「一応アカデミーの記録は見せてもらったし前の上忍先生にも話は伺ったけど、やっぱ俺、自分の眼で確かめたいんだよね」
そう言ってアサギは、イルカの忍者としての基礎能力を試し始めた。
「お前がどれだけの力を持っているかわかんなきゃ、どこまで任せていいかわからんし。ましてや俺の背中なんか任せられないもんなあ。……てな訳で、ついておいで」
「は、はいっ!」
演習場の森は、見通しが悪い。
木の梢伝いに跳び始めたアサギの後を、イルカは必死になって追いかけた。
「うぇっ…速……っ」
相手は中忍だから、まだ下忍の自分が追いつけなくても仕方ない…とは思うが、彼の背中を見失わないようにするのがイルカには精一杯だった。
つくづく、今まで上忍の先生は下忍の自分達に合わせてくれていただけなのだと思い知る。
肺が苦しくなり、イルカの集中力は落ちた。
次の瞬間、後から羽交い絞めにされて首にクナイが突きつけられる。
「……ア…サギさん……」
自分の遥か前方にいたはずの人が、何で後から……イルカはショックでクラクラした。
「はい、死んだ」
アサギは息も乱していない。
「うーん、基礎体力がイマイチ。…今の移動くらい屁のカッパになってくれなきゃ困るんだな」
クナイでピタピタ、と頬を叩かれてイルカは赤面した。
「すみません……」
「謝ることじゃないけどな。力不足で死ぬのは、お前の勝手だから」
「……は…い」
項垂れたイルカに、アサギは苦笑を浮かべる。
「…お前がチームを組んでいた奴も、力が足りないから死んだんだろうし。ダメだね、弱い奴は」
イルカは反射的に振り返って、アサギを睨みつけた。
「…カグラの事…ッ…そんな風に言わないで下さい! あいつは、俺よりも強かったんです!」
アサギは切なそうな笑みを浮かべてイルカを見下ろした。
「…でも、結果的にその子は死んで、お前は生きている。…忍には、『運』も大事なんだ。そして、より強い運を自分に運ぶ為にはやはり、力が必要だ。……イルカ。その子の分も生きて、里の為に強
い忍びになるのがお前の道じゃないのか? 違うと言うなら、俺はお前の面倒は見ないよ」
「あ……」
イルカの眼から瞬時に怒りが解け落ちる。
ポン、とアサギの手がイルカの頭に置かれた。
「…良かった。さっきの眼はなかなかだったぜ? 大事な友達けなされて、ますます萎れちまうようだったらもう見込み薄いな、と思ったんだが。……今のお前の気持ちは宝だよ。仲間の事、大事にする気持ち。…でも、負けん気も無きゃ生き残れないからなー…」
イルカはアサギを見上げて、その眼の中に浮かぶ色を見た。
(―――この人は、本当に俺の為を考えてくれている…)
イルカは決心を新たにした。
「…カグラの分も生きて、あいつのやるはずだった務めも俺がやります。…強く、なります。……俺は、木の葉の忍として生きます!」
アサギは破顔した。
「よく言った! それなら俺は、俺の教えられる事は何でも教えてやる。徹底的に鍛えてやるから、覚悟しとけ。もう泣いても恨んでも放してやらん。……お前は俺の部下だからな」
「はいっ! よろしくお願いしますっ!」
「おーし、んじゃあ続き行くぞー…森の端まで行って、後五往復。初日だからな、最初っからきつい事はしないさ。片道七キロだ。軽いもんだろ? 今日は何のトラップも仕掛けてないしな。終わったら昼飯にしよーぜ」
「は…はい!」
自分のペースで全行程七十キロを往復するのなら、今のイルカには然程辛い事ではない。
だが、アサギのスピードについて行くには大変な努力を要した。
そして森を使った移動訓練は、昼食の後も陽が落ちるまで続いたのだった―――
「……大丈夫か?」
イルカは青い顔で何とか頷く。
口を開いたら吐いてしまいそうだった。
足はもうガクガク。身体は汗でドロドロ。
枝を掻い潜り、地を駆け、彼の姿を見失うまいとする緊張で神経も極度に疲弊していた。
「…ま、初日にしちゃ上出来かな? これを涼しい顔で出来るようになったら合格だな」
イルカは倒れそうになった。
(……お、俺に出来るのかそんな事……??)
アサギは相変わらず汗をかいた様子も無く、それこそ涼しい顔をしている。
「何て顔しているんだよ。今日はまだ、移動するだけだったろー? 今後はトラップの中突破したり、移動しながら敵と戦うシミュレーションもやるぞ。言っとくけど、アカデミーの演習と同じだと思うなよ。…あんなのはお遊びだ。俺の訓練程度について来られないようじゃ、お前は一生中忍にすらなれないよ?」
イルカは吐き気をこらえて、何とか息を整えた。
「…大丈夫です。…頑張ります」
アサギはニヤっと笑った。
「そーこなくちゃ。さー、アカデミーでシャワー借りて、メシ食いに行くぞー! あー、腹減ったー」
メシ、と聞いた途端イルカの我慢は限界に達した。
「うげええぇっっ」
「………あ、やっぱり……」
後ろを向いて茂みに吐いてしまったイルカの背を、アサギはやれやれ、と撫でる。
「お前も強がりは一人前なんだから〜…まー、安心しろ。嫌でも俺が慣れさせてやっから」
イルカは眼に涙を浮かべながら頷いた。
「……す…いません……」
「吐き気、おさまったか? んじゃ行くぞ。ちなみにメシはパスさせてやらん。汗流して、落ち着いたら少しでも食うんだ。…わかったな?」
「…はい……」
イルカの心境としては、風呂はともかく夕食なんか欲しくも無かった。
許されるなら即ふとんにひっくり返りたい。
だが上官に逆らうわけにはいかないので、泣きたくなりながらも彼に従う。
(―――ああ、強くなりたい……)
少なくとも、訓練くらいで吐いたりしない程度には。
イルカはまず、目の前の小さなハードルから越えて行こうと決心した。
「お? その子? アサギのお小姓クンは」
夕食に連れて行かれた定食屋で、アサギの知り合いらしい中忍が声を掛けてきた。
「バカタレ。こいつは部下だよ。…ほら、座れイルカ」
イルカはアサギの知り合いにぺこんと会釈すると、アサギの向かいに座った。
「壊れたスリーマンセルの生き残りだろ? それで中忍のお前につけられたんじゃ、部下っつうより小姓の色が濃いじゃねえか。まだアカデミー出たばかりじゃ、俺らの任務には使えねえ。…違うかよ」
アサギはフン、と鼻を鳴らした。
「…そーだな。まだすぐには使えないけどなー…コイツは火影様が直々に俺に引き合わせたんだぜ? それに、70%のスピードで走った俺にちゃんとついて来た。見込みはある」
その言葉に、店の中で聞き耳を立てていた他の忍者達も振り返る。
「ホントかよ??」
「そりゃすげえ」
イルカは訳がわからなくてキョトキョトしてしまった。
「『木の葉の韋駄天』のお前にか? …そっかー、足速いんだな、その子」
「木の葉の韋駄天……?」
イルカは男の言葉を繰り返した。
アサギは「ばか」とその言葉を口にした男を小突く。
「あーも〜…やめろその呼び方はー…」
男はアサギを無視してイルカに説明する。
「坊主、アサギは足の速さじゃ上忍にだって引けは取らない。ただ走るだけなら、きっと木の葉の里一だろうよ。七割の力で走ったとは言
え、その韋駄天を見失わなかっただけでも大したもんだ」
イルカは愕然としていた。
知らない男に誉められたみたいだが、ちっとも嬉しくない。
「………あれで…70%? ……あれで……」
では、アサギに100%、いや80%の力を出されたらもう追いつくどころか視認すらかなうまい。
「…イルカぁ? ……まだ気分悪いか?」
訓練時は厳しいが、それ以外の時間は結構優しいアサギは心配そうにイルカの顔を覗き込む。
イルカはキッと顔を上げた。
「…食います」
「うん……食いに来たんだから、食っていいよ?」
イルカはテーブルの上で握り拳をつくる。
「いつか絶対、貴方に追いつきます…!」
アサギは一瞬びっくりしたように眼を見開いたが、愉快そうに笑い出した。
「その意気だ。頑張ろうぜ、イルカ。……早く追いついておいで」
そして、イルカの肩を引き寄せて囁く。
「俺と行こう。…いつか、俺と一緒の戦場に立とうぜ…」
イルカは何故だか腹の中がかあっと熱くなった。
ただ頷く事しか出来ない。
「おい、何だあ? 坊や、真っ赤だぜ。アサギぃ、お前何かヤラシイ事坊やに吹き込んだろ」
アサギはすかさずからかった男に拳骨を喰らわす。
「俺達までてめえのレベルに落とすなっつの。けなげに明日に向かって走ろうっていう青少年の崇高な決心を、下卑た勘繰りで汚さないように。…つうワケで、おばちゃーん、オカメうどん二つ〜〜」
「え? アサギちゃんがうどん? お腹でも壊してんの?」
定食屋のおかみは奥からびっくりした顔をのぞかせる。
「ん? いや、俺じゃなくてコイツがさ。…さっき、吐いたんだ。でも、何か食わなきゃ体もたねーから。俺もおつきあい」
あらあら、とおかみは店の方に出て来た。
「本当。何だか具合悪そうね。…無理させたんでしょ、アサギちゃん。…あら、ちょっとこの子熱があるわよ」
おかみはイルカの額に手を当てて顔を曇らせる。
「まったく…あんた達はいつもそう。…忍者だからって、子供でも何でも容赦しやしない」
イルカは慌てて首を振った。
「大丈夫です、おかみさん。…俺がだらしないだけで……」
「子供じゃなくて、もう下忍……」
「だまらっしゃい!」
おかみはイルカとアサギを一喝して黙らせた。
「あたしの店では、あんた達のルールは通用しないよ。あたしの眼には、この子はまだ子供に見える。具合を悪くしている子供の扱いにかけて、あたしに勝てる? アサギちゃん。…あんた、名前は? 家はどこ」
「イルカです。…家は……銀杏通りの向こうの…宿舎…」
「イルカちゃんね。お家に電話はある? 熱、結構高いわ。お家の人に来てもらった方がいいわよ」
イルカは微笑んで首を振った。
「いえ、家には誰も居ませんから……両親はもういません。家族用の宿舎に住まわせてもらっているのは、火影様のご厚意です。…周りに大人の人が住んでいる所の方がいいだろうって…引っ越すのも大変だし…」
「ま」
おかみは事情を察して、目を潤ませた。
孤児は珍しくないが、だからと言って同情に値しないとは彼女は思わないのだ。
「そう。…それじゃあ、良かったら今夜はおばちゃんとこにおいで。…銀杏通りは遠いよ。無理して帰ったら、熱がもっと上がっちゃうよ。ね? 吐いたんなら、おじやかお粥の方がいいね。少し食べて、お薬飲んで寝なさい。…いいわね? アサギちゃん」
最後の一言は、この少年の『上司』らしいアサギに向けられた。
「あ〜…その……」
口篭もるアサギの代わりに、当のイルカが辞退を申し出た。
「ありがとうございます、おかみさん。ご親切は嬉しいんですけど…そんな風にしてもらったら、俺、本当に病人みたいな気になっちゃうから…」
おかみはぎろりとアサギを睨んだ。
「……『躾』がいいみたいだわね」
「おかげさまで」
イルカは困ったようにアサギとおかみを交互に見た。
「…仕方ないね。取りあえず、イルカちゃんにはお粥を作ってあげるよ。それから薬も飲む事。…いいね?」
アサギはおかみに手を合わせた。
「おばちゃん、感謝」
「で、あんたはオカメうどんでいいのね?」
「そーゆー事ならカツ丼ちょーだい……俺は腹減ってんだわ〜…大盛りね」
「だと思ったわ」
人の親切は受けるものだと死んだ両親も言っていたし…と、イルカは素直におかみのお粥を食べ、薬も飲んだ。
「…イルカ? …おい」
薬の所為か、疲れがどっと睡魔となって押し寄せたイルカは、椅子に掛けたまま朦朧としている。
「……やっぱり、今夜はあたしが預かるよ」
おかみの言葉に、アサギは少し考えた末、首を振った。
「ありがと。…でも、おばちゃんちも小さい子いるだろ。…コイツは俺が預かった子だから。……俺んちに連れて行くよ。ほら、おぶされイルカ」
イルカは朦朧としながらも自分で立とうとする。
「……歩けます……」
「いいから、来い。…ここでお前に無理させたら、今後この店立ち入り禁止になっちゃうんだよ、俺」
「ああら、よくわかっているじゃないの〜アサギちゃん。…という訳だから、甘えちゃいなさい、イルカちゃん。おばちゃんちに泊まるか、おんぶか、どっちかよ」
おずおずとイルカはアサギの背中に触れた。
「怒りゃしないよ。おいで」
「…すみません……」
イルカは泣きそうな心地でアサギの背に縋りついた。
ふわっと体が浮く。
「……げ、お前ホントにすげえ熱い……」
「だから言ってるのに。も〜! ああ、これ持ってお行き。どうせあんたんち、氷嚢も無いでしょ」
世話好きのおかみは、氷嚢や薬をまとめて袋に入れ、アサギに渡す。
「悪いね、おばちゃん。後で返しにくるから」
「ちゃんと面倒みておやりよ」
「あいよ」
店の暖簾をくぐったアサギを、中から同僚の声が追いかける。
「イルカちゃんに手ぇ出すなよ〜」
「アサギぃ、悪い事教えちゃダメだぞ〜」
アサギはぴた、と足を止める。
「……おばちゃん、今ヘンな事ぬかした奴ら、フライパンでぶっ叩いといて」
「まかしときな」
おかみが有言実行しているらしい物音と男達の悲鳴を背中で聞きながら、アサギは暗い道を歩き出した。
首に当たるイルカの細い腕は、本当に熱い。
アサギは背中の軽い身体を揺すり上げた。
「……アサギさん……ごめんなさい……」
「いや…俺も、今日はちょっとやり過ぎたかもしれないな。…ごめんな、加減がわからなくてさ」
「俺…なさけな……」
「…大丈夫だよ。言ったろう? お前、見込みある。すぐに、今日くらいの訓練は楽にこなせるようになるさ。……辛かったら寝ててもいいぞ。無理するばかりが能じゃない」
イルカは照れくさそうに小さく笑った。
「…おんぶなんて、すっごい久し振りです……」
「俺は誰かをおんぶするなんて初めてだよ。一人っ子で、弟とかいなかったし」
「俺も…一人っ子です」
「そっかー……よし! んじゃあお前、部下兼、弟な」
「…え…っ?」
「あー何? 今の。俺が兄貴じゃ嫌かよ」
「…いえ…いいのかなあって…思っただけで…あの…何だかくすぐったくて…」
ふふ、とアサギは笑う。
「うん。…くすぐったいな」
アサギの歩くテンポの、気持ちの良い振動にイルカは眠りに誘われる。
「…アサギ…さん…俺、がんば…りま……」
「ん?」
「一緒に…行…ます……」
「うん…行こうな、イルカ」
―――一緒に、肩を並べて同じ戦場へ。
アサギの囁いたその言葉は、イルカにとって思いがけなく胸ときめく甘美なものだった。
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