はたけカカシは天使だった。
神様の御使いというわけではなく、清らかで純真無垢だという意味でもない。
性ホルモンの異常で性的に未分化のまま生まれてしまった、生まれながらに両性の性質を併せ持つ『両性具有者』だったのである。
このまま男か女かわからない身体で成長するよりは、どちらかに―――外科手術をして男か女にしてしまおうと医師は勧めたが、当時カカシを養育していた保護者である四代目火影は首を縦には振らなかった。
カカシにとって『他人』である医師や自分が、勝手に決めてもいい事柄ではない、というのが彼の主張だった。
カカシがもっと成長し、それを自分で望むのなら話は別だが、今不自然に手を加える事はかえって身体に負担をかける結果になりかねない。
拠ってカカシの忍者登録書の性別欄は空欄のまま提出された。
在りのままの己を誇れ。
決して他者と違う事を卑屈に思うな。
彼は幼いカカシにずっとそう言い聞かせていた。
「誰ひとり、誰かと全く同じ人間なんていやしない。お前は他の人より多くのものを持って生まれてきたのだ。ただ、それだけだ。…他人の言葉に惑わされず、自分で、自分にとって一番いい道を歩くのだよ…」
それは、普通に生まれて来られず、『不具』とみなされて捨てられた子供に対する救いと慰めの言葉だったのかもしれない。
だが幼いカカシにとって、四代目の言葉が全てだった。
彼の優しい微笑が全てだった。
彼の言うとおりにしよう。
四代目の慰めも虚しく、中途半端な身体のカカシにとって現実は厳しいものであったが、カカシは両性具有者が抱えるはずの重荷を半分四代目に負ってもらったおかげで、『天
使』でいられたのだ。
忍者としては早熟な天才だったが故に、随分物騒な天使ではあったが。
そして思春期を迎えたカカシは、育ての親である四代目にほのかな恋心を抱いた。
在りのままであれとずっと言ってくれていた彼ならば、この男か女かわからない自分の気持ちを受け入れてくれるかもしれない。いや、在りのままの自分を愛してくれる人など彼以外考えられない―――
だが、カカシがその告白をする前に、彼は逝ってしまった。
いきなり『支え』を奪われたカカシは茫然としたまま月日を送り―――気づけば天使のまま二十の歳を越していたのである。
◆
(…ああ、お腹すいた…)
カカシはきゅるる、と鳴く腹を抱えて暗くなった道を歩いていた。
昼間紅と共に火影に呼ばれたのは、単に先日の任務についての詳細確認だったのだが、「無茶をし過ぎる」と三代目である老人の長い説教を聞かされるハメになって、帰宅がこんなに遅くなってしまった。
鼻先を何かいい匂いがかすめる。
(……ラーメン…そうだな、ちょっとしょっぱいもの食べたい感じ。いいや、ラーメンで)
そうと決めたら、早速いい匂いの発信源である暖簾を手でひょいと退けて店の中に頭を突っ込む。
「おじさーん、もやしラーメンちょうだい。味噌ねー」
「あいようっ」
カウンター席にカカシが座ると、横からスッと氷水のコップが出てきて目の前に置かれた。
この店、水などはセルフサービスだから、店の者が置いてくれるわけがない。
カカシが驚いてコップの出てきた方を見ると、昼間の中忍が「どうぞ」と微笑んでいた。
カカシの心拍数は途端に上昇を始める。
(どどどっどうしよう…でも、ラーメン注文しちゃったのに逃げたら変だよね。落ち着け、オレ。上忍だろうがっ! 普通に振舞えっ! フツーに!)
「あ、ありが…と…う」
「偶然ですね。…と、ああ、覚えておいでですか? 昼間お会いしたのですが」
覚えていないわけがない。
カカシは赤くなってぎくしゃくと頷いた。
「……イルカ…先生…でしたよね…ひ、昼間はどうも…」
「名前、覚えて頂けていましたか。良かった」
カカシはこくんと頷く。
職業柄、一度目にした顔と名前は取りあえず記憶するのが習いだ。
滅多な事では忘れない―――が、この青年に関しては単にそれだけ、とは言い難かった。
彼の声が―――鼓膜を通って、胸の奥をきゅうっとつかむのだ。
「もやしラーメンお待ちっ」
どん、とカウンターにカカシの注文したラーメンがきた。
それを見たイルカは店主を呼び止める。
「待った、親父さん。俺、まだ物足りなくて…餃子もらえますか。後、半ライス」
「今大盛りラーメン食ったのに元気だねえ。よっしゃ、イルカ先生は久し振りだしな、サービスでちょいと多く焼いてあげるよ」
「ありがとう、親父さん」
カカシはそんなやり取りを聞きながらそろそろと口布を下ろした。
何となく隣りに座るイルカを意識してしまって、食べにくい。
(ふ、普通に…普通に…変に思われちゃうでしょーがっ…)
カカシは必死になって『普通』にラーメンを口に運んだ。
美味しいはずのラーメンの味がよくわからない。
「はたけさん」
心臓が飛び跳ねた。
「ふぁいっ!」
授業中いきなり指された生徒のような返事をするカカシにイルカは少し驚いた顔をするが、表情を緩めて餃子の皿をカカシに示す。
「よろしかったら、一緒に如何ですか? 多めに焼いてもらっちゃったから…お嫌いでなかったら」
餃子は嫌いではない。
ここ一楽の餃子は結構評判も良かったし、第一、せっかくイルカが勧めてくれたもの、断わるのも悪い。
「あ…いいん…ですか? でも…」
「熱いうちにどうぞ」
「じゃあ…頂きます…」
勧められるまま、カカシは餃子を口に運んだ。
自分が猫舌なのも忘れて。
「はふィッ」
慌てて口を抑えるカカシに、イルカは急いで水を差し出した。
「大丈夫ですか? そんなに熱かったですか」
水を含んで口の中を落ち着かせているカカシを心配そうに見て、イルカも餃子を口に入れる。
確かに熱いが、口の中を火傷するほどではない。イルカは安心して、箸立ての横から紙ナプキンを数枚引き抜いてカカシに渡した。
「はたけさん、猫舌だったんですね。すみませんでした。もう少し冷めてから召し上がって下さい」
氷水のお陰で熱さもすぐ緩和されたカカシは、恥ずかしそうに餃子を飲み込んだ。
彼の前で少々『地』を晒した所為か、気が楽になってくる。妙な動悸もだいぶマシになり、先程までの落ち着かなさは去って、隣りにイルカがいることが何だか嬉しくなってきた。
「…いやオレ…うん、ちょっと熱いもの苦手で…すいません、かえって気を遣わせて…」
照れくさそうにえへへ、と笑う。
それからはせっせと自分のどんぶりの中身を減らす事に専念した。
イルカはそんなカカシの様子にほんの少し眼を細め、彼の分にと思った餃子を皿の綺麗な方に残して、自分の分の餃子と白飯をたいらげる。
「これ、もう幾らか冷めてますから大丈夫ですよ」
「…いやそんなにもらっちゃったら…あ、じゃあもう一個食べて下さい。オレ、あと二つで充分ですから」
カカシが遠慮すると、「そうですか?」とイルカはカカシの言うとおりに箸で餃子をひとつ摘まみ、口に放り込んだ。
「親父さん、やっぱりラーメンと餃子はココが一番ですよ。御代、ここに置きます。…ごちそう様」
「おう、また来ておくれ、イルカ先生」
イルカは立ち上がりながらカカシにも会釈した。
「ではお先に、はたけさん」
カカシは咄嗟に彼の胴衣の端っこを掴んでいた。
「い、行っちゃうんですか? お急ぎなんですか?」
イルカは少々面食らって自分の服を掴んでいる上忍を見下ろした。
「…お急ぎってワケじゃないですけど…何か御用ですか?」
「お急ぎじゃなければ、もう少し…オ、オレが食べ終わるまでちょっといて下さい! 急にいなくなられると………」
イルカはそのカカシの言葉に、ふわっと微笑んだ。
「ああ、そうですね。…失礼しました。では」
イルカは座り直して水を飲んだ。
店内にはまだ空席がある。カカシが食べ終わるまで座っていても、迷惑にはならないだろう。
「すみません…」
もそもそ謝りながら、カカシはラーメンを食べている。
なるほど、猫舌だからあまり早くは食べられなかったんだな、とイルカは苦笑した。
「謝らなくても…ゆっくり、召し上がって下さい。忍者は早食いの人が多いですが、本来きちんと噛んで食べなきゃ身体に良くないんですから。俺も、気をつけなきゃ」
イルカはのんびり笑みを浮かべながら、割り箸の箸袋で何かを折っている。
カカシがイルカのくれた餃子を頬張りながら見ていると、ただの箸袋はイルカの指先で綺麗に編んだような形になった。
「…なんです? それ」
「ああ、別に何でも…ちょっと栞をね、拵えたんです。箸袋をそのまま挟むより何となくいいでしょ?」
イルカが掲げて見せたのは、昼間紅が彼に処分を任せた恋愛小説本だった。
「…それ、読むんですか?」
イルカははい、と頷いた。
「せっかくですから。図書室に寄付する前に読もうかな、と。俺に手渡されたのも何かの縁でしょうし、どんな本でも何か得るところはあると俺は思っていますので」
その口振りだと彼は、本の内容が安っぽい恋愛物だと承知しているようだった。
「……得る所ですか……そんなものですかねえ。…あの、イルカ先生。…先生は、『赤い糸』
ってご存知ですか? その本の中に出てくるんです」
カカシの唐突な質問にもイルカは動じることなく、生真面目に首を傾げる。
「赤い糸…ですか? 恋愛物で赤い糸、とくればおそらく『見えない赤い糸』の事ですね。
宿世より定められた恋の相手、という意味でしたか…? すみません、出典など詳しい事はわかりませんが、人間、生まれた時に既にその糸は指に結ばれていて、相手に繋がっているのだとか」
「ふうん、やっぱりソレって常識なんですか…実はオレ、今日初めて意味を知ったんですよ。…そっか、運命の相手か…」
カカシは少し寂しげに微笑んだ。
「……オレの指には赤い糸なんかきっとありません…最初っから。…そんな相手、いるわけがない…」
カカシはごちそう様、と手を合わせるとカウンターにラーメン代を置いた。
「イルカ先生、すみませんでした。お引止めして。…餃子、美味しかったです。どうも」
立ち上がったカカシの腕を、今度はそっとイルカが掴んだ。
「…お急ぎですか? はたけさん。…良かったら、これから飲みに行きませんか。……一日に三度も顔を合わせたのは、それこそ何かのご縁だと思うんですが」
明らかにカカシは怯んだ。動揺した。
しかし、イルカの手を振り払う事も出来なかった。
声だけでも既に心は金縛り状態なのに、その手で触れられたらもうカカシには抗うすべは無い。
そんな状態になっても、カカシにはまだ自分のイルカに対する気持ちがはっきりとはわかっていなかった。
昼間、会ったばかり。
まだろくに会話も交わしていない相手に、何か特別な感情を抱く事などカカシには『あり得ない』事だからだ。
それでも、そのあり得ない事が実際に起きていた。
イルカに掴まれた肘の辺りから彼の体温が伝わってきて、カカシの身体の中にまた落ち着きの無い疼きが生まれる。
それを悟られまいと、カカシは努めて冷静な振りをした。
「お誘い、嬉しいです。…でも、オレ実は酒は弱くて。…飲めない事もないんですが、外で飲むとマズイんですよ。すぐ眠くなるもんでね」
するとイルカはあっさりと引いた。
「ああ、そうですか。…いえ、無理にとは申しません。では、おやすみなさい」
自分で断わったくせに、イルカがさっさと諦めて立ち去ろうとすると途端にカカシは寂しくなってしまった。
未練の欠片もなく切り捨てられたようで何だか悲しい。
「…お……」
「はい?」
イルカはひょいと振り向く。
カカシは上忍らしくもなくどこかおどおどとした風でイルカを見上げていた。
「お…酒はダメ…だけど…コーヒーとか…お茶なら……」
「お気遣いなら、いいんですよ。俺、何となくもう少し貴方と話したいような気がしただけですから…」
カカシは勢い込んで頷いた。
「オ、オレも……です」
「じゃあ、少し歩きますか? 腹ごなしに。散歩しながら話をするのもいいでしょう。…いい月が出ています」
イルカが去らないのなら何でもいい。
カカシは否を唱えなかった。
|