幸せの法則−2
イルカは胸中で罵りの言葉を吐く。 (―――火影様のバカ。火影様のバカ。火影様のバカ。) 彼が日に何度となくこの罰当たりな言葉を胸の中で繰り返してしまうのには理由がある。 イルカがその火影に勧められてカカシという男と付き合いだして三週間が経過していた。 カカシは上忍で、結構多忙な男だったからそうそう毎日べったりと付き合っているわけで はない。たまに食事を一緒にしてみたり、散歩したり。 カカシは最初に言った通り、本当に『ただのお付き合い』の域を出る振る舞いをする事は なかったのでイルカも安心して気楽に付き合う事が出来たのだ。彼はイルカの事を何故か 気に入ったらしく、色々と気を回してくれたりして照れくさくなる事もしばしばあったが、 それはイルカにとって嬉しいことであったし。 だからイルカは、カカシと『お付き合い』する事自体はそんなに嫌じゃなかったのだ。 だが……… (―――あああああっ! 火影様のバカァァァァッ!) イルカはやはり叫んでしまう。 「あれがカカシの相手だって? 冗談だろ」 原因はこれだった。 今日もあちこちで囁かれる聞こえよがしな厭味。 世情に疎かったといえばそれまでなのだが、イルカはまさかカカシがそんなに『人気者』 だとは知らなかったのだ。 (―――あの人に『お見合い』なんて全然必要無いんじゃなかったんですか――ッ 火影 さまぁぁ……) おまけに、火影はカカシの仲間である上忍のひとりに、カカシとイルカは結婚を前提に付 き合っている、と洩らしてしまったのだ。 おかげで最近、イルカに対する世間の風当たりが強い。中忍でアカデミーの教師という取 るに足らない肩書きと、人当たりの柔らかさで、今まではイルカに敵意や悪感情を向ける 者などいなかったのに。 『火影様の勧めとはいえ、中忍の分際であのカカシ上忍とお付き合いするなんて図々しい。 身の程をわきまえて自分からさっさと身を引けば良いものを。火影様も何をお考えなのか』 要約すればそういう主旨の言葉が方々で囁かれ、嫌でもイルカの耳に入ってぐさぐさと彼 の胸を突き刺す。 火影が絡んでいるので、流石に面と向かってイルカに意見をする者もいなかったが、イル カはだんだん出勤するのも億劫になってきていた。 その日もイルカはトボトボと答案用紙の束を抱え、冴えない足取りで歩いていた。 カカシは任務で出かけていてここ二週間ほど会っていない。 (……これ、採点したらさっさと帰ろう…) とばっちりを恐れているのか、最近は中忍の同僚も同情の眼差しをイルカに向けながらも、 付き合い方に距離を置くようになっていた。飲みに誘ってもくれない。 (カカシさんが悪いわけじゃ…ない…けど……) この状態は苦痛だった。 (―――あの人が嫌いなわけではない…けど…) 嫌いじゃないどころか。 一緒に過ごす時間は楽しくて、イルカは彼が好きになりかけていた。 (今…なら。諦められるし……カカシさんはモテるみたいだし…俺なんかいなくったって ……な) 今までの平穏な生活を取り戻す方が大事なことのようにイルカには思えた。 考えてみれば、あの時偶然火影の執務室に来合わせたイルカがたまたま独り者だったので、 火影が気まぐれで彼をカカシに紹介した、といった感じだった。 (―――俺じゃなくったって良かったのかも……) はあっとため息をついたところへ、思いもかけぬ衝撃。 「よう! どうした色男! 冴えねえ歩き方しやがって」 物凄い勢いで背中を叩かれたイルカは思わずつんのめった。ごほっとむせ返りながら、イ ルカは恐る恐る後ろを振り返る。 「あ…貴方は…」 咥えタバコの大柄な男がにやにやしながら立っていた。 「ア…アスマ…先生…ですよね。あの…何か…」 アスマはイルカの顔をしげしげと見て、怪訝そうに首を捻った。 「お前さんだよなあ? カカシと付き合ってる中忍ってのは。なぁに暗い顔しているん だ?」 (アナタのお仲間が、じわじわと俺をいびるからです…) とも言えず、イルカは曖昧に微笑んだ。 この大男も、カカシには不釣合いだと噂される自分を検分に来て、何か言うつもりなのだ ろうとイルカは思ったのだ。もう、保身の為に身構える気力もない。 「…何か、御用でしょうか」 「御用ってほどでもないな。噂の御仁の顔を近くで見てみようって野次馬根性」 あっけらかんとしたアスマの口調に、イルカは笑みを誘われた。少なくとも、この髭面か らは悪意は感じられない。 「…別に、面白い顔でもなかったでしょう?」 アスマはうん、と頷く。 「大笑いできるかと思ったけど、出来ねえな。…何でカカシがお前さんと付き合っている のか理解に苦しむってぇ噂だったが、真正面から見りゃ納得するわな。……お前さん、子 供とか動物に懐かれるタチだろう」 イルカは首を傾げた。 「……はあ…そうかもしれません…俺自身が子供や動物って好きだから…一緒にいるのが そんなに苦痛じゃないんです。それが彼らにはわかるのかもしれない」 アスマはぷっと吹き出した。 「やっぱな。…だから、カカシの野郎、お前さんに懐くんだ。……あいつはガキでどーぶ つだから」 「はあ?」 アスマは一人で笑いながら頷いている。 「さっすが火影様。見る目あるってとこか。…お前さんになら、カカシの面倒が見られる と踏んだんだな」 そこでアスマはすうっと真顔になった。 「……マジな話な、カカシの事、頼むわ。…俺が口出す筋の事じゃねえんだけど、あいつ ここんとこ荒れまくっててな。気づく人間は少なかったかもしれんが、気づいちまった奴 らはヒヤヒヤしていた。…それが、最近は少し落ち着いてきている。…たぶん、お前さん のおかげだろう」 イルカはその真剣な眼差しに狼狽する。 「…俺は何もしていませんよ。そんな…あの人の力になんて、俺は…」 (…そう、俺はあの人に何もしてあげていない……) アスマが何か言おうとしてイルカの肩に手を置いた時。 「イッルカせんせ―――ッ!」 当の噂の本人がいきなり宙から降ってわいた。 「カッカカシさんッ?」 背中にべったりと張り付くように抱きつかれて、イルカは驚愕の声を上げる。 「なぁにしてんのかなー、アスマ。この人に何かしたらオレが許さないよ」 低い声で恫喝するカカシに、アスマは苦笑した。 「いっちょまえにヤキモチかい? 何もしてねえよ。ただ、お前のハニーのツラぁ拝みに 来ただけさ。あ、ダーリンだったか?」 クツクツ笑いながらからかうアスマに、カカシは露骨に嫌な顔をした。 「うるさいな。見たんならもういいだろ? それ以上見るなよ。イルカせんせが減る」 カカシは本気で不機嫌そうにイルカの腕を引っ張って自分と身体を入れ替え、アスマの視 界にイルカを入れないようにする。 「お前……」 アスマは呆れた、と言う顔でカカシを見遣った。 「んなに大事ならもっとしっかり守ってやんな。お前にだって耳くらいついているだろ?」 あ、とイルカは気づいた。 そうだ。 イルカを苦しめている噂が、カカシの耳に全く届いていないわけがない。 「余計なお世話だ」 カカシの口調がますます尖る。 あの…、とイルカは恐る恐る口を挟んだ。 「カカシさん? アスマ先生は俺を苛めていたわけじゃないですよ。大丈夫ですから。… アスマ先生はご友人なのでしょう?」 カカシはばっと振り返り、イルカの両腕を掴んだ。 「もおっ! アナタときたら誰にでも優しいんだから! いいんですよ、こんなクマ庇わ なくて」 アスマは半眼でカカシを見下ろす。 「……ひで〜…こんな奴、心配して損した。あ〜、イルカぁ。前言撤回な〜。面倒になっ たらカカシなんざ放り出しちまえ」 (―――ひいっ) イルカは思わず心の中で悲鳴をあげた。 その瞬間立ち上ったカカシの怒りのオーラがあまりに凄まじかったので。 「てめえがイルカ先生を呼び捨てにするな――――――ッ馴れ馴れしいッ」 「おー、おっかねえ。…んじゃあなあ、イルカー。今度一緒に飯でも食おうなー、ヤキモ チ焼きがいねえ時によお」 「やめて下さい、アスマ先生。この人の怒りを更に煽るような発言は〜〜ッ」 イルカは泣きそうになりながら、怒りでアスマに掴みかからんばかりのカカシの身体を後 ろから抱きついて止めていた。 「さっさと消えろ! でないとオレがこの世からてめえを抹消してやる!」 カカシの罵倒など涼しい顔で受け流し、アスマはイルカに向かってウィンクなどして寄越 して…カカシが本気で印を結ぶ前に煙のように消えた。 ぜえはあ、と肩で息をしているイルカ(怒りまくっていたカカシの息は何故か上がってい ない)をきゅうっと抱きしめて、カカシは呟くように謝った。 「…ごめんなさい…」 「何で…謝るんですか…?」 カカシは眼を伏せた。 「……あいつの…アスマの言った通りです。オレは貴方をもっとちゃんと守るべきだった。 …火影様の肝いりだという事に甘え過ぎていました。周りでぐたぐた言っている連中なん て、放っておけばいずれ黙ると思っていたんです。あんな奴ら、関係ないって…」 「貴方が謝る事はありません」 イルカはカカシを止めようとした時にばらまいてしまった答案用紙を屈んで拾い始めた。 カカシも一緒に屈んで紙を拾うのを手伝う。 カカシから答案用紙を手渡されたイルカは無表情に呟いた。 「謝るのは俺の方です…」 「はい?」 カカシはしゃがんだ姿勢のまま、同じくしゃがんだ姿勢で答案用紙の枚数を数えているイ ルカの手元からその顔へ視線を移した。 「……俺、卑怯でした。さっきまで俺、貴方とのこのお話は無しにしよう、お断りしよう と思っていたんです。…たかが陰口くらいが辛抱出来なくて、逃げる事を考えてしまった。 貴方自身が嫌いなわけでも何でもないのに」 カカシは何も言葉を返さず、イルカの顔を見つめている。 イルカは顔を上げ、自分の気持ちを告げた。 「……俺、貴方が好きなのだと思います」 |
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