彼女は傘を放り出し、小雨にけぶる砂浜を青年に向かって走り出す。
「アスマさんっ…あたし、あたしやっぱり貴方と離れられない…っ! お父様がなんと仰っても関係ないわっ」
思わず腕を広げて彼女を抱きとめた青年は、信じられない、といった表情で女の華奢な
体を恐る恐る抱き締めた。
「一緒に行く…連れて行って、アスマさん」
「…シオリ…さま……」
「いや、シオリと呼んで…」
「シオリ…」
「そうよ、私は貴方の妻に…なるのよ…ずっと、そう呼んでちょうだい…」
感極まったように天を仰いだ青年の端正な顔に小雨が降りかかり、雨とも涙ともつかない雫が彼の頬を濡らす。
「ああ……貴女をこのまま連れ去ってもいいのだろうか…」
シオリはアスマの胸に顔を埋め、頷いた。
「もちろんよ…もちろんだわ…私の赤い糸は……貴方にしか繋がっていないのよ……」
時を忘れたようにいつまでも抱き合う若い二人を、霧雨が優しく包み込んでいた―――
ばた、とカカシは本を閉じた。
「……くっだらね……」
閉じた本を無雑作に目の前の机に置いて、カカシはお茶をすする。
その様子を横目で見ていた紅は笑った。
「あら、最後まで読んだ? ねえ、笑えない?」
「紅が面白いから読んでみろっていうから読んでみたけど……これ、面白い…? ベタでチープな展開は笑えるけどさあ。オレはイチャパラの方がいいな。あっちのバカバカしい
展開の方がいっそ痛快じゃない。大体さあ、設定が古くない? 名門のお嬢様と才能はあるけど貧乏人の好青年との身分違いの恋。男の方は高嶺の花への崇敬を恋と錯覚した挙句、大きい障害に燃えてるし、女も今まで周囲にいなかったタイプの男に興味持った挙句、自分の身分を捨てて男の方へオチてあげるっていうシチュエーションに酔ってる感じ。優越感でとっても気持ちよさそう。……オレならこんな女、イヤだな。苦労知らずで、悩みはオトコの事だけ。その男と結ばれない自分なんて世界一不幸だと思ってる。自分で自分の下着も洗った事無いお嬢様が金の無い男と駆け落ちして続くか?」
紅は本を手に取って、ぱらぱら、とめくった。
「なぁに? 妙に饒舌ね、カカシ。だからこれは『恋愛小説』なんだってば。あり得ない恋を描いてナンボでしょうが。一応ベストセラーの恋愛小説なのよ? …ま、アンタの好みな話じゃないってのはわかってんだけどさ、それよりヒロインが恋する優男の名前がアスマだっていうのが笑えるじゃない」
カカシはアハハ、と笑い声をあげた。
「それは言える。つい、あの髭面が目に浮かんじゃって笑っちゃうよね」
「でしょ?」
「まあね。でもオレはやっぱこのテの小説はパスかな…ああ、そうだ。ねえ、紅。本に書いてあった赤い糸ってどういう意味?」
紅はめくっていたページの一箇所に目を留めて「ああ」と呟く。
「そっか……赤い糸っていうのが一般常識みたいに何の説明もしてないものね。ええとね、人間誰でも生まれた時から将来出逢って結ばれる相手が決まってて、その相手とは見えない赤い糸で結ばれているっていうヤツよ。……確か、小指だったかしら…」
カカシは自分の小指を見て、「ふうん」と曖昧な相槌を打った。
「運命の相手って意味か。ろーまんちっくー…ってか? やっぱ、くだらないね」
「カカシってばリアリスト。夢ないんだから……あら?」
紅はふと視線を上げた。
カカシもスッと目を細める。
人の気配が近づいてきたからだ。この気配は自分が『知っている』者のものではない。
上忍棟の休憩所には自分と紅しかいなかった為、口布を下ろしてのんびり茶を飲んでいたカカシだったが、すい、と口布を元に戻した。
気配も殺さず休憩所に近づいて来た男が観葉植物の陰から現れて、彼女達に一礼した。
中忍だ。
上忍ならば、紅もカカシも大抵の顔は知っている。
「ご休憩中失礼致します。夕日上忍、はたけ上忍。三代目がお呼びです。至急、執務室へおいで下さい」
やれやれ、と紅は腰を上げる。
「わかったわ、ありがと。…貴方、見ない顔ね?」
青年はにこっと微笑んで頷いた。
「はい、しばらく『外』におりましたので。つい最近戻りました。今後はアカデミーで教員を務める傍ら、任務受付所にもシフトされておりますので、三代目の御用を承る事も多くなると思います。お見知りおきを」
背の高い黒髪の青年は、涼しげな眼をして、忍らしからぬ人好きのする笑顔の持ち主だった。
顔の中央に走る傷跡が彼の容貌に『忍らしさ』を与えていたが、それさえ隠してしまえば『外』の一般人に紛れ込むのは容易かっただろう。
なるほどね、と紅は青年を見上げた。
「そう、よろしくね。…ねえ、名前を聞いてないわ」
青年は少しだけ目を細めた。
「……失礼しました。うみのイルカと申します」
紅は手にしていた本をポン、とイルカの胸元に押し付けた。
「これ、読んじゃったからあげるわ。図書処に寄付。…貴方が読むんなら寄付しなくてもいいけど」
もう不要で邪魔だから処分しておけ、というわけである。
「……わかりました。寄付しておきます」
イルカは素直に本を受け取った。
そして黙って座ったままのカカシに視線を移して会釈すると、「では」とさっさと踵を返して出て行く。
「イルカかー。あ、教員だって言ったわね。イルカ先生って呼ばなきゃかな? ふふふん、なんか好青年っぽい感じ。あんまり上忍連中にはいないタイプよね。ほらぁ、いつまで座ってんのよ、カカシ。行くよ」
カカシはぼんやりと青年が出て行った方を見ている。
「……カカシ?」
不審げに眉を寄せた紅が屈んでカカシを覗き込んだ。
「どーかしちゃった? アンタ」
「………う…ん…」
よくよく見れば、顔面の中で唯一晒されている右眼の目許がほんのり紅く色づいている。
蒼い眼も何だか潤んでいて―――
「…げっ……」
紅は仰け反った。
(―――まさかっ…まさかコイツ、今の中忍クンにホの字? 一目惚れッ??)
「くれない…オレ、変……」
アンタはいつも変でしょ、とも突っ込めず、紅はただただ呆気に取られてカカシを眺めていた。
はたけカカシ、二十四歳。
箸を持つよりも早くクナイを握って早二十数年。
―――生まれて初めての『一目惚れ』であった。
何だか動悸がして落ち着かなくて、そして切ないのか嬉しいのかよくわからなくて、すごく『変』。
「紅、オレ…病気かな……すごく落ち着かなくて……さっきのヒト…の声…聞いてから…」
(うっわ〜…こりゃマジで病気かもね。しかも自分でその事に気付いてないしっ)
病気―――病名、『恋の病』。
お医者様でもナントカの湯でも治せないと古来言われているスペシャルな難病である。
救いを求めるように見上げてくるカカシの頭を、取りあえず紅は撫でてやる。
「……取りあえず、そうね…お手洗いでも行ってらっしゃい。少しは落ち着くかもよ。あたし、先に火影様のところへ行っているから」
カカシはそういうものかな? と首を傾げながらも素直に手洗いに向かった。
戸口で立ち止まって一応男性用か女性用かドアを確かめてから戸を開ける。
そして、中に足を踏み入れた途端に回れ右して光速ダッシュで逃げだした。
真っ赤になって、心の中で盛大に悲鳴をあげながら。
(ぎゃあああああああああああ〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ)
男性用トイレの中では、上忍の奇怪な行動に目を丸くしたイルカが呆然としていた。
「…今の…はたけ上忍だったような…? どうされたのだろう…?」
もちろん、トイレは用を足す場所であるから、その時当然イルカは『そういう格好』をしていた。
だがきちんと目隠し用の仕切りがあったし、男同士で何を恥らう必要があるのか。
イルカはすっきりと用を足した後、悠然と身仕舞いを整えて手を洗い、荷置き用の棚から先程紅から押し付けられた本を取る。そして、さっきのカカシの様子を思い出してぷっと噴きだした。
「……まるで、間違えて男便所に入っちまった女の子みたいな反応だったな。…変なお人だ」
上忍ともなると変わった人間も多い。
中には一般人では思いもつかない思考回路を持った人もいる。それを承知しているイルカ
は、カカシの奇怪な行動も深く考えたりはしなかった。
「変だけど…何だか可愛いかったな…」
イルカを見てびっくりしたように見開いた青い眼が印象的だった。
「まあ、俺には縁の無い御人だよな……上忍だし。……さて、午後は受付シフトだな。…久々に定時帰宅出来りゃいいんだが」
それから久々に一楽に寄って美味い味噌ラーメンでも食おう。いや、醤油がいいかな、さっぱりと。
受付所に向かうイルカは夕飯の事を考える事で無理やり銀髪の上忍を頭の中から追い出した。
一方、男性用トイレを飛び出したカカシは自分でもどこへ向かっているのかわからないまま走り続ける。
(どうしてっ…どうしてあんな所にさっきの兄ちゃんがっ…)
どうして、と言われても、手洗いなど下忍用も上忍用もありはしない。男性用のトイレに男のイルカがいても何の不思議もないのだが。
「お、お、男の用足しなんて初めて見るもんじゃないのにっ…」
いつもなら誰かと鉢合わせしても、別に気になどしない。
ついでながら、その時仮にその誰かの大事なモノが見えたとしても気にしない。
男ならあって当然のもの。はっきり言って、カカシにとって今更さして珍しいものでもなかった。
ただし、自分にも全く同じ物があるからという理由ではない。
はたけカカシ、男のようにしか見えず入るのは男性用トイレの方ではあったが―――実は正確には『男性』ではなかった。
|