蒼穹の欠片−10

 

何がなんだかわからなかった。
これは悪い夢なのではないかとイルカは何回も思った。
その度に身体に走る未知の感覚と痛みに、これは現実なのだと妙に冷静に自分に言い聞かせる。
生まれて初めて他人の手で明確な意図をもって与えられる性的な刺激は、イルカには苦痛と紙一重でしかない。
全力で走った後のように、肺が空気を求める。
『嫌です』
『やめて下さい』
『お願いですから』
『やめて…』
掠れた声で、壊れた機械のように繰り返す。
成人した男の雄を受け入れるにはあまりにも―――身体も心もイルカは幼かった。
痛みに涙をこぼし、恐怖に震え。

「ごめん……ごめんな…イルカ……」

イルカを組み敷く青年は、自分の方が辛そうな顔で繰り返し謝罪の言葉を吐きながら、それでも行為をやめようとはしない。

「ごめん…ごめん…………」

イルカは初めて、青年に犯されているその部分から痛み以外の感覚を覚えて声を上げる。
「ア…ァ…ッ…」
その反応に、青年はますます辛そうな顔になって涙を滲ませた。
「ごめんよ…お前に……こんな……ごめん…」

ポト、と涙が落ちる。

イルカは涙で滲んだ視界で、目の前の青年も泣いている事に気づいた。

―――どうして……?

イルカは震える手を青年に伸ばした。
「……か…ないで…くださ……」

―――泣かないで……

青年の淡い蒼が融けだして、透明な雫を頬に滴らせる。
イルカは自分が彼に犯されている事も忘れ、懸命にその涙を拭おうとした。
何がそんなに彼を悲しませるのか。
そんな哀しい色の涙を零させるのか。
泣かないで、とイルカは繰り返した。

青年は泣きながら哀しい笑みを浮かべ―――イルカを抱き締める。

長い長い『悪夢』が終わりを迎え―――やがてイルカは意識を手放した。






「………ああ、こりゃひでえな」
イナミは意識の無い少年を見下ろしてため息をついた。
寝台の上は乱れたまま。
敷布はぐちゃぐちゃになっていたし、枕は床に落ちている。
そしてイルカの様子を見れば、何があったのかは一目瞭然だった。
「アサギの野郎………」
イナミには、アサギがわざと後始末をせずにイルカを放置していったのだとわかった。
この、いかにも『暴行しました』という状況を、他者に見せつける為に。
「その子、息はあるな?」
冷静な第三者の声に、イナミは頷く。
「…ああ。意識が無いだけだ。……俺が手当てをする」
「…どうやらアサギは虚偽の報告をしたわけではなさそうだな。……まさか本当にここまでやるとは……………よほどこの子が大切だったと見える」
イナミは唇を噛み、振り返った。
「ムラト……頼む。あいつの…アサギの気持ちを汲んでやってくれ…」
ムラトと呼ばれた中忍は、そっとため息を吐いた。
「私は現状を確認しに来ただけだ。…見たままを報告するまで。確かにこの下忍は今回の作戦には使えない。本人の言う通り、アサギは責任を取って作戦の遂行に尽力せねばならない…だろうな」
そしてイナミの肩を叩き、踵を返した。
「ここの処理は任せた。…私は報告に戻る。……その子の手当て、早くしてやるがいい…」
「了解」

ムラトを見送った後、イナミは重い足取りで寝台に戻った。
身体を屈め、イルカの息を嗅いで顔を顰める。
「…ご丁寧に薬まで使いやがったな…対毒訓練していないガキなら、後丸一日は目が覚めんぞ…」
頬は涙の跡で汚れ、手首にはくっきりと痣が浮いている。身体に散っている傷痕と青痣は、任務と訓練の時のものだろう。
血で汚れた下肢を見て、イナミは気が重くなる。
『滅茶苦茶にやった』とアサギは言っていた。
きっと、イルカが気を失うまで文字通り徹底的に『やった』のだろう。
「…痛かっただろーなあ…こりゃ…」
そして、イナミはアサギが自分に抱かれに来たもう一つの理由を悟った。イルカと同じ痛みを自分も受けるつもりだったのだろう。
「ばーか。俺がこんな抱き方するかよ……ホントにバカだね、あいつは…」
イナミは風呂に湯を張り、イルカをそっと洗ってやった。
薬が効いているイルカは、抱き上げられても湯をかけられても意識を取り戻さない。
イルカの身体を清潔にしてやった後、考えた末にイナミはイルカを医療棟へ運んだ。
アサギの部屋に置いておくわけにはいかない。かといって、イルカの部屋にも自分の部屋にも連れて行くわけにはいかなかった。
医療棟なら、イナミが目を離しても誰かがイルカを見ていてくれる。
目覚めたイルカが万が一体に異変を起こしても、適切な処置をしてくれるはずである。
「ああもう…とんでもねー後始末押しつけて行ってくれたよなあ…カッコつけないでマジに一発ヤっとくんだった…」
イルカの眠る医療棟の寝台に腰を掛け、イナミははあ、とため息をついた。
最後に触れたアサギの唇を思い出す。

あんなに静かで哀しいくちづけは、後にも先にも無かった。




 




里を外界と隔てる門の脇に、小さな影がぽつんと立っている。
「……おや…あの子、またいるよ…」
門のすぐ内側で土産物屋を営む老人は、売り物にはたきをかけながら呟いた。
肩までの黒い髪を結いもせずに風になぶらせ、じっと門の外を見つめている少年。
少年がそこに現れるようになったのは二週間ほど前の事だった。それから毎日のように門の脇に立って何かを待っている。
「………待ち人、かね…辛いねえ…」
長年門を眺めて暮らしてきた老人にとっては珍しい光景ではなかった。
帰らぬ家族を、恋人を、友人を。
その門でじっと待つ姿。
少年の背中を見ているのが切なくて、老人は門から目を引き離す。老人の視界の隅で、少年に歩み寄った背の高い忍が話し掛けていた。

「イルカ」
イルカは話し掛けたイナミに黙って会釈をすると、また視線を外に戻した。
「……アサギを待つのはもうやめろ」
イルカは黙って首を振る。
医療棟で目を覚まして以来、イルカは一言も喋らない。
微笑みすら浮かべる事を忘れたその横顔を、イナミはやりきれない思いで見つめた。
イルカの表情に残っていたあどけなさはもうどこにも見当たらない。
「………来週辺り、正式に配置換えの辞令が下るだろう。…お前はアサギの補佐の任を解かれ、下忍の小隊に配属される。どこかのチームに欠員が出たらしい」
イルカはぴくんと肩を揺らした。
そして、何日ぶりかの声を絞り出す。
「…それは……火影様の命令ですか…?」
イナミの知っているイルカの声ではなかった。
低い、大人の声。
しゃべろうとしなかったこの二週間の間に、少年は声変わりしていたのだ。
「いずれにしても上の判断だ。………お前には言いにくいがな…アサギは殉職扱いになった。もう、あいつは帰還不可能と…断定されたんだ…」
「…イナミさん…」
イルカはゆっくりとイナミを仰ぎ見た。
「俺、アサギさんに逢いたい」
「イルカ……」
「逢って、訊きたい事がある……」
それはそうだろうな、とイナミは思った。
イルカにしてみれば、不可解な事だらけであろう。
「………あの人、泣いていたんです」
ポケットから煙草を出しかけていたイナミの手が止まった。
「…泣いていた。……俺は…あの人に泣いて欲しくなくて……でも…俺は…あの人に何もしてあげられなかった。…ねえ、イナミさん。…あの人はずっと悲しかったのでしょうか…辛かったのでしょうか……」
イルカの声には、アサギに対する怒りや憎しみ、憤りは無かった。
自分を力尽くで犯した相手に対する負の感情を見せないという事は、この少年は既にアサギの行為を『許して』いるのか。
アサギは最期までこの少年を案じ。
この少年はおそらくはもうこの世にいない青年の心を案じている。
イナミの胸を切ない痛みが突く。
「…俺には何もわからねえ。…あいつがずっと何かで苦しんでいたのは知っている。…でもあいつの心の奥まではわからんよ。……あのな、イルカ……あいつ…任務に出る前に俺の所へ来たんだよ。…それでな、お前にその…酷い事をしたと……自分を責めていた。俺が言う筋の事じゃないが、あいつはお前に謝る気持ちはあったから…それだけ、覚えててやってくれ」
イルカは唇の端を上げ、ひどく哀しげで大人びた笑みを浮かべた。
「…………ええ…知っています…」

イルカは顔を上げ、空の彼方を見つめた。
すう、と指をあげ、地平線へ消える空の辺りを差す。
「……ああいう色を、浅葱色と言うのだそうですね。……あの人の眼の色だ……」
淡く、水を含んだようなその儚い色彩。
「…綺麗ですね……」

イナミは黙ってイルカの肩を抱いた。
そして、そのまま里の中に向かって歩き出す。

イルカは二度と門を振り返ろうとはしなかった――――

 

 



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