逃げ水 1
「あら、カカシちゃんだ。久し振りねえ。背ぇ伸びたわねー…」 イルカの病室の扉を開けたカカシの目に、華やかな若い女性の姿が飛び込んできた。 「あー…あ! 紅姉ちゃんかあ! うん、久し振りー。来てたんだあ」 「何? アタシ、綺麗になっちゃったから見違えたんでしょー」 「うん。化粧濃くなっちゃってて、わかんなかった」 イルカの年上の従姉妹、紅は途端に不機嫌な顔になって、ベッドのイルカを振り返った。 「…イルカ。あんた、カカシちゃんの躾悪いわよ」 病室の扉が開くなり始まった従姉妹と同居人の軽口を微笑って聞いていたイルカは、いきなり 自分に矛先を向けられて渋い表情になった。 「何で俺がカカシの躾しなきゃいけないんだよ、姉ちゃん」 「あんた、カカシちゃんの保護者でしょ?」 「あのう……いつの間にそういう事になったんでしょうか…紅お姉さま…」 「ふうん、イルカはオレの保護者だったのかー」 カカシはのんびりと笑って、ベッドに寝ているイルカの顔を覗き込んだ。 「具合、どう?」 イルカは先日、酔っ払い運転で歩道に突っ込んで来た軽トラックから子供を庇い、大怪我をした のだ。 医者は全治三ヶ月、と診断したが、もちろんそれは『三ヶ月もしたらすっかり治りますよ』という 意味ではない。 リハビリやら何やら考えれば、完治までは結構な長丁場になるだろう。 「う〜ん、平気って言いたい所だけど正直言って、あんまり良好じゃないなあ…怪我したとこも 痛いけど、何だかあっちこっち支障が出るんだ。思う通りに動けないのが一番しんどいなあ。 ……人間、健康が一番だって、身にしみるよ」 紅は眉を顰めた。 「…慰謝料、うんと貰わなくちゃね」 「姉ちゃんはイルカの代わりに示談交渉する為に来たの?」 「ふん。イルカをこんな目に合わせた奴なんか、刑務所でも何でも入ればいいのよ。…ってアタ シは思うけど。イルカを轢いた奴の雇い主がね、保険会社を通して連絡してきたのよね。…伯 父さんは婆ちゃんがまだ退院してないから動けないからさ、アタシがわざわざ出向いて来たっ てわけ。ま、任せなさいって。死ななかったからいいじゃないか、なんてぬけぬけとぬかすよう な奴には相応のおしおきが必要よね。アタシの交通費や宿泊代も上乗せして取れるだけ搾り 取るわよー!」 紅は腰に手を当てて、豊かな胸を反らす。 「頼もしーい…頑張ってね、姉ちゃん。オレの血の分も取って来てねー」 カカシは胸の前で小さくパチパチと手を叩いた。 「あ、あんた輸血したんだったわよね。ご褒美はヤクルトがいい? りんごジュース?」 「…街角献血じゃねえんだから…」 紅はフフ、と笑う。 「…真面目な話ね。ありがとうね、カカシちゃん…伯父さんも改めてカカシちゃんには御礼がし たいって言ってたわ」 カカシは首を振った。 「オレ、いつもイルカには世話になってるもん。…少しでも返せたんなら嬉しいから…お礼なん ていいんだよ」 「んま、殊勝。…可愛いわねえ」 紅は大して歳の違わない男の頭をくりくりと撫でる。 「お前、世話になってるなんて思ってたのかー…自覚無いのかと思ってた」 イルカは照れくさそうに混ぜっ返す。 「ちゃんと、十年前から思ってるよ」 思いのほか、真面目な声色の返事がカカシから返って来た。 「……じゃ、ここはカカシちゃんに任せていいかしら? イルカの世話、頼むわね。イルカもカカ シちゃんの方がいいでしょうから。…アタシは色々と手続きとかやる事あるから」 「うん。そういうのは姉ちゃんに任せちゃうから、よろしくね。オレも頑張ってイルカの面倒見ちゃ う」 「おいおい…お前が頑張ると何となく怖いぞ…。姉ちゃん、わざわざ来てもらって、ごめんな。… 面倒かけるけど、よろしく」 「ふふん。ま、治ったらフランス料理かイタリア料理のフルコースでも奢ってもらうつもりだから 気にしないでいいのよ。持ち前のタフさで早く治しなさいね」 ひらひらと手を振って、紅は病室から出て行った。 紅が遠ざかると、イルカは同室の患者に顔を向けて謝った。 「すいません、うるさくして」 昨日まで個室にいたイルカは今日から大部屋に移った。 四人部屋で、現在三人の怪我人がいる。もちろん全員が男性である。 最年長の、足を吊った五十代の男はいやいや、と手を振った。 「いやあ、若い娘さんがいると華やかでいいよ。ウチなんか、看病に来るのは婆さんだけで。見 舞いもむさくるしいおっさんばっかりだしな。兄ちゃんはいいねえ。綺麗な従姉妹さんに、可愛い 弟さんが来てくれて」 「婆さん、だなんて。奥さん、お綺麗な方じゃないですか」 イルカはにっこり笑って社交辞令なのか本気なのかわからない返事をする。 「ちょっと待ってよ。その、弟って…」 カカシは男の言葉に引っ掛かりを感じて、問い質した。 「あんた、弟さんじゃないのかい?」 ぶは、とイルカが噴出す。 「おじさん、コイツ、俺と同い年ですよ。幼馴染みで、大学も同じとこだから同居しているんです」 「イルカが老けてんだよ。まだ二十歳のクセに、落ち着いちゃって」 「お前よりはな」 もう一人の入院患者、腕の骨折をしている中学生くらいの少年は会話を聞いていたらしく、笑い 出した。 「…あはは、お兄さん達、おかしー…えー、でも、二十歳なんですかー? イルカさん。…そっち のお兄さんは高校生かと思った」 カカシは振り返って、少年を軽く睨んだ。 「お兄さんも大学生だよー、中坊。…まだ、十九だけど」 少年は笑いを引っ込めて、おずおずとカカシを見上げた。 「え…え、それじゃあ…あのう、いきなりで申し訳ないんですけどー…大学生ならちょっと数学、 教えてもらえませんか? 担任、入院中の怪我人に宿題なんか出してくれて。もー、熱血教師 で」 「そりゃ良かったな、親切な担任で。でもオレ、カテキョーはバイトだから金取るよん」 「うわ、…ケチ」 カカシは笑った。 「ま、ちょっとだけなら見てやってもいいよ。イルカがどんな形で世話になるかわからないもんな」 片腕をギブスで固めている少年は、もう片方の腕は自由だし、歩行には支障が無い。 今は歩けないイルカの為に何かお使いをしてもらう事もあるかもしれないのだ。 「ホントですか? やーった!」 イルカは苦笑しながら、カカシと少年の会話を聞いていた。 「リー君、こいつ、こう見えて結構頭はいいから成績はいいんだけど、直感タイプなんで他人に 教えるのはヘタクソだぞ。…だから家庭教師のバイト、続かなかったんだ」 カカシはぷっとふくれた。 「ふん、だって、見りゃわかるだろって事をいちいち説明しなきゃいけないんだぜ? こいつバ カじゃねえ? って、つい思っちゃうんだよなー」 見てわかるくらいなら、誰もわざわざ金を払って家庭教師など雇わないのだが。 「…はあ、そりゃあ家庭教師には向いていませんねえ…お兄さん」 「……そうはっきり言われっと、腹立つなあ。どら、見せろ。宿題っ」 カカシはずかずかとリー少年のベッドに歩み寄る。 リーは引き攣った顔でサイドテーブルの抽斗からノートを取り出した。 カカシの形相が少し怖かったらしい。 イルカは肩を竦める仕草をして、年配の男性に笑いかけた。 「ああいうのと同居しているから、俺、老けちゃうんですよね」 「いやあ、元気良くていいよ。俺んちはとうとう、子供が出来なかったからなあ…普通なら、あ っちの坊やとか、兄ちゃん達くらいの息子がいてもおかしくなかったんだ…」 中年の男は、寂しそうに笑った。 「……あ、今の話、ウチのかみさんには言わんでくれな。…子供が産めなかった嫁だって、お 袋にずっと苛められてきたんだ……原因は俺の方かもしれないのに…」 男が若い頃は、今ほど不妊治療が進んでいなかっただろう。それに治療には結構金銭的負担 がかかるから、余裕がなければ積極的に病院に行こうとはしなかったはずだ。 「…そうだったんですか…でも、子供を作る為に夫婦になったわけではないでしょう? …俺み たいな若輩者が生意気ですけど…おじさん達はとてもいいご夫婦に見えます」 「兄ちゃんは、いい子だな。……うん、俺はこれでいいと思っているんだよ。どうしても寂しかった ら、養子って手もあるし」 「…そうですね…」 そこへ、また賑やかな見舞い客が来襲した。 「こんちはー! イルカ兄ちゃん、元気してるー?」 入院患者に向かって、『元気してる?』はないだろうが、イルカは笑って飛び込んできた見舞い 客を迎えた。 「何とかな。…あのな、この部屋は他の人もいるんだから、静かにしなきゃダメだぞ、ナルト君」 ごめーん、と舌を出して、イルカが入院してから毎日のように見舞いに来ている少年はバツが 悪そうに笑った。 イルカがトラックから庇わなければ、今頃は入院しているか天国に行っていたはずの少年だ。 『イルカ兄ちゃんは命の恩人』と言って、学校が終わると毎日顔を見に来る。 「ナルト! あんた病院の廊下走ったらダメでしょー! そのうち出入り禁止くらうわよ」 ナルトより遅れて、同い年くらいの少女が戸口に現れた。 「ゴメンゴメン、サクラちゃん」 その声に反応したのは、イルカではなくてカカシの方だった。 「…サクラちゃん?」 少女も「え?」とカカシの方を振り返る。 「あー、カカシ先生だあ。何でこんな所にいるのお?」
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久し振りの『大学生編』です。 リー君登場。(熱血教師はもちろんあの御方) 普通のイルカカ書いている時よりナルトとか サクラとか出てきてしまいそうな。^^; 紅さんはイルカの従姉妹役。 アスマももちろん登場致します。 |