Prelude−3
郊外の研究所から、取りあえず僕たちはタクシーで空港方面へ戻った。 一泊するにしろ、空港に向かうにしろ、方向は同じだ。 僕としては、せっかくボストンに来たんだから、今日はここでゆっくり一泊して、美味しいクラムチャウダーくらい食べたいと思うんだけど。祝杯を挙げてしかるべき日だと思うし。 それに、今後の打ち合わせもしておきたい。 サクモさんとカカシ君の親子対面を実現させる為には、どちらかが海を渡るしかないわけで。手っ取り早いのは、このまま僕がサクモさんを連れて日本に帰ることなんだが。 ―――サクモさんのスケジュール次第だしな、そこは。 タクシーの中で、彼は何かを憂えているように眉間に僅かな皺を寄せ、ずっと物思いに沈んでいる。ご自分に子供がいたのだとわかった時の喜びと興奮が落ち着いてきた今、彼は何を考えているんだろう。 考え事の邪魔をするのは気が引けるが、一泊するならそろそろタクシーの運転手に指示を出さなくては。 「あの…サクモさん、一泊くらいは大丈夫ですか? ………サクモさん?」 声を掛けると、彼はビクッと身体を強張らせ―――ご自分の世界から戻ってきてくれた。 「あ、すみません。………何でしょう?」 「今日、ここに一泊するくらいの日程的ゆとりはおありですか? と伺いました。お急ぎでないなら、ホテルで今後の事を話しませんか?」 「あ…そうですね。………ええ、大丈夫です。周りにも、明日には戻ると言ってきてありますから。………すみません、ボンヤリしてしまって」 「こちらこそ、考え事のお邪魔をしちゃってごめんなさい。………あの……もし、何かお悩みがあるようでしたら、お聞きしますよ? …僕で良ければ、ですけど」 サクモさんは、黙って頷いた。 後で、という意味だろうな。 今の彼に、『お悩み』が無い方が不思議なのかもしれない。 彼の与かり知らない所で生まれていた息子が、十九年ぶりに見つかったのだから。おまけに、その母親である恋人は既に故人で。 彼の心の中には今、様々な思いが渦巻いているのだろう。 確かに、タクシーの中でする話ではないな、うん。 僕は運転手に、以前泊まった事のあるホテルの名を告げた。 バックベイ地区のホテルに到着した時は、もう夕方近くになっていた。 ここなら、空港までもそう遠くない。 最高級ではないが、従業員の教育が行き届いていて、建物のシックな雰囲気が気に入っている老舗のホテルだ。 事前に予約が入れられなかったので、空いていたのがジュニアスィートのキングだけだった、というのが難だが。観光シーズンはピークを過ぎていると思っていたのだが、考えてみれば野球はまだシーズン中だったかもしれない。 いや、僕はいいんだけど。 サクモさんがさ、よく知らない野郎とひとつベッドってのは嫌なんじゃないかと………普通、イヤだよね。 他のホテルを当たろうかとサクモさんに相談したら、彼は別に構わない、と微苦笑で首を振った。 「貴方さえ良ければ、私は構わないですよ。………部屋が空いていただけでも、運がいいのかもしれません。…今から捜して、他のホテルに空き室があるかどうかわからないですから」 たぶんもう、ホテル捜して歩くのは億劫なんだろうな。少し、疲れたような顔色しているもの。 「そうですか? じゃあ、ここにしますね。ちょっと待っていてください」 さっさとチェックインして、ついでに夕食と明日の朝の食事も予約してしまう。 サクモさんは、呑気に市街のレストランなどへ繰り出す気分ではないだろうから。 ホテルマンに案内されて、部屋に入る。 このホテルは、各部屋の内装が画一的ではなく、部屋によって結構雰囲気が違うのだ。 空いている時なら、気に入った部屋を選ぶ事も出来るが、あいにく今夜はここしか空いていないのだという。 ん。…まあ、こんなもんかなー。調度品もそれなりに吟味されているみたいで、まずまず感じはいい部屋だ。 一応、寝室もチェックしてみる。ベッドは―――さすが、キングサイズ。 でかい。しかも、何となくロココ調でゴージャス。 これなら、大の男が二人で寝ても、窮屈な思いはしないだろう。幸い、僕も彼もスレンダーな方だし。 でもやっぱり、これは僕のミスだな。 ボストンで落ち合うと決めた時に、さっさとホテルの予約もしておくべきだったのだ。 そういうフォローをせずして、何の為の付き添いなんだか。もしもマネージャーだったら失格だ。 「すみません。ちょっと、考えが甘かったです。………もう九月だし、それほど混んでないだろうと思っていました。…そういや、まだ野球シーズンだったかもしれないんですよね。……僕、野球見ないんで考えが及ばなかったんです」 「あ、いや………私も、DNA鑑定の結果ばかりに気が行ってしまって、今日の宿のことなど失念していたんです。…私一人だったら、まだ泊まるところも見つけられずにウロウロしていたでしょう。………貴方がいてくれて、助かりました」 「そうですか? …なら、いいんですけど。………とにかく、お茶でも飲んで一息いれましょう。紅茶? コーヒーの方がいいですか?」 お茶にすることに、サクモさんは反対しなかった。 「…では、紅茶をお願いします」 「お茶の葉の好みは?」 「………ええと、今はフレーバー系を飲む気分ではないので、普通のなら………」 ああ、アップルとかローズとかはパスってことですね。普通というと、ダージリンかアッサムでいいかな。…アールグレイは結構香りがキツイし。 「了解です」 電話の受話器を取って、フロントに繋ぐ。 「…ルームサービスを。紅茶を二人分。…アッサムで。………うん、何か甘いもの…チョコレートかケーキでもつけてもらえるかな。そう………ん、じゃあお願い」 とにかくね。甘いものでも口に入れて、熱い紅茶を飲めば。 少しは気分も落ち着くだろう。 ルームサービスは、すぐに来た。 綺麗な客室係の女性は、丁寧に紅茶をいれ、小ぶりにカットしたチョコレートケーキとミンスパイを並べて、極上の微笑みで「また何なりとお申し付けください」と言って下がっていった。 「勝手に頼んでしまいましたけど。…甘いものはお嫌いではないですか?」 「ええ。…疲れた時などにはよく、甘いものを一口食べたりします。結構好きですよ。………色々と気遣いをさせて、すみません」 「とんでもない。僕は自分の好き勝手にやっているだけですので、お気になさらず」 ソファに腰をおろした彼の前に、カップを置く。…古伊万里のティカップとは、ちょっと驚いた。オーナーの趣味だろうか。 「ま、とにかくお茶でも飲んで、一休みしましょう? ずっと、気が張っていたでしょう。………貴方ご自身で自覚していらっしゃる以上にね、心身ともにお疲れのはずです。……奇遇ですね。このカップ、日本のものですよ。有名な陶磁器です」 「………日本………」 サクモさんは、丁寧な手つきでカップを取り上げた。 「私は、一度もアジア方面に行った事がないのです。………私の息子は、ずっとそのアジアの国で生きていたのですね………」 日本。 東洋の小さな島国。 ドイツやオーストリアを中心に音楽活動をしていた彼には、昔の恋人が生まれ育った国という以外、然程接点は無かったはずだ。 僕だって、自来也先生の故郷でなければ、あの国で仕事をしてみようとは思わなかっただろう。それくらい、僕らにとってはあまり馴染みが無い国だ。 いや、むしろ彼にとっては納得のいかない別れ方になってしまった恋人の祖国ということで、胸の痛みを引き起こす鬼門的な存在だったかもしれない。 でも、これからは。 彼にとってあそこは特別な国になる。 彼が唯一愛した女性の眠る―――そして、血を分けた息子の暮らす国なのだから。 お茶を飲んだ後、夕食まで少し横になっていてもいいか、と彼が言うので、僕は一人で街に出た。 少し、彼を一人にしておいてあげた方がいいと思ったのだ。 他人がずっと傍にいたら、ゆっくりとものを考える事も出来ないだろう。 僕は街の本屋が閉まってしまう前にちょっと覗いておきたかったから、ちょうど良かったとも言える。 三冊ほど本を買った後、新聞とミネラルウォーター、キャンディやガムなどのちょっとしたオヤツを仕入れてホテルに戻る。どこの国へ行っても、本屋に寄る事と飲み水を確保しておくのは既に僕の習性になっているのだ。 部屋に戻ると、彼は既に起きて、身支度を整えていた。 「お帰りなさい、ミナト。…いい本、ありましたか?」 「ええ。捜していた本を偶然見つけました。………サクモさんは? 体調がすぐれないようでしたら、夕食はここに運ばせましょうか」 「あ、いや大丈夫。…貴方の言う通り、無自覚のうちに緊張していたみたいです。鑑定結果が出て、気が緩んだんでしょうかね。少し横になっていたら、だいぶ気分も良くなりました。…レストランに行く元気くらい十分ありますよ」 ―――つまり、このホテルに着いた時は具合が悪かったってことじゃないですか! 顔色から、少しお疲れかな、とは思ったけど、疲れているのと具合が悪いってのは違うのに。 何で言わないかな、この人。………いや、言えないか。 遠慮、しているのだ。僕に。 芸術家にありがちな『わがまま気質』や強引さが無いんだよな………サクモさんって。 彼に天性の人を惹きつける吸引力が備わっていなかったら、オーケストラをまとめるのは難しかったかもしれない。 「そうですか? でも、具合が悪い時は遠慮なく言ってくださいね。我慢したらいけませんよ」 「………あ、ありがとう。………しかし何でみんな、私に同じ事を言うんでしょうかね?」 と、サクモさんは首を傾げた。 そうか。みんなに同じ事言われているのか。 「………それは、貴方を見ていると、みんな同じ事を思うからじゃないですか? ………少しは周囲に甘えて欲しいって」 「いや、私はいつも、周囲に甘えっぱなしで。……これじゃいけない、と思っているのですが」 僕は苦笑するしかなかった。 ホント、無自覚なんだ、この人。 僕に『可愛い』とか思われてちゃダメでしょ、サクモさん。 こんな母性本能刺激タイプの美形さんが、今までどうやって女性達の猛攻をかわしてこれたのか、そっちの方が不思議だ。 「貴方の自覚と、周囲の認識のズレというところでしょうねえ。………ま、あんまり気になさらない方がいいですよ。…さあ、夕食を食べに行きましょうか。ボストンといえば、やっぱり魚介類ですよね。ロブスター、お好きですか?」 ここで彼の調子が悪そうな原因が、単に『緊張が解けた』所為だけではなかったことに気づけなかったのは迂闊だった。 傍目から見れば、彼は至極普通に振舞い、食事もある程度の量はきちんと口に入れたから。 だけど、この時まだ彼の心には、大きな憂いが圧し掛かっていたのだ。
(09/12/3) |
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ホテルにチェックインして、茶を飲んだだけで1話使ってしまった…^^;; えーと、この時期のボストンのホテルに飛び込みで泊まろうっていうのは結構大変らしいです。…安いホテルだろうと、高級なホテルだろうと。 シーズンオフなら、予約ナシでも割と泊まれるって話でしたが。 バックベイのホテルは、実在の老舗ホテルを参考にさせて頂きました。 バスルームの写真が結構ステキだったです。ベッドルームも。 ん〜、ちょっと泊まってみたい………v |