Nightmare =ナイトメア=


 

 

アカデミーでの授業を終え、受付の午後シフトに入る前に咽喉を潤して一休みするのはイルカの日課のようなものだった。
自販機の前でズボンのポケットをまさぐり、硬貨を捜す。
「…あ」
覚えのある感触に指先が止まる。先日、カカシに始末を押し付けられた煙草の吸殻だった。
捨てるのを忘れてポケットに入れたままだったのだ。
(…うっかり洗濯しなくて良かった……)
イルカは苦笑いしながら吸殻を取り出す。消した時に少し潰してしまっていたが、もう一度火をつければ充分吸える長さ。
イルカは改めて銘柄を確かめた。彼自身は普段煙草を吸わないが、吸えば葉の良し悪しくらいわかる。思ったとおり、カカシの吸っていた煙草は輸入物で高価な品だった。確か専門店で、普通の煙草の三倍はしていたように記憶している。
(……はたけ上忍に悪い事をしたかな? まだ火をつけたばかりだったのに……)
「……新しいの、あげようか」
「は?」
いきなり掛けられた声に、イルカは素直に振り返った。
イルカの指に挟まれている吸殻の元の持ち主が、「はい」と口を切ったばかりの煙草の箱を差し出している。
「………いらない?」
突然現れて煙草を差し出す上忍に、イルカは驚いた様に眼を瞠ったが、ふと唇を綻ばせた。
「……ご親切に、ありがとうございます。…せっかくですから、頂きましょう」
箱から少し飛び出している一本をイルカは自然な動作で抜き取り、口に咥えた。
そして煙草の先端で指先を軽く擦り合わせる。チャクラのコントロールが巧みな者ならば、燐寸程度の発火は印を組む事無しに出来るのだ。
ポッと火のついた煙草の先を見てカカシは微笑んだ。
「器用だねえ。…オレにも火、頂戴?」
自分にも容易に出来る発火が上忍のカカシに出来ぬわけがない。従って、ここで彼女の煙草に指先を持っていくのはかえって無礼な事となる。『火をくれ』というのは普通の貰い火を指す、と判断したイルカはス、と腰をかがめてカカシが咥えた煙草の先に自分の煙草の火を近づけた。
カカシは彼の煙草から火を貰い、軽く吸って微笑みながら紫煙を朱唇からふう、と吐き出した。
「……ありがと」
「こちらこそ」
はたけ上忍は滅多に口布を下ろさない。顔を見せる事が無い、と聞いていたが、案外しょっちゅう下ろしているじゃないか、とイルカは思った。もっとも、口布をしたまま煙草は吸えないが。
イルカは当初の目的、缶コーヒーを買う為に改めて硬貨を探し出し、カカシの方を伺った。
「はたけ上忍。何がよろしいですか?」
カカシは自販機の前でこちらの答えを待っている男に悪戯っぽい笑みを投げる。
「何? ご馳走してくれるの?」
「そうですね。…煙草の御礼に」
ふふ、とカカシは笑った。
「そう? ありがとう。じゃあ、ミルクティ御願い」
「はい」
ガコン、と自販機が吐き出した缶をイルカは彼女に渡し、自分はコーヒーを買う。
「…煙草一本の御礼にこれじゃ勘定が合わなくない?」
「……金銭的な計算上はそうなりますね」
でもまあ、とイルカも微笑んだ。
「こういう場面では然程おかしくはないでしょう。綺麗な女性は得をすると昔から決まっているものですから」
「…意外と口が上手いこと」
イルカはそれこそ意外だと言う顔をした。
「俺は事実を述べただけですが。…ああ、それじゃ言い直しましょう。煙草一本。単価を計算して出てきた値段は、金銭的にはそれ以上の価値はありません。でも、それを所有していたのが貴方のような方ならば、その一本には付加価値がつくんですよ。特に、俺みたいな独身の男にとってはね。そして、今の火のやり取りやこういう会話を含めて、その缶は高いものじゃなくなるって事です」
「…わかりやすい説明をどうも。さすが先生」
「……失礼致しました」
カカシは内心首を傾げていた。取りようによっては口説かれているようにも聞こえるが、イルカの口調には照れも無く、まるで勘の悪い生徒に噛み砕いて説明する教師そのものである。
「ひとつ訊いていいかな」
「何でしょうか」
「さっき持ってた吸殻。あれって、この間のオレのだよね。何でまだ持ってたの?」
イルカは何となくポケットに戻してしまっていた煙草を取り出した。
「これですか? いや、後で始末しようと思ってポケットに突っ込んだきり忘れてまして。
今、硬貨を出そうとして気づいて……」
「なるほど。捨て損なってただけ、と」
カカシはイルカの指先から吸殻を抜き取るとポイ、とゴミ箱に放った。
「オレが吸ってた煙草には付加価値ってつかないわけ?」
「ああ、そうですねえ…さっきの論法ならそうなるんですが、あいにくあの煙草は貴方の唇に触れただけじゃない。その後俺が咥えてしかも一回吸ってしまったんですよ。自分が吸っちゃったんじゃ、ただの吸殻です」
「…あれ、吸ったの?」
「はあ…何となく」
ふうん、とカカシは曖昧に頷いた。このイルカという男、よくわからない。
カカシ自身、つかみどころが無いとよく言われるが、この男も見た目ほど単純では無い気がする。
イルカは煙草をふかしながら缶コーヒーを飲み、懐中時計で時刻を確かめるとさっさと両
方始末してカカシに軽く一礼した。
「では、俺はこれから受付業務がありますから、失礼致します」
「…あ、そう…頑張ってください……」
その場に取り残される形になったカカシは仕方なくピラ、と手を振った。中途半端な会話だったが、彼の人物像の一端はつかめたような気がする。
「はたけ上忍」
立ち去りかけたイルカが足を止めて真面目な眼でこちらを見ている。カカシの胸は何故か一瞬小さく跳ねた。
「何か?」
イルカは口を開きかけたが、思い直したのか小さく首を振った。
「いえ、何でも無いです。…では」
カカシとしては、イルカが何を言いかけたのか大いに気になるところだったが、まだ食い下がって「何が言いたいの」と訊けるほど親しくも無い。
「イルカ先生」
その声に振り返ったイルカの胸元に、何かをポンとカカシが放ってよこした。
反射的に受け取ったそれは、さっきの煙草の箱。
「口切っちゃってるけどね。あげる」
イルカは真珠のような光沢を放つミントグリーンの小さな箱を掌で転がして微笑んだ。
「ありがとうございます」
イルカは軽く会釈をして、足早に受付所に向かった。もう交代時間が迫っているのだろう。
カカシはまだ暖かい缶を両手で持ち、甘い液体を舌の上に転がして一人微笑った。
「イルカ先生、か」
やはり面白そうな男だ。




 

 

「…イルカ先生? お久しぶり」
真昼間の商店街で声を掛けられる事自体は彼にとって珍しくはない。だが、声を掛けてきた人物の意外さにイルカは軽く目を瞠る。
「…はたけ上忍…お久しぶりです」
自販機の前で彼女に煙草をもらい、お返しにミルクティを買ってあげたのは三週間ほど前
の事だ。
久しぶりと言う挨拶は微妙なところだが、相手がそう言うならば同じ様に返すのが礼儀だろう。
「…この間はどうも」
イルカは微笑って軽く会釈する。
「この間? ああ、煙草の事。…口切ったのをあげるなんて、かえって失礼だったかな」
「いえ…とんでもない」
今日はオフなのだろう。カカシが忍服を纏っているのに対し、イルカは私服だった。
無造作に項で髪を束ね、無地のシャツに洗いざらしのジーンズ姿は忍服の時とはだいぶ印象が違う。
「…あの…何か俺に御用でしょうか?」
「あ…いや、御用ってほどじゃ…あ、お買い物中だった? すみませんね、お邪魔して」
「いや、昼メシ作るのが面倒で、外で食おうと思って出てきたんですよ」
「…ご飯作ってくれる人、いないわけ? 彼女とか」
自分の言葉にカカシは少し驚いた。イルカに彼女がいようといまいと関係ないのに、何故こんな事を訊くのか。
「休日に昼飯作ってくれる彼女ですか〜…いいですねえ。いたらいいんですけどねえ、そ
ういうコが。残念ながらそこまでしてくれる彼女はいません」
ハハハ、とイルカは笑った。
「時々、同僚の女の子が弁当作ってきてめぐんでくれる事はありますけど、さすがに休日までは面倒見てくれませんからねえ」
カカシは口布の下でぴく、と微かに唇を引きつらせる。
「それは彼女じゃないわけ?」
「……違う…んじゃないかと……? 別にきちんとお付き合いしましょうと言った覚えも
ないし」
(同僚ねえ…女が気の無い男にわざわざ弁当拵えて持ってくる? その女はアンタにコナかけてんじゃないかね。「アタシは家庭的な女よ。どう? 美味しいでしょう」って…男を
胃袋から攻め落とす典型的なテじゃないか。それに気づかないんじゃ相当なニブチン? 
…う〜ん…度胸良くても勘ニブイんじゃ使えないんだけどなあ…)
カカシはもう少しイルカに接近してみる事にした。にっこり笑って提案する。
「じゃ、イルカ先生。オレとご飯食べに行かない?」
「は…? ああ、ええ…では…」
イルカが行くつもりだった店に連れて行けとカカシが言ったので、彼は仕方なく彼女をラ
ーメン屋に案内した。
「はたけ上忍。…俺、昼はラーメンで済ます気だったんですよ。本当によろしいんですか?」
「いいよ。…へえ、ここイルカ先生のご贔屓? 美味しいの?」
「……俺は好きな味ですが。貴方の舌に合うかどうかは…」
カウンター席に座りながらカカシは微笑った。
「オレ、そんな贅沢者じゃないよ? ああ、煙草がアレだから、全部高級指向だと思った? あの煙草は、舌に残らないでしょう。…味覚を鈍らせるようなモン吸えないから」
軽くて舌に残らない煙草はいかにも女性が好みそうだったが、忍としての感覚を損なわない為の配慮もあったらしい。
それより、とカカシはイルカを軽く睨んだ。
「その、はたけ上忍って呼ぶのやめてくれる? あんまりそんな風に呼ばれないから変な感じ」
「貴方がそう仰るのなら……では、何と?」
「カカシ」
「…カカシ上忍?」
「ううん。カカシ」
イルカは苦笑した。
「それはいきなり無理難題を。ご勘弁くださいよ」
「無理難題? 無理なの? じゃあ、上忍命令。今、言ってみて。『カカシ』って」
カカシはイルカの出方を観察していた。こんな、任務に関係ない職権乱用の我がままのような『命令』に対し、彼がどう出るか。
「命令ですか」
カカシの笑みに、彼女は自分をからかって遊んでいるのだと判断したイルカは、腰をかがめてその耳元でそっと低く囁く。
「……カカシ」
(―――うわあっ……!)
カカシは思わずぎゅうっと拳を握り込んで耐えた。彼の息が耳朶に触れ、その低い声で囁かれた瞬間、冗談抜きで『腰にきた』のだ。甘い痺れが腰骨の辺りから子宮に向かって走るような。
(こっここっ…この男〜〜〜っ!)
わざとだろうか。それとも、周囲を憚った結果だろうか。カカシは平静を装ってフン、と鼻を鳴らした。
「…言えるじゃない」
「そりゃ言うだけなら。でも、それは俺が嫌です。……俺は貴方を凄い人だと思っていますから。貴方を呼び捨てになんか出来ません」
「…凄い? オレが?」
イルカは目を細めた。
「…ええ。今の貴方の地位だけでも大変なものですが、幼くして頭角を現わしたという事は、それだけ多くの危険にも晒されるわけで。…貴方の経歴を聞いた時は、この人は俺とは元からの出来が違う。天才なんだと思いましたが……優秀で目立てば潰される、または自ら潰れていく可能性が高い中、貴方は長年『天才の上忍』で在り続けているでしょう。…俺などから見れば、そりゃ凄い事です」
イルカの口調はまた淡々としていたので、あまり褒められた感じがしないカカシだったが、要点は理解できたので素直に「それはどうも」と返す。
「…わかった。イルカ先生は、ご自分が中忍でオレが上忍だからってだけで堅苦しい呼び方をしたんじゃなくて、ご自分の価値基準でそう呼ぶべきだと思っているわけだ」
「ご理解が早くて助かります」
この男の物言いは、聞きようによっては皮肉や嫌味にも取れる。言い方が率直で、あまり余計な事を言わない所為だ。
三代目の人間が出来ていなければ、気に入られるどころか疎まれただろう。
「でもオレは、はたけ上忍って呼ばれるのは嫌なの。…やめてくれる?」
それはカカシの本音だった。『はたけ』と苗字を呼ばれるのが彼女はあまり好きではない。
カカシ、というのは自分の、自分だけの名だ。それで呼んで欲しいと言うのは子供染みて
いると自分でも思うのだが。
「…わかりました。では、カカシさん…で、如何ですか」
「ま、それなら……」
出てきたラーメンのスープをレンゲで口に運んで、カカシは「美味しい」とにっこり笑う。
「いいお店教えてもらったよ、イルカ先生。オレこういう味、好き」
「それは良かったです」
イルカも笑みを返し、自分のラーメンを食べ始める。
「…ねえ」
「何でしょう?」
「前の時。…別れ際にアナタ、何か言い掛けたでしょう。覚えている? ……実は、ちょっと気になってたんだ。あれ、何が言いたかったの?」
イルカは数秒黙って記憶を手繰った。
「……ああ、思い出しました。あれですか…いえ、お忘れ下さい。余計な事だと思ったから言わないでおいたのです」
「…余計? 気になるなあ…何よ、それ」
「きっと、聞けばご気分を害されます」
正しいと思えば、里長にすらずけずけと物を言う男ではなかったのか。
「…わかった。何聞いても怒らないから、言ってみて」
「………わかりました。では、言います。……女性の喫煙は程ほどに…出来ればおやめになった方がよろしいのでは、とそう申し上げようかと思って…やめました。嗜好品は個人の自由ですし、俺が口を出す問題でもないですから」
カカシは数秒固まった。
「……やめた方がいい、という理由は?」
「単に、身体に良くないからです。もしも将来お子さんをお生みになるご予定でしたら余計に」
「………そ…うね、うん……」
「でも、習慣になっている喫煙ならば、やめるとストレスになる事もありますから。……以前、やはり女性の方に何気なくやめた方がいいと言ったら、余計なお世話だと殴られましたし」
「……オレ…オレなら、殴らないけど。…イルカ先生は、オレの身体を心配してそう言ってくれてるわけだし」
イルカは微かに頷いた。
「ええ。…貴方がそんな暴力を振るう方とは思っていませんが……煙草の害など承知の上で喫煙なさっているなら、やはり余計なお世話でしょう」
やめろ、と頭ごなしに止められるのは気分が悪かろうが、こういう言われ方も寂しいものだった。自分の好きで身体に悪いものを吸っているのだから、勝手に身体でも何でも壊していろ、と言われたのも同じだ。
「……そうだね…貴方の言うとおり…かな」
イルカは少し困ったような顔をした。
「すみません。やはり、ご気分を害されましたか」
カカシは慌てて首を振る。
「いや、言ってくれて…ありがと」
何気なくカウンターの上の胡椒を取ろうとして伸ばした手が、偶然やはり同じ物を取ろうとした彼の手にぶつかる。
「…失礼。お先にどうぞ」
「……どうも…」
カカシは胡椒を少し振ると、「はい」とイルカに手渡す。
「すみません」
その時、また指先が触れ合った。
暖かでしっかりした彼の指の感触に、カカシの胸は一瞬ざわめく。それがまた自分でも意外だった。
男の手が触れた程度で羞恥を覚えるほどウブではない。
この男の声や指に反応してしまう自分が不思議だった。

 

 



 

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っしゃあ!
(ウチの)イルカカ御出会い編では恒例の、『カカシの呼び方』問答と一楽ラーメンデートでした!(笑)
ワンパターン。でも、やらないと気がすまない。(何故に)
女カカシちゃんモノではいつもやる『アレ』もやりますv