蒼穹の欠片−3

 

その朝、目を覚ましたイルカは、見慣れぬ室内に一瞬戸惑う。
「…えー…と……あっ!!」
イルカは3秒で現状を把握した。
ここはアサギの住まいだ。
言ってみれば、中忍以上の忍者が住まう独身寮のような宿舎。
余分な夜具も無いだろうに、彼は昨日熱を出したイルカを泊めてくれたのだ。
「…アサギ…さん…?」
夕べは彼の背中で眠ってしまったから、あのまま赤ん坊のように世話を焼かれて寝かされたのだろう。
イルカは恥ずかしくてたまらなかった。
服もあらかた脱がされて、アサギのものらしい、イルカにはだいぶ大きなシャツしか着ていない。
普段彼が寝ているだろう寝台の上で、イルカは重い身体を起こした。
まだ少し熱っぽくて具合が悪い。
しかし、ここで弱音を吐いたらきっと彼に呆れられてしまうだろう。
そう思ったイルカは頑張って起き上がる。
「アサギさん…」
部屋の中には主の気配が無い。
そろりと床に足を降ろし、ふらつく頭で部屋を見渡す。
テーブルの上に何かが置いてあった。
手紙だ。

『イルカへ  今日はお休み。ちゃんと身体を治すように。
鍋に野菜スープが作ってあるから暖めてパンと一緒に食べること。
牛乳は冷蔵庫。薬も忘れないで飲め。
洗濯物が干してあるから、夕方に取り込んでくれ。
俺はちょっと出かけてくるから留守番よろしく。
それから、余計な事はしなくていいからちゃんと寝ていろ。 アサギ』

「………」
イルカは首を巡らせ、やっと時計を発見した。
「あー…」
九時をだいぶ過ぎていた。
薬と疲労の所為で眠りが深く、目覚めなかったのだ。
「……呆れちゃっただろーな……」
とにかく手洗いを捜して借り、それから顔を洗う。
台所に行くと、手紙の通りガス台に鍋が置いてあった。
蓋を取ると、予想外にきちんとしたスープが作ってある。
「…アサギさんて…器用なのかな……」
今借りてきた手洗いも洗面所も、ここ台所も水周りはきっちり掃除してある。
独身の若い男の住まいにしては清潔だった。
彼女がいて、掃除をしてくれているのかもしれない、などという考えはまだ幼いイルカには浮かばない。
素直に感心していた。
空腹を覚えたので、スープを温め、買い置きしてあったらしいパンと一緒に食べる。
これがまた意外に美味しかった。
母親が仕切っていた自分のうちの台所に比べると、物は比べ物にならないくらい少なかったが、必要最低限のものはきちんと揃っているようだ。
イルカが眠っているうちにスープを作り、洗濯までしていったところをみると、見かけによらずマメな男であるらしい。
「……せめて洗い物でもあればなあ…御礼に洗って…とか掃除して…とか出来るのにな…」
イルカは自分ももっと今住んでいる家を綺麗にしよう、と思った。
いつ誰を家に入れても、恥ずかしくないように片付けよう。
両親が亡くなってから、自分が使う場所すらろくに掃除していないような気がして、イルカはちょっぴり反省した。

食べ終わった食器を気をつけて洗うと、イルカは薬を飲んでもう一度寝台にもぐり込んだ。
やる事も思いつけないなら、素直にアサギの書置き通り寝てしまって身体を治した方がいい。
あらためて寝台に横になると、シーツから微かにアサギの匂いがするような気がして、イルカは目を閉じた。
夕べアサギにおんぶしてもらった時の事を思い出す。
(…おんぶなんて……すっごい久し振り……だったな…)
イルカは頬を緩めた。
誰かとあんなに身体を密着させたのは何年ぶりだろう。
人の体温とは、あんなに心休まる暖かいものだったのか、と改めて思い知った。
そして、ふいにあの時の会話を思い出す。
彼は確か、イルカを弟にしてくれる、と言わなかったか。
イルカは何だか恥ずかしくなって、一人で照れてごろごろと寝台の上を転がった。
あんな兄さんがいてくれたら嬉しい。
彼が自慢に思ってくれる弟に、部下になりたい。

イルカは、アサギという青年が好きになっていた。



「して、どうじゃ。……あの子は、やっていけそうか…? 忍として」
三代目火影が燻らす煙管の煙の向こうで、黒髪の青年は微笑んだ。
「はい、火影様。ご心配には及びませんよ。…少し繊細と言うか、心根が優し過ぎるのが心配と言えば心配ですが……あれは、彼の美点になると思います。忍びにとっては簡単に欠点となる性質ですが、あの子はアレで結構情が強いところもあるようだし……何とかなるでしょう。要は、任務の時には私情を優先させてはいけないと言う状況判断が出来ればいいわけですから。私は彼の性質はそのままに、忍としての技量のみ伸ばしてやりたいです」
そうか、と老人は頷く。
アサギは、単にイルカの上司になったのではなく、彼の教官でもあったのだ。
スリーマンセルで培われるはずだった忍びとしての感性。物の考え方、見方、判断の仕方。
そして、アカデミーでの基礎から更に発展させた忍術や体術の習得。
マンツーマンでなら、中忍のアサギにも『教官』が務まるだろうとの火影の判断だった。
「イルカはの…あれは、いい素質を持っておると思うのだがな、どうも競争意識が低くて、仲間に優れた子がいたら、それを簡単に認めて評価してしまうようなところがあってなあ……がむしゃらにそいつに勝とうとか、他人を押しのけてまで何かを手に入れようとは思わんらしい。…その所為でか、アカデミーでの成績は今ひとつじゃ」
ははは、とアサギは笑った。
「みたいですね。…スリーマンセル組んでた時もそうみたいだったですよ。仲間のサポートに徹するようなところがあったらしい。………まあたぶん、だからあの子は今生きているんでしょうけど」
イルカの仲間の子は自身の技量を過信して、慎重さを欠いた結果死んだ。
イルカは逆に自信が無い為に慎重になり、結果、その場は生き延びた。
「でも今のままじゃ、あれは一生下忍ですね」
「…ま、その通りじゃな」
火影はにやりと笑った。
「やり甲斐があるじゃろう、韋駄天小僧」
「ああっ…火影様までそんな恥ずかしいあだ名をっっ!」
アサギは赤くなって嫌そうに顔を顰めた。
火影は美味そうに紫煙を吐き出す。
「ほーお、嫌かね」
「嫌ですよ。…昔の恥部を暴かれた時みたいな心地になるんでご勘弁下さい」
「わしはな、だからこそお前にイルカを預けたんじゃ。…お前なら、あの子の気持ちをわかってやれるじゃろう? お前も決して楽に忍者になったわけではないだろうからな。……苦労をした事の無い人間に、人は導けぬよ」
アサギはきゅ、と唇を噛んだ。
「………はい」
火影は笠の陰でそっと微笑む。
目の前の青年も、彼の部下になった少年も、火影の息子や孫のような年齢だ。
まだ若く、経験も少なく。
様々な事を悟っていくのはこれからだ。
忍は里にとっては道具に過ぎないが、火影にとっては一人一人、血の通った可愛い子供達なのである。里にとって優秀な手駒となって欲しいが、人としてもきちんとした人生を歩んで欲しい。
この二律背反に近い思いを、火影は若い忍者を見る度に抱く。
「……あの子を頼んだぞ、アサギ」
アサギは表情を殺して一礼した。
「承知致しました」



アサギが住まいに戻ると、イルカは不自然な格好で寝息をたてていた。
寝台に腰掛けて洗濯物をたたんでいるうちに眠くなって倒れたといった感じで寝ている。
「…それでもきっちり全部たたんだか」
アサギは苦笑してイルカを見下ろした。
台所に行って鍋の中を覗くと、それなりに中身は減っていた。書置きに従って、きちんと食べたらしい。
「よしよし」
寝台に戻り、イルカの額に触れる。
「…熱もだいぶ下がったな。…朝はまだ熱かったけど」
「んん……」
人の気配で、イルカの意識は浮上したらしい。
「よ、大丈夫か?」
イルカはぱっちりと目を開けた。
「アサギさんっ!」
「はいよ」
アサギは笑いを堪えた顔で真上から覗き込んでいる。
「…よく眠れたか?」
イルカはぱちぱち、と瞬きしてからふわっと赤くなった。
「………俺…また寝ちゃった…い、今何時ですか…?」
「ん? 六時だな」
うわあ、とイルカは声を上げる。
「…俺、昼間も寝てたのに…何でまた寝ちゃったんだろ…」
アサギはイルカの手を引っ張って起こしてやった。
「ああ、気にするな。薬の所為だから。…お前が飲んだ薬、解熱剤だけど睡眠薬がだいぶ入ってたんだよ。まだ頭ボーっとしているだろう」
イルカはこくんと頷いた。
「…はい。でも、だるいのは無くなりました。…あの、ありがとうございました…色々…」
「うん、顔色も良くなったな。良かった」
アサギはぽんぽん、とイルカの頭を撫でるように軽く叩いて笑った。
「お前ももう少し育ったら、対毒訓練やるだろうからこれしきの薬じゃ効かなくなるぜ。…不便だよなあ、忍者も」
「…毒に対する免疫をつけるんですよね。…やっぱ、飲むんですか? 毒」
「そう。少量ずつな。……すっげえ気分悪くなるけど、抵抗力はつけといた方がいい。…ああ、チャクラで解毒術出来るようにしとくのも手だぞ。でも先に麻痺したら印を結べないから、やっぱ基本的に身体慣ら
しておく方がいいかな」
イルカははあ、と頷いた。
「まー、お前はその前に身体作りだ。明日からまたやるぞー。俺がいいと判断するまで訓練が続くと思え。…任務はそれからだ」
「はい!」
アサギは台所へ行くと、買ってきたらしいものをテーブルに並べ始めた。
「たいしたもんはないけど、何か食おうぜ。…あ、まだスープ残ってんな。
味どーだった?」
「あ! あの、美味しかったです。とても! アサギさん、料理上手いんですね」
アサギはコンロに火をつけて、苦笑した。
「無理するなよ。辛いのは苦手だとか酸っぱいのダメとか、アレルギーがあるとか、黙ってないで言えよ。…俺はさ、あんまり食い物くらいで厳しい事言う気はねえから。ちゃんと、必要な栄養素さえ摂れば、多少の好き嫌いは言っていいよ。偏食が過ぎるのは感心しねえけど……ものすげえ嫌いな物を無理して食う事ないもんな。…俺達忍はいつ死ぬかわからないだろ? だからさ、好きな物を食えるうちに食っとくべきだと思うんだよ」
「はい…あのでも、本当にスープは俺、好きな味でした。美味しかったです」
アサギは今度は嬉しそうな笑顔になった。
「ホント? なら良かった。好きな味が似ているんだな」
「俺、好き嫌いもない…と思います! …うち、あんまり金持ちじゃなかったから食い物はあるだけありがたいって感じで…食べ物粗末にしたら母ちゃんにぶん殴られたし」
アサギはまたぽんぽん、とイルカの頭を撫でた。
「そっか。食べ物を大切にするのはいい事だぞ。……ひでえ任務になったら食うモンないからな」
イルカはおずおずと切り出す。
「あの…俺、あんまり料理ってした事なくて……やり方よくわかんないんです。…今度、教えて頂けませんか? あの……そしたら俺……」
「ん? いーよ。でも俺も簡単なものしか出来ないけど。…何? 料理覚えて俺に作ってくれんの?」
からかうようなアサギの言葉に、イルカはこっくりと頷いた。
「そういう事が出来るようになりたいです。…せめてそれくらいは役に立ちたいから」
アサギは何とも言えない表情を浮かべ、それからがばっとイルカを抱き締めた。
「お前っ! 可愛い奴だなあっっ!!」
急に抱き締められ、イルカはどぎまぎと赤くなる。
「あ、あの……」
「よし! 俺の教えられるものは忍術でも料理でも何でも教えてやる!! 
ちゃんと覚えろよー!!」
「はいっっ! よろしくお願いします!!」

こうしてイルカの修行項目に、『料理』が加わった。
自ら望んだこの修行は、後々イルカの人生で忍術と同じくらい役立つ事になるが、それはまだ先の話である―――

 



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▲JINさまに頂いた仔イルカちゃんv 
ありがとーお!!! 嬉しいっす〜! 可愛い〜v
モノクロFAXでもらったものを勝手に加工。