地に降りては蒼天の泡
by JIN様
まだそこここに雪の残る獣道から、多少は人がましい道らしき物に出ると目的地は近い。 雪解け水で水量の増した川のせせらぎが次第に大きくなり、やがて木々の間から鄙びた一軒家の屋根が見えてくる。 ここまで来て、イナミはようやく歩調を緩めた。 三方を木々に囲まれ、川を背にしたこの家に、もう何度通った事だろう。 人が住んでいるとはとうてい思えない、辺鄙な土地の雑木林の奥にある、隠れ家のような家。 実際ここは隠れ家だった。 住んでいるのは、世俗から自らを切り離した世捨て人とその被保護者。 イナミはチチチと高く鳥の囀りを真似て家の主に来訪を告げた。 「おお、早いお着きだ。ではさっそく儂は出かけて来るとするか」 空の背負子を背負って出てきた老爺は、イナミへの挨拶もそこそこに、外見にそぐわない軽く素早い足取りで立ち去ってしまう。 一番近い里へ行くのに、若い頃は忍びとして働いていた老爺の足でも一日では往復できないため、日常品の買い出しはイナミに留守を預けてからでないと出られないのだ。 以前は独居の気軽さで、老爺が何日家を空けても困る者はなかったが、今は目を離せない病人がいるのだから。 招き入れるように開かれたままの戸から、土間に入る。こざっぱりとした小さな家に上がると、奥の間に人の気配があった。 「よう、久しぶり。具合はどうだ?」 障子越しの柔らかい日差しの中、黒髪の青年が足つきの寝台に半身を起こして座っている。 イナミの呼びかけにゆるりと頭を巡らせてこちらを向くが、青空を切り取ったような双眼は夢見るように焦点が覚束なくて、何を見ているのか、或いは何も見ていないのかも分からない。 「今日は調子が良さそうだな」 相手の様子には頓着せず、イナミは優しく声を掛けるとそっと寝台に近付いた。 「天気がいいぜ。辛気くさく家に籠もってる事ぁない」 以前は日に焼けて小麦色をしていた肌が、長く病床にある内に随分と白くなってしまった。 その白さを物悲しく思いながら枕元に立ち、脅かさないようにゆっくりした動作で伸びた前髪を払う。 注意深く観察すれば頬にうっすらと血の色が通って、心持ち輪郭も柔らかくなった。 どうやら病人は前回訪れた時よりずっと良くなっているようだ。 イナミは寝台の足下に掛けてあった上着を取って彼に着せ、さらに上掛けで丁寧にくるんで、そっと抱き上げた。 上掛けのラインが、大人しくイナミに抱かれている青年の右足のあるべき場所で、不自然に窪んでいた。 外に出ると、ようやく木々の上に太陽が顔を見せ、朝というよりは昼に近い時刻になっていた。 家の前の僅かばかり拓けた場所にある切り株が影から抜け出し、日光浴には恰好の場所だ。 イナミは病人が眩しくないように、慎重に彼の頭を胸に凭せ掛けて腰を降ろした。 「アサギ」 そっと、彼の名を呼んでみる。 返事や反応を期待した時期はとうに過ぎたけれど、それでもイナミは彼に話しかけるのを止められない。 どうやって彼が生き延び、助かったのかは謎のままだ。戦いの事後処理としての確認ではもちろん、遺品の一つでも探すつもりで、暇を見てはアサギが死んだはずの土地へ通ったイナミにも、何の痕跡も見つけられなかったのに。 アサギを失って一年以上も経ち、彼の大切にしていた子供も痛手からようやく立ち直りかけた頃、しばらく里を空けていたムラトが困惑した顔でイナミに会いに来た。 任務の帰途、追っ手を巻いて分け入った山の中で、ムラトがその家を見つけたのはまったくの偶然だったらしい。 片足を失い、記憶も、言葉すらも失った青年。 瀕死の彼を川から引き上げた老爺には、名も分からぬ忍び装束の男が、かつて九尾との戦いで失った息子のように思えたのだろう。 アサギが殉職したと思われていた作戦で指揮者の補佐に付き、彼が部下の代わりに任に就いた事情も知って少なからず思うところのあったムラトは、自分の直属の上司に報告する前にイナミの家を訪ねたのだ。 イナミはすぐさま三代目の元へ走った。 唯一事情を語れるはずの本人が、記憶も言葉も無くしてしまったのでは、真相は永遠に闇の中だろう。 いずれにしても、現状ではアサギが再び忍びとして任務に就く可能性は少なく、抜け忍というにも当たらない。 火影は旧知の仲らしい(老爺が引退した木の葉の忍びであったなら当然の事だ)老爺にアサギを預け、イナミの監視下に置く事でこの問題にけりを付けた。 「なぁアサギ、イルカが中忍になったぞ」 胸に抱え込んだ黒髪を指で梳きながら、イナミはアサギが愛おしんだ子供の近況を報告する。 イルカはすでに少年期を終えて一人前の大人に成長していた。 「あいつなぁ、アカデミーの教師になりたいそうだ」 乱れてもいない上掛けを今一度注意深く整えて、長い睫毛にけぶる蒼を覗き込む。 元よりアサギはイナミより小柄だったが、長く伏せって筋肉も落ち、失われた足の分も軽くなった身体は以前の彼を知る身には胸が痛むほど儚く華奢だ。 記憶も言葉も、いずれ戻るかも知れないが、このまま戻らず仕舞いの可能性も高い。 誰よりも速く、飛ぶように走った「韋駄天」が足を失った今は、むしろこのまま夢幻の世界の住人でいた方が良いのかも知れない。 アサギの為には酷い事だと思いながら、彼を失ったと思った時の衝撃とその後の喪失感に比べたら、この状態もイナミにとって不幸とは思えなかった。 イルカにはアサギが生きている事を伝えていない。今後も教えるつもりはない。 知っているのはアサギを偶然見つけたムラトと、自分と三代目、瀕死の彼を拾って詳しい事情は聞かぬまま今も世話してくれている老爺の、四人だけだ。 それでいいと思っている。 「イルカは良い教師になるだろうよ。なぁ? おまえが教えた事を、あいつが里のチビ共に教えるんだ」 低い声で語られる内容が分かっているのかどうか、アサギはイナミの肩にもたれた顔を僅かに上げ、淡い空の色の目を和ませて微笑んだ。 「戻って来い、アサギ」 睦言のように、イナミは囁く。 「約束を忘れたか? 戻って来て、俺に抱かれるはずだろう? イルカに謝るんだろう?」 何度となく繰り返された言葉は、いつもアサギの心までは届かない。 それでもイナミは呪文のように、子守歌のように、囁き続ける。 「戻ってこい、俺の所へ」 イナミを映す蒼穹の瞳が、もう一度強い光を宿すように。 「戻って来い、アサギ」 手の届かない、空の高処を望むように。 「戻って来い」
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JIN様から、『蒼穹の欠片』(02,6,30発行)のゲスト原稿で頂いた短編小説です。 「イナミが可哀想だ」という事で書いてくださったのですが――― 青菜も「ああっこういうの賛成!」とあっさりアサギ生存説を認めてしまったので、このお話、有効!! この際「彼の前から永遠に姿を消した」っての、削除。(爆) でもこの状態でもイナミ、ナマ殺し。(<ひでえ^^;) 「一生独身ですね、イナミ」ってJINさんも言ってたし。(<バラすし) いっそ○っちゃえばショックで記憶戻ったり・・・(<更に鬼畜。)・・・というのは冗談ですが、ちゅーくらいなら許されるような。 な、アサギ。ダメか? 本の方も完売して結構経ったので、サイトにUPさせて頂きました。 本当にありがとうございました、JINさまvv 03/08/31 |