蒼穹の欠片−1

 

隣に座す少女の身体がカタカタと小刻みに震えている。
アカデミーに隣接する医療棟の、薄暗い廊下。
その廊下に置かれた古いベンチは、硬くて冷たくて、お世辞にも座り心地がいいとは言えない代物で――だがイルカはその硬いベンチよりも身体を硬くしてじっと座っていた。
「…ホタル」
震えている少女の名を呼ぶと、少女はビクっと身体を竦ませる。
「……真っ青だよ。…俺がここにいるから、ホタルは…」
途端に少女は頭を振った。
「イヤ! あ、あたし、ここにいる!」
少女は眼に涙を一杯にため、イルカを見上げる。
「イルカ……お願いよ…」
イルカは唇を噛み、頷いた。
もう、どれくらいここに座っているのだろう。
イルカは目の前の閉ざされた扉をやるせない気持ちで見つめた。
「……大丈夫、よね。…カグラ、強いもの…あたし達の中で、一番強いもの……」
ホタルの縋りつくような声に、イルカは返事が出来なかった。
気休めなんか言えない。
カグラの傷を最初に見た時の、彼らの上官である上忍の先生の顔をイルカは見てしまっていたから。
『これはもうダメだ』とその顔は言っていた。
返事の代わりに、少女の細い肩に手を回して指先に力を入れた。

永遠にも思えた時間の後、ようやく目の前の扉は開いた。
はじかれたようにイルカは立ち上がる。
「……先生……」
扉を開けたのは、彼らの上官。
いつもは穏やかなその顔が、苦痛を耐えているかのように歪んでいた。
「…イルカ。…ホタル。……カグラにお別れを言ってあげなさい…」
ホタルの喉が、ひいっと鳴った。
イルカは、やはりダメだったのか、と胸に広がっていく喪失感に声も出なかった。
部屋に入ると、医師が壁際で治療道具を片付けていた。
イルカを一瞥すると、悲しい眼をして無言で退室する。
イルカはそっと血で赤く染まった寝台に近づいた。
「……カグラ…」
下忍になって、半年以上チームを組んできた仲間。
スリーマンセルの中で一番実力があって判断力もあった為、自然とリーダーシップを取っていた、明るい少年。
艶やかな栗色の髪が、今はくすんで見える。
いつか一緒に受けるはずだった中忍試験。
自分が落ちることはあっても、きっとこいつは受かるだろうな、とイルカは思っていた。
それが、こんな所で。
まだ下忍としてもろくに任務をこなしていないうちに死ぬなんて。
何故優秀なカグラが死んで、平凡な自分が生きているのだろう。
イルカは理不尽な気がした。
カグラなら、いずれは上忍にもなれただろうに。

イルカの肩に、暖かな手が置かれた。
「……イルカ。…お前には、わかっているだろう? …これが、私達の生きている世界だ。死と、隣合わせの世界だ」
イルカはこくん、と頷いた。
両親が逝ったのは二年前。
両親だけではない。多くの忍びが命を落とした。
その時、夥しい数の人間が埋葬されるのをイルカは見た。
感覚がマヒするほど、血と、死体の匂いも嗅いだ。
でも。
「……わかっています…先生。…わかっている、つもりです……でも、やっぱり…平気では…いられません…俺…俺は…」
胸がつまり、涙があふれでた。
「お…れ……っ…う…」
ぽたぽたと床に涙が落ちる。
上忍の教師は、イルカを叱らなかった。
まだ細い肩を慰めるように抱き、そうだな、と小さく呟く。
「……私も何人も見送ったがね……こればかりは慣れんよ……」
廊下からは少女の嗚咽が聞こえる。
黄泉の国に旅立った少年だけが、一人穏やかな顔をしていた。



コンコンコン。
イルカは扉を叩く。
「お入り」
中からのんびりとした初老の男の声が応える。
「し、失礼致します。…火影さま」
イルカは緊張して扉を開けた。
「おお、イルカ。…ちと見ないうちに少し背が伸びたようだな。
よしよし、元気そうで何より」
「お久し振りです、火影さま」
イルカは少し頬を赤らめて、挨拶した。
三代目火影。
木の葉の忍者の頂点に立つ人。
そんな人が、まるで自分の祖父のように親しみを込めて話し掛けてくれる。
イルカは畏れ多いのと嬉しいのとで、いつも足が地についた感じがしなかった。
「…イルカ」
「はい」
「お前は今、任務でのチームに入っていなかったのう」
「……はい」
カグラが死んで。
ホタルは、カグラの死のショックが強すぎたらしい。
火影に願い出て下忍の登録を抹消し、『忍者』である事をやめてしまった。
担当の上忍は、彼女を止めなかった。
神経の細過ぎる少女に無理をさせてもいずれは『壊れてしまう』だけだから。
従ってイルカは独り、取り残された。
担当だった上忍も、本当はどこか身体を壊していたらしい。
それを機会に、引退してしまった。
イルカは任務受付所で使い走りをしたり、アカデミーで教師の助手の真似事をしたりする日々を送っていたのである。
「イルカ、お前はアカデミーを出てからもう一年近くになるな? 少しは任務というものも理解出来てきたか?」
「…え…はい。……たぶん」
任務といっても、圧倒的にDランク任務が多かった。
たまにCランクもこなしたが、実際自分がきちんと忍びらしく仕事が出来ているかと訊かれたら、少し自信が無い。
ベテランの上忍先生は、小さな任務を通して色々と忍者としての心得や常識を教えてくれたが、イルカは自分がまだまだ新米だという事を自覚していた。
「ふむ。…ま、いいじゃろう。……アサギ、入れ」
「はっ」
ふっとイルカのすぐ側で風が起こり、次の瞬間にはそこに若い男が立っていた。
イルカを見下ろして、にこ、と笑う。
「……アサギ、これがイルカだ。素直で気が利く子だし、目がいい。お前の役に立つだろうよ」
イルカは驚いて火影と、アサギと呼ばれた男の顔を交互に見た。
「イルカ。…今日からこのアサギがお前の上司だ。今までのように、下忍でチームを組んで、上忍の先生に面倒を見てもらうんじゃない。…アサギの任務の補佐をしなさい」
イルカは火影の言葉に更に驚いたが、すぐに我に返った。
「わかりました、火影さま」
そして、新しい上司に一礼する。
「イルカです。よろしくお願い致します」
新しい上司―――アサギは人好きのする笑顔をイルカに向けた。
「アサギだ。…よろしくな、イルカ」


火影の執務室を退出したイルカは、緊張して『新しい上司』と並んで歩いていた。
その様子を見て、アサギが笑う。
「そんなに硬くならんでいいって。…俺は中忍だよ? 今までの上司は上忍だったんだろ?」
「あ…いえ、その…」
パン、とアサギはイルカの背中を軽く叩いた。
「昼飯、まだだよな。 どっか食いに行こ。あ、そーだ! 新しいラーメン屋出来たんだってさ。ラーメン嫌いか?」
「い、いいえ」
「じゃ、奢ってやるよ。おいで、イルカ」
上司、というよりはただのアカデミーの先輩のようなアサギの物言いにイルカは戸惑ったが、ここは素直に言葉に甘える事にする。
「はいっ! ありがとうございます」
イルカは、未経験の『任務』に対する不安と、ようやく自分の『居場所』を与えられた嬉しさを胸に抱え、とことこと背の高い青年について行った。
『一楽』
新しいが、カウンター席しかない狭い小さな店だった。
「親父さん、何がおすすめ?」
「ウチは何でも美味いよ。…でも、そうさな、味噌が自慢かね」
「じゃ、俺、味噌にする。イルカは何がいい?」
「俺も味噌がいいです」
狭いカウンター席に隣り合って座っているので、青年の体温が微かに感じられる。
その体温の所為で、イルカはようやく落ち着いてきていた。
そっと青年を見る。
年齢はどれくらいなのだろう。
ようやく、二十歳に手が届いたくらいだろうか。
イルカと同じ様な真っ黒な髪を無雑作に項で結っている。解けば肩甲骨に届くくらいの長さだ。
目鼻立ちの彫りが割と深くて、感じのいい顔をしている。女性には受けがいいだろう。
そして、印象的なのが瞳の色だった。
薄い、蒼。
日に焼けて浅黒い顔の中でその色彩は妙に淡く儚げに見えた。
後になって、イルカはその眼の色が彼の名の由来になったのだと知ることになる。
「イルカは、十三だっけ。…一人で暮らしているって?」
「…はい。両親は二年前のあれで亡くなりました」
「そっか…あれはなあ…木の葉最大の悪夢だったな……」
そうか、この人もおそらくあの時に身近な人間を幾人も失ったのだろうな、とイルカは唇を噛んだ。あの事件で心に傷を負わなかった人間など里にはいない。
だがアサギは、一瞬曇らせた顔をすぐに笑みに変え、イルカの頭をぽんぽん、と撫でた。
「俺も気楽な一人暮らしだよ。何かあったら遠慮なく訪ねておいで」
イルカは目を丸くしたが、破顔して「はい」と答えた。
「よし。…おっしゃあ、今日は特別だ。親父さん、チャーシューいっぱい入れてねー。あ、煮タマゴあんの? じゃそれも入れて。……いっぱい食ってでかくなれよ、ちびすけ。お前、十三にしちゃ小さいよ。細いし。…忍者はな、体力勝負だぜ」
「…は、はあ…」
「ま、これからが成長期だから、心配いらないかな? でも成長期にしっかり栄養摂って、身体を作るんだよ。…お前、きっとでかくなるぜ」
「そうでしょうか」
イルカは不安げに自分の身体を見下ろした。
「なるって。ワンころもさ、前肢とか見ればでかくなりそうだなってわかるだろ? お前も今の体格の割に手足がでかいから。指も長いしな」
そして、ナイショ話のように声を落とし、耳元で囁いた。
「……痛えぞ〜…俺も経験あるけどさー…」
「な、何がです??」
「成長痛ってやつ。急激に骨とか成長するんで、関節とかがすっげー痛むんだよ。…理由も無く足が痛んだりする時はたいていそれだ。…あまりひどいようだったら俺に言いな。無理はさせ
られないから。変だと思う事は一人で悩まないですぐ言うんだぞ」
イルカは、冗談のようだったその会話が、まだ成長期の自分を気遣ってくれていたものである事に気づいた。身近に大人がいれば、もしもイルカがその『成長痛』に見舞われてもすぐにそれは心配の無いものだと教えてくれるだろう。
だが、イルカにはそういう存在がいない。
だから、先に教えてくれた。
これから一番身体が変化していく思春期にさしかかっているイルカに、『先輩』として何でも相談に乗ってやる、と言ってくれているのだ。
「…わかりました。何かあったらすぐ言います」
「素直で大変よろしい。ご褒美にジュースも奢ってやる」
それから片目をつぶり、「今日だけだからな」と付け足した。
今まで面倒を見てくれていた上忍は前線を退いた中年の男だったので、子供であるイルカ達とはやはり隔世の感があったが、アサギはまだ歳が近い分親しみがあった。
それに、おそらく生来の性格なのだろう。
陽気で気さくな男。
イルカは、彼の笑顔を見ているうちに心の奥にずっと抱えていた冷たくて重い塊が少し軽くなっているのに気づく。

カグラを失ってから、暗く冷たいトンネルを独りで歩いていたイルカに、ようやく差した陽の光だった。





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最初に、お断りと言うか………謝罪を。
すみません、このSSは、オリキャラ頻度が非常に高いです。
イルカ先生の過去捏造ですので、どうしても既存のキャラでは書けない部分が多くて。
ご理解頂ける方は、どうぞ最後までお付き合いくださいませ。