今日は美味しい鰆があるんだよ。それに、筑前煮がうまく出来たから持って来ようね」
「そりゃあいい」
カカシは小鉢に盛られていたわけぎの酢味噌和えを口に入れ、嬉しそうに唸った。
「んー! 美味い、コレ。貝柱も入ってていい味だ」
イルカも箸を取って酢味噌和えを口に運ぶ。
「美味しいですね」
「そう。良かったわ。…ねえ、イルカちゃんって、先生なの?」
「あ…はい。アカデミーで……教師をやってます」
「ああ、そうだったの…あたしはさあ、うちの子には店を継いで欲しいから忍術アカデミーには入れなかったんだよ。…入れてたら、もっと早くあんたが生きていた事…わかったかもね…。そう…先生なの…立派になったんだね。あたしも、嬉しいよ」
「…俺なんか、全然立派じゃないですよ…」
イルカは申し訳なさそうに俯く。
「イルカ先生はいい先生ですよ。…生徒にも慕われている。この人の指導を受けられた子供は幸運だとオレは思いますよ、おかみさん」
俯いたイルカの代わりに、カカシがおかみに微笑んでみせる。
おかみは、自分の子供を褒められたように嬉しそうに笑った。
「そうなの。イルカちゃん、先生っていうのが合ってるんだろうね」
イルカは居心地悪そうな顔でカカシを横目で見る。
「やめて下さいよ……俺は…」
「照れなさんな。…あたしも長いことあんた達忍者をたくさん見て商売してきているから、ある程度は見ればわかるよ。…難しい事はわからないけどね。カカシさんは、たぶん上忍さんだろう? そういう格の高い人は、愛想や冗談で人は褒めない。…そうだよね? カカシさん」
カカシは右目を見開いた。
「敵わないおばちゃんだなあ…こりゃイルカ先生も大変だ」
「そうですね。…ちなみに、このお店の中じゃおかみさんがルールですから。俺達忍の常識を持ち込んではいけないそうです」
あら、とおかみは腰に手を当てる。
「よく覚えているじゃない、イルカちゃん」
イルカは笑いながら、どんどん胸が苦しくなるのを感じていた。
久し振りの店。
十年前と変わらず、気さくに暖かくもてなしてくれるおかみ。
何気ない会話のやり取りが、懐かしい空気を思い出させて胸に痛い。
あの頃はまだ世の中の事をよくわかっていない子供で、その日その日の訓練をこなすだけで精一杯で。
ここの料理とおかみとのやり取りを楽しみに来ていた中忍達は、そんなイルカを皆可愛がってくれた。

―――そして、あの人。

「……本当に、イルカちゃんが元気で良かったよ……アサギちゃんも…喜ぶだろうよ」
イルカはふいに立ち上がった。
「すみません。…ちょっと、失礼します」
「イルカ先生?」
カカシが立ち上がったイルカを見上げた時は、もうその姿は消えていた。
「……う〜わ。相変わらず素早い消え方。…しょうがない人だなあ…」
おかみは状況がつかめないといった顔でぽかんとしていたが、「あ」と声を上げる。
「…あたしがいけなかったね…彼の名前を出すんじゃなかった……」
カカシはしなやかに立ち上がり、少し屈んで小柄なおかみに笑いかける。
「おかみさんの所為じゃない。…あの人は少しナーバスな所もあるんでね。…きっと、泣き顔をおかみさんに見られたくないんでしょ。オレが連れ戻してきます」
「…でも……」
「まだ鰆も筑前煮も食べてないんですよ? オレ、イルカと一緒に食いたいから」
悪いけど席取っといて下さいね、という声を残してカカシも姿を消した。
おかみは残された箸を濡れ布巾で綺麗に拭い、箸置きに置き直してそっとため息をつく。
「……アサギちゃん…何であの子を残して逝っちまったのさ……」
 



「どこまですっ飛んで行っちゃったのかと思いましたよ、イルカ先生」
黄昏の土手でカカシはイルカをつかまえた。
「…すいません。…俺、まだ修行が全然足りなくて…」
イルカは俯いたままぽそりと呟いた。
「まー、オレはセンセのそういう所も好きだからいいんですがね。……傷口に塩を塗るようですが……アサギ、というんですね。…先生の言ってた中忍は」
「はい…」
カカシはふむ、と手を顎にあてた。
「『韋駄天アサギ』」
イルカは驚いて顔を上げた。
「え…?」
カカシは微笑む。
「……やはり、そうですか。…その人の名前、知ってますよ。伝説的に足が速かった忍だ」
「…はい。すごく速かった。……そう、ですか…ご存知だったんですか…」
「イルカ先生が速いわけだな。…韋駄天の弟子だったんだから」
イルカは首を振る。
「俺は…そんなに速くないです。…あの人に比べたら」
そして、黒い瞳が潤み、頬に一筋の流れを作った。
「………さっき、唐突に気づいた…んですよ…俺、あの人の年齢を……追い越していた…あの人、そんなに若くて逝ってしまったんです……あの頃は、彼がすごく大人に見えていたけど…今の俺より年下だったんだ……」
「……妬けるなあ」
「は?」
イルカは涙を乱暴に手の甲で拭い、瞬きをした。
カカシは星が小さく光り始めた薄暗い空を見上げている。
「…イルカ先生、まだ忘れていない。…まだ、好きでしょう…慕っているでしょう。…アナタを置いて逝った男を」
イルカはカカシを見つめる。
カカシはふ、と小さく息を漏らす。カカシにはイルカの気持ちがわかる。
置いていかれる悲しみ。
「………残された方はね…たまらんですよね…」
イルカは気づいた。
いや、以前から知ってはいた。
カカシの胸の中にも、棲み続ける存在があることを。

同じ様に置いていかれた自分達。

「いっそ…一緒に連れて行って欲しかったと……ねえ、そんな風に思った事ありませんか?」
イルカの両目から、新たに涙が溢れた。
こくん、と同意を示す。
「……お、思いました……どうして…また俺を一人にしたのかと…一緒に行きたかった…たとえ死んでも…置いていかれるより……」
ぽろぽろと零れ落ちる涙を止められない。
カカシはそんなイルカの頭を抱き寄せる。
「先に逝く奴はみーんな勝手ですから。…お前は俺の分まで生きろとか、幸せになれとか、こっちの胸を抉ること平気でぬかして、勝手に押しつけて、死ぬ事を許してくれないんですよね…」
イルカは涙に濡れた顔で苦笑した。
「…ホント、たまらない……」
アサギはそんな言葉を自分に残しては逝かなかったけれど。
彼の行動がそれを語っていた。イルカを危険な任務に連れて行かなかった彼。
「…貴方の言う通りかもしれない…俺は…あの人と過ごした時間が忘れられないでいる。
…嬉しかった…幸せだった……どんな終わりを迎えていても…その想いは変わらない…」
カカシは不快気に眉を顰めた。
イルカの告白に寄れば、そのアサギという男はイルカを強姦している。
まだ子供だったイルカを犯して、そのまま消えた男。
「……アンタは仏様ですか。何でも許しちゃうんですね」
「まさか」
イルカはカカシの仏頂面を見てその理由を悟り、微笑を浮かべた。
「そんなワケないでしょう。…ただ…あの時の驚きと痛みより、彼がいなくなった悲しさの方が強かっただけです。…その理由はつまり、彼がくれた幸せがあの時の俺には何よりも大切な宝だった。…それだけなのだと思います」
それにね、とイルカは続ける。
「…俺は自分が大きくなって…子供達を教えるようになって……『置いていかねばならない側』の気持ちが理解できるようになってきたんですよ……だから、いつまでも同じ恨み言を繰り返していられなくなってしまいました。…でも、感情は別ですねえ…すいません、またこんな…泣いちゃって…恥ずかしいです」
カカシはよしよし、とイルカの頭を撫でる。
「まーそれも仕方ないでしょう。……ニンゲンですからね」
「カカシ先生」
イルカは軽く唇でカカシの目元に触れた。
「今は貴方が俺の宝です。…貴方の心にも過去のどなたかがいらっしゃるようですが、お互い出会う前の事は『それはそれ』と言う事にするしかないですものね」
さらっと『フォロー』を入れられた上、予防線を張るような物言いにカカシは少しむくれた。
彼が『宝』だと言ってくれたのは嬉しいが、そんな言い方をされたのではこれ以上何も言えないではないか。
「…ちゃんとキスして下さい。…こんなトコまで追いかけて来たご褒美も含めてね」
「すみません」
もう辺りは暗く、人通りも無いのでイルカもカカシにくちづけるのに躊躇いを見せなかった。
イルカの丁寧な接吻に、カカシは満足げに微笑う。
「…じゃあ、戻りましょう。…おばさん、今頃心配してますよ。オレ、戻るって言って来ましたから。鰆焼いてもらって、おばさん御自慢の筑前煮も頂かなきゃ。……あの店に、戻れますね?」
イルカは布で顔を拭って微笑んだ。
「…はい」

あの懐かしい店で、思い出から逃げないで『あの人』の話をしよう。
自分の中で彼に対する弔いがまだ済んでいなかった事に今更ながらイルカは気づいたのだ。
何が彼の弔いになるかわからなかったけれど。
あの時確かに彼はイルカを愛してくれていた。
その想いをきちんと受け止め、眼を逸らすまい。

「…彼の話……聞いて下さいますか? カカシ先生―――……」

カカシには何も隠しておきたくない。
カカシに対する気持ちは、彼へのそれとはまるで違うのだから。

「聞いて欲しいんです…」

『あの人』の話を――――

カカシは苦笑しながらも頷き、イルカの肩に手を回した。


 



 

BACK

 

イルカ先生でっちあげ過去話、完結でございます。
最後はイルカカ。
(ウチの基本ですから・・・^^;)

アサギの最後の任務のシーンは、書こうかどうしようか悩みましたが、これは一応イルカの話だし、追い詰められて自爆せざるを得なかった話なんて、読む方もお嫌だろうと。割愛。

実のところ、『一夜明けて』でイルカが過去を語った時点では、ここまで詳しいストーリーはありませんでした。アサギにも名前はついていなかったです。
あの時の打ち明け話と食い違わないように気をつけて書きましたが、イルカの心理状態に関してはちょっと違いがでてしまったかも…(汗)
オリジナルキャラはばんばか出ちゃうし、イルカちゃんはごムタイな目にあうしで何だかなーでしたね………;;

長々とおつきあい、有難うございました

2001/3/31〜2002/2/18

***

JIN様が、イナミとアサギのお話をくださいましたV
『地に降りては蒼天の泡』