空には星がまだ瞬き、夜明けまではだいぶあるだろうという時刻に。
玄関の扉を殴りつけるようなノックの音にイナミは起こされた。
何か緊急事態でもあったのだろうかと、急いで扉を開ける。
「……アサギ…?」
そこにいたのは、黒い髪の友人。
「…ごめん。こんな時間に」
「何だよ。…何かあったのか…? いや、何も無くてお前がこんな時間に俺んち来るわけねえな。どうした」
ひやりとした深夜の空気を纏って立っていたアサギは、イナミに薄っすらと笑いかける。
「あのさ…突然だけど…」
「あ? 何だよ」
訪問者がよく知った相手だったのと、どうやら緊急の召集ではないと知ったイナミは、緊張を解いて眠たげに欠伸をした。
「お前さあ、何であの時俺に…キスしたんだ…?」
夜中に叩き起こされてされるにはあまりな質問に、イナミは「はあ?」と口を開ける。
「……何だ? いきなり……」
「やっぱ、ただの悪ふざけ…? 酔っていたから…?」
アサギは口の端に笑みを浮かべたまま、イナミに問い掛ける。
「アサギ、あのなあ……」
「…お前、俺のこと抱ける?」
あぐ、とイナミは顎を外しそうになった。眠気も一度に吹き飛ぶ。
「おおお、おい。ど、どーしたんだお前? そういうのは冗談でも嫌いだっただろうが?」
アサギは笑ったままうん、と頷いた。
「嫌いだよ。…でも、お前のことは嫌いじゃない。……っていうか、お前しか思い浮かばなかった。……あの時、俺のこと少しでも好きでキスしたんなら、抱いてくれるかもしれねえなって……なあ、どうだ?」
イナミは複雑怪奇な表情で、自分より少しだけ背の低い友人の顔を見つめた。
「どうだ…って…あ、とにかく入れよ。玄関先でする話かよ」
「いいよ。お前しねえんなら帰るから」
イナミは頭を抱えた。
「いーから! 入れっての。どうせ何かワケがあるんだろうが」
半ば強引にアサギを室内に引き入れたイナミは、改めて彼の姿を見て顔を顰めた。
「…おい…その装備は…もしかしてこれから任務か?」
うん、とアサギは頷いた。
「…わけわかんねえな。それで…何で…俺んとこ来るんだよ」
任務の前に『抜きに』行くのなら、普通女の所へ行くものだ。
首を傾げるイナミに、アサギは肩を竦める。
「別に…抜きたいわけじゃないんだよ。なあ…俺まだ返事聞いてねえよ。何でキスした?」
「そりゃお前…ああもう、そんなクソ恥ずかしい事言わせるなよ。いくら酔っててもなあ、何とも思ってねえ奴にあんな事するかっての!」
それを聞いたアサギは薄っすらと微笑む。
「で、抱けるか?」
「…う…まあ、お前相手なら勃つかなって…思うけどよ……」
イナミの首に、ひんやりと夜気を纏わせた腕が絡みついた。
「じゃあ、ヤろーぜ」
「ままま、待ていっ!! だからいきなりそんなっ…ワケを言えワケををを〜〜〜ッ!!」
イナミは声を裏返らせてアサギを引き離そうとする。
「何でさ。キス出来て、勃つんなら問題ねえじゃん」
「バカ言えっ! 何年の付き合いだと思ってやがる! 何もワケがなくてお前が俺を誘惑するかあっ」
ちえ、とアサギは舌打ちした。
「やっぱ、そー簡単にゃオチねーかあ…」
「当たり前だ」
ふう、とアサギはため息をついた。
「…お前しかいないってのは本当だ。…俺、お前に頼みがあるんだよ。でも…何の代償も無しに頼むのはな…いくらなんでも悪くてさ……俺、金も無いしさあ…自分しか持ってないから…」
イナミは不愉快そうに鼻を鳴らした。
「見くびってくれるなよ。友達の頼みを聞くのに、代償なんか要るかっての」
アサギはごめん、と小さく謝った。
「お前なら…そう言ってくれるのわかってたけどさ…でも、俺の気が済まないんだよ…」
「まあ、取りあえず言ってみな。…事と次第によっちゃあ……ま、お前の身体でも何でもこれ幸いと喰わせてもらうさ」
アサギは苦笑して、イナミの首に絡めていた腕を下ろす。
「……これから向かう任務だけど…」
「うん?」
「……今度のにはイルカは…あの子は連れて行かないから……あの…あのな、イナミ…」
アサギは言葉を捜すように言い淀んだ。
「……俺がもし…帰れなかったら、あいつの事…頼むな…」
イナミは途端に険しい顔でアサギの肩を掴んだ。
「やっぱり! 無茶な作戦なんだな? あの上忍、賭けの様な作戦を平気で立案するんで有名だからな。おい、俺が一緒に行ってやる。あまり無茶な作戦なら、意見する権利くらい中忍にもあるぞ」
アサギは弱々しく首を振った。
「ありがとな…でも、ダメだ。木の葉だけじゃない。他の国とのバランスもある。木ノ葉だけが安全な所にいる訳にはいかないって事さ。……木の葉だけが…犠牲を出すのは嫌だとは…言えない……」
「犠牲?」
イナミは肩を掴んだ指に力を入れた。
「はっきり言え! あの野郎、お前に何をやらせるつもりなんだ!」
アサギは顔を伏せた。
「……俺に、じゃない。……イルカを出せと…言われた。イルカには何も知らせず…前にお前との任務で伝令やらせたみたいに、でも今度は味方への巻物じゃなくて爆薬を持たせて…敵陣に向かわせる……と…」
イナミは顔色を変えた。
「最初から捨て駒にすると…?!」
「そう。…最初の打ち合わせの時、イルカの事を色々と聞かれて……それで、二回目の打ち合わせでそういう命令を受けた」
俯いたアサギは、声を絞り出した。
「イルカは、孤児だろう……? 身寄りもいない。まだ、中忍試験を受けるまでの力もついてはいない。……ちょうどいいんだってさ…俺…俺は……そんな事をさせる為にあいつに走り方を教えたんじゃない……」
アサギはいきなり弾かれたように顔を上げ、泣きそうな声でイナミに訴えた。
「ちょうどいいって何だよ! 孤児なら捨て駒にしてもいいのかよ! まだ下忍だったら死んでもいいのかよぉ!! イナミ…イナミィ…頼むから、お前までいいなんて言わないでくれよ…」
イナミは茫然とした顔で、アサギの薄蒼いガラス珠のような瞳が激情に揺れるのを間近で見ていた。
そんな場合ではないのに、その潤んだ淡い蒼の綺麗さに言葉を失う。
「…なあ、イナミ…」
「言わない…言わないけどな、アサギ…それでお前、どうするつもりなんだ…お前、さっきイルカは連れて行かないと……」
イナミは息を呑んだ。
「お前! イルカの代わりに走るつもりだな?!」
「…だって、イルカは走れねえもん」
アサギは激した感情をすうっと抑え、まるで悪戯を告白するように肩を竦めた。
「俺が走れなくした。……三日は歩く事もしんどいかもな。……俺、滅茶苦茶にヤっちまったから」
「アサギ?!」
「そんな顔するなよ。よくある事だろ? …他の奴らだってさあ、言ってたじゃない…お小姓クンだってさ。あれって、そういう意味もあったよなあ……あいつは俺のなんだから、そういう風に使ったっていいんだよ」
「お前……」
イナミは唸った。
「………バカが……!」
「うん、バカやったかもな…だから、その責任はとるさ。…俺が走れなくしたイルカの代わりに走る」
アサギは泣きそうな顔でイナミに笑いかけた。
「だからさ、もし俺がドジって帰れなかったらあいつを頼むよ。…ごめん。お前にしか頼めない…」
イナミにはもう何も言えなかった。
アサギの肩に手を掛け、黙って頷く。
「もうひとつ頼む。……イルカには絶対に言わないでくれ。俺があいつの代わりに走る事なんか、絶対にあの子に知らせないでくれ。…でないと、イルカは一生引き摺ってしまう。あの子に俺の命を背負わせないでくれ。…頼むから……」
イナミは理解した。
もし自分が殉職した場合にイルカに真実を語れない事が、イナミにとってどんなに苦痛かアサギにはわかっていたから。
それがどんなに『ひどい』事か、わかっていたから。
だから、口を噤ませる代償に何か差し出さないと気が収まらなかったのだろう。
「………まったく…俺はお前がここまでバカだとは知らなかったぞ……了解した。絶対に言わねえよ」
「ごめん…俺…は……」
「アサギ」
アサギの淡い色の瞳に、吸い寄せられるようにイナミは唇を重ねた。
そして、思い出す。
あの酔っていた夜も、やはりこの瞳に吸い寄せられてくちづけたのだ。
アサギも逆らわず、そのくちづけを受け入れる。
「………ちゃんと、戻って来い。…こんな約束させた代償、その時に払ってもらう。お前が嫌だって言っても……」
自分を抱きしめる友人の腕の熱さに、アサギは泣きたくなった。
その肩を抱き返して頷く。
「うん…わかった……帰ってくる……それで俺、イルカにも謝らなきゃ…俺、酷い事したから…あの子に酷い事したから……」
イルカの信頼も何もかも踏みにじって傷つけた事をアサギは自覚していた。
信じていた上司に犯されるなど、イルカは思ってもみなかっただろう。
「あの子の事、頼むな……イナミ…」
微笑をひとつ残し。
アサギは姿を消した。
彼の前から永遠に。
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