逃げ水 6

 

ふいにガチャン、と鉄製の扉が開く音がして、イルカとカカシは反射的に身を離した。
「…あ……」
「ヤベ…」
イルカの担当医、アスマだった。
アスマは瞬間驚いたような顔をしたが、すぐに引き攣った笑いを浮かべる。
「……な〜にしてんのかなあ…? センセー、こんな所までお散歩に来る許可はした覚え
はねえんだけどなァ…しかも、こんな夜中に」
「う〜わ、先生こそこんな時間に屋上まで巡回? お疲れさまです〜」
カカシも引き攣った笑顔で何とか誤魔化そうとするが、ヒゲクマ先生ことアスマ医師は誤
魔化されてくれなかった。
「俺はちょっと一服しに来たんだよ。喫煙室で吸うより気分転換になるんでなあ…」
煙草の箱を大きな手の上で軽く放り投げて受け取り、アスマは声の調子をガラリと変えた。
「…んで、てめえら何してる。こっちはな、ちゃんとリハビリ治療に計画立ててやってん
だ。勝手な事されたら計画が狂うだろう! 第一危ないだろうが、バカ者どもっ」
すみません、とイルカとカカシは首を竦めた。
「申し訳ありません。…俺が…悪いんです。カカシに…コイツに無理言ったの、俺です。
俺、何だか息苦しくて…どうしても、外の空気が吸いたくなったんです。…でも、窓を開
けると同室の方に迷惑だし……それに窓を開けるんじゃなくて、こうして外の風に中に出
たかった……すみません…我がまま…言って…」
謝るイルカに、はあ、とアスマはため息をついた。
「まー、気持ちはわからんでもないけどなあ。今まで入院なんかした事ないって言ってた
しな。病室もベッドも窮屈だろう。…ストレスは身体に良くない。治癒にも影響する。…
だからな、今度我慢出来なくなったら、この細っこい兄ちゃんじゃなくて、俺に言え。何
とかしてやる」
「…はい…すいません…」
「おら、帰るぞ」
ひたすら恐縮するイルカの側にズカズカと歩み寄ったアスマは、器用にイルカの身体の無
事な部分に手を掛けて、あっさりと抱き上げてしまった。
「まだお前さんは歩行まで治療が進んでないんだ。…勝手に動こうとすんじゃねえよ。ホ
レ、えーとカカシっつったか。扉開けろ」
「…う…はい…」
カカシは言われた通りに扉を開け、イルカを抱えたアスマが通れるように手で押さえた。
軽々とイルカを抱き上げたアスマに、そこはかとない羨望と嫉妬を覚える。
イルカが屋上に行きたいと言った時、彼を抱き上げて連れていく事など思いつきもしなか
った。
また、思いついても自分には不可能な作業だとカカシは判断しただろう。
イルカとカカシの身長は然程変わらないが、武道で鍛えたイルカは筋肉質で見た目よりも
重い。少しの距離なら運べても階段を上がるのは無理だ。
「…あせるなよ」
アスマがぼそりと呟く。
「早く治したいんならな。あせるな。……話は聞いている。お前、暴走車から庇った子供
の心の負担を早く取り除いてやりたいんだろう。早く退院して、その子が心から笑えるよ
うにしてやりたいって思ってんだろう。……なら、今はじっと我慢だ」
イルカはアスマの腕の中で身を竦め、小さく頷いた。
「…はい。…そうです…ね。仰る通りです…」
「ま、しばらくいい子にしてな」
「…はい…」
そのやり取りを聞きながら、カカシはそっと重い息を吐いた。
イルカはカカシに気を遣い、ナルトを案じ。
どうして自分にはイルカの心の負担ひとつ軽くしてやる事が出来ないのだろう。
イルカの為なら何でもしてやりたいと―――今は殊更強く思うのに。
顔を上げると、アスマの肩越しにイルカと目が合う。
イルカは「ごめん」と目でカカシに謝ってきた。
カカシはただ首を振り、微笑んで見せることしか出来ない。
―――自分にいったい、何が出来るのだろう。
カカシはそっと唇を噛んだ。


 

「…あれ…あいつ………」
カカシは駅前の歩道で足を止めた。
イルカの事故現場は綺麗に修復されていて、もう事故の片鱗も見当たらない。
だが、その事故現場に、小さな人影がぽつねんと立っていた。
「…ナルト……」
静かに俯いている顔は、どこか辛そうに見える。
カカシは、過日のアスマとイルカのやり取りを思い出した。
イルカの見舞いに足繁く通ううち、あの子供がどんどんイルカ自身を好きになっていって
いるのはカカシにも分かる事で。
そんなあの子には、自分の為に大怪我を負っているイルカの辛さが自分の事のように辛い
のだろう。
信号が変わるのを待ち、カカシはナルトのいる歩道に渡る。
「…ナルト」
子供はぱっと振り返り、カカシの姿を見ると嬉しそうに笑った。
「カカシ兄ちゃん!」
「なーにしてんだ? 学校もう終わりかよ。早いな」
ナルトはんーん、と首を振る。
「今日、お休みだもん。ソーリツキネンビだってばよ」
「…ホントかあ?」
「嘘じゃねえって。オレ、ガッコはサボんねえもん。…勉強はスキじゃないけどさ」
ナルトは少し寂しそうに笑う。
「…んじゃ、今日はこれから遊びに行くのか?」
「んー、ホントはイルカ兄ちゃんとこ行きたいんだけど〜、面会時間って、午後だし。ど
うしようかなって思ってたんだ」
イルカなら、こんな時どうするだろう。
カカシは少し考え、ナルトの頭に手を置いた。
「んじゃ、ヒマならオレにつきあえよ。昼メシ、おごってやる」
ナルトは「やったーっ!」と両手を挙げた。
「カカシにーちゃん男前―っ! オレオレ、ラーメン食いたいっ!」
ラーメンでいいのか、安上がりなヤツだ、と思いながら、カカシはどこかホッとしていた。
イルカだったら、ナルトにこう言ってやるかもしれない、と思いながら口にした言葉は、
どうやら間違っていなかったようだ。
「ラーメンかー? ま、いいけどさ。ファミレスでハンバーグとかでもいいんだぜ?」
「あー、それもイイけどー、ハンバーグはさ、夕食に出るんだ。時々だけど。ラーメンっ
て、なかなか食えないんだもん」
「…そういうもん?」
ウン、とナルトは頷き、何でもない事のように続けた。
「木ノ葉園は人数いるからさー、ラーメンじゃ作っているうちノビちゃうんじゃねえ?」
木ノ葉園は、身寄りの無い子供や家庭環境に問題がある子供を保護養育する施設である。
「…………そっか」
孤児、だったのか。
考えてみれば、ナルトがあれだけ見舞いに通ってくるのに、親がまるで顔を出さないのは
妙な話だった。
イルカはおそらく知っているのだろう。
だから、自分が怪我をすれば良かったのに、とそんな風に言う子供の気持ちが余計に痛々
しくて、イルカは早くこの子をそんな負い目から解放してやりたいと願ったのだ―――
そしてカカシは、この子がいつもうるさいくらいはしゃいで見せるのも、寂しさの裏返し
なのだと気づいてしまった。
それは、親を早くに亡くして、親戚の家で育てられたカカシにも覚えがある感情だ。
「…オレもラーメン久し振りだなァ。んーと、この時間なら大丈夫かな? 近くに美味く
て、いっつも行列出来る店があるんだぜ」
ナルトの目はキラキラ輝く。
「ソレ知ってるってばよ! 一楽だろー? 前にテレビで見たんだーっ! やったァ!」
本当に嬉しそうな子供の様子に、カカシは自分まで嬉しくなった。
「よっしゃ! んじゃ行くぞ」
「おーっ!」

カカシが思った通り、昼休みには少し早いラーメン屋はまだそれほど混んではいなかった。
「カカシ兄ちゃん、チャーシューメン頼んでいい?」
おずおずと見上げるナルトに、カカシは笑って頷いてやる。
「いいよ。オレ、バイト代入ったところだから。おじさーん、チャーシューメン大盛りふ
たつー」
「あいよっ」
大盛り、という単語にナルトはまた「いいの?」と言うようにカカシを見上げてくる。
その様子はまるで、仔犬のようで可愛い。
「大盛り、食えない?」
ナルトは思いっきり首を振った。
「んーんっ! 食えるっ! も、ばっちし食う!」
「そ? んじゃ遠慮しないで食いなさい」
「うんっ」
これまた思いっきり頷いたナルトは、照れ臭そうにエヘヘ、と笑った。
「……なんか、イルカ兄ちゃんもカカシ兄ちゃんも優しいってば……兄ちゃん達が、ホン
トの兄ちゃんならいいのにな…」
「そっかあ? ……オレはそーでもねえけど、マジ弟だったらきっとイルカはうるせえぞ。
やれ勉強しろ、ゲームは一日一時間だ、行儀が悪い、部屋を片づけろ、夜更かしするな、
歯ァ磨けってな」
ナルトはまだ背が低いので椅子に座ると足が床につかない。
その足をぷらぷらさせながらナルトは口を曲げて眉間にシワを寄せた。
「……………それって…あんまり嬉しくないってば……」
ははは、とカカシは笑った。
ドン、とカウンター越しに、大きなラーメンどんぶりが置かれる。
「はいよー、チャーシューメン大盛りお待たせっ!」
「おお、うまそー。ナルト、胡椒取って」
「あ、うん」
いただきます、と二人して手をあわせ、顔を見合わせて笑う。
ナルトは幸せそうな顔でラーメンを食べ始めた。
もう世の中で一番美味しい物を食べている、といった顔である。
「お前、ホントーに好きなんだなァ、ラーメン。…ま、時々だったらラーメンくらい食わ
せてやるよ。バイト代入った後ならな。…そうだ、イルカが退院したら、また来ようか。
退院祝いだ。お前も一緒にお祝いしてくれよ。な?」
ナルトは大きな目を見開いてカカシを見つめ、それから小さく「うん」と頷いた。
メンマを口に入れ、しばらくなにやら神妙な顔つきでそれを咀嚼していたが、何を考えて
いるのかナルトは黙って百面相を始めた。
何かを思いついたらしく嬉しそうな顔になったかと思えば、首を振って口をへの字に曲げ
る。そして眉間にシワを寄せ、考え込んではまた笑い、を繰り返す。
その間もラーメンだけはしっかり食べているのをカカシは感心して眺めていた。
が、あまりにもナルトが延々それを繰り返しているので声を掛けてみる。
「…どうしたんだ? ナルト」
ナルトはハッと我に返り、照れ臭そうにエヘヘェ、と笑う。
「な、何でもないってばよ。…ちっとさ、考え事」
「へええ?」
からかうようなカカシの声に気づかなかったかのようにナルトは続ける。
「…カカシ兄ちゃんはいいよなあ……バイトして、自分のお金、稼げるんだもん。オレ、
自分のお金なんてあんまし持ってないもんなー。小学生にも出来るバイトってねえかなあ
って、さっきから考えてたんだー…」
コクリと水を飲むナルトは、意外にも真面目な顔をしていた。
「……お前、金が欲しいの?」
うん、とナルトは頷く。
「欲しいよ。…オレ、イルカ兄ちゃんとこ行くのに、見舞いも買えねえンだもん。…せい
ぜい、取っても怒られないトコで雑草みたいな花摘むくらいしか出来ねえの。…イルカ兄
ちゃんはさ、そんなん気にすんなって…言うけどさ……」
カカシはうーん、と唸った。
施設で生活した事は無かったからナルトの生活環境は想像するしか出来ないが、金銭的な
自由はあまり無いのだろうな、という事は察せられる。
今この子に『金で買える物ばかりが気持ちの表現方法ではない』、というありきたりな事を
言っても慰めにはならないのだという事も。
「まぁイルカならそう言うだろーね。実際、お前が顔出すだけでアイツにとってはきっち
り見舞いになってんだから。……でも、お前の気持ちもわかるよ、オレ」
ホント? とナルトは見上げてくる。
「うん。……だってお前は、イルカに何か、持って行きたいんだろ? 喜んで欲しいんだ
ろ? 手ぶらで行くの、何だか情けないんだよな。……オレがお前でもそう考える」
ナルトはカカシの袖をぎゅうう、とつかんだ。
「………カカシにーちゃん…」
カカシは少し考え、ナルトの頭に手を置いた。
「…んじゃ、ナルト。…お前、バイトしてみるか…?」
ナルトの大きな目が更に見開かれる。
「マジ? オレに出来る?」
カカシは目を細めて微笑んでみせた。
「イルカの退院祝い、買えるくらいでいいだろ?」
ナルトは勢い込んで頷いた。
「んじゃ、キマリ。……雇い主はオレね」
「んにゃ?」
首を傾げるナルトの頭を、カカシはぼふぼふと軽く撫でてやる。
「オレのお手伝いがお前の仕事。バイトじゃまずいから、お手伝いの駄賃って形な。仕事
によって、お駄賃もアップすっから、気張れよ」
ナルトは無言でカカシの腰に抱きついた。

        

 



 

ナルトといえばラーメン。ラーメンといえば一楽。
本当ならこの第6話でイルカが退院して、終わるはずでした。
でもそれではちょっとバタバタし過ぎてマズイってのと、わざわざナルト達を出した意味がなくなってしまうのとでもう少し続ける事に。

着地点は1話の時から決めてあるのになかなか到達しない。
まさに書き手にとって逃げ水みたいな話・・・TT(恥)

 

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