姫と呼ばないで
5
アスマとの賭けから一年。 今日は期限の日だった。 アスマは半信半疑といった面持ちで、カカシが指定した池のほとりにやって来た。 カカシとアスマの賭けの話を聞きかじったツナデも、興味津々といった顔で見物に来ている。 「お前らも冷たいねえ。こんな面白そうな賭け事なら、私にも一枚かませてくれてもいいだろうに」 賭け事好きな長の一言に、アスマは片眉を上げた。 「…ツナデ様なら、どちらに賭けました? 一年前のあの時点で」 ツナデはチラリとアスマを見上げて微笑んだ。 「………今から賭けても有効なら教えてやるよ」 アスマは肩を竦める。 「やめておきます」 ツナデは笑いながら指先で顎を撫でた。 「それにしても、カカシの奴も大きく出たものだ。外で生まれ育った侍に、一年で忍術を覚えさせる、か」 「手裏剣術やら縄抜けやら、塾でやる初歩の技も叩き込んだとか。…あの侍、ソッチのスジはいいみたいですよ、ツナデ様。もっとも、今まで剣術の修行はしてきたんだから、その延長だと考えれば出来ても不思議じゃないですが」 「………それでいて、カカシはあのお侍を忍者にしてしまう気はないみたいだな」 ツナデは、少し離れたところで印のおさらいをやっているらしいイルカとカカシを見遣った。 イルカは、一年前にここへ来た時と同じ格好をしている。着物に袴、腰には一目で『侍』と知れる大小の刀。 里の忍に準じた服装ではない。 「準備はいいですか?」 カカシの問いかけに、イルカは静かに頷いた。 イルカをその場に残し、カカシもアスマ達の立っている場所まで下がった。 「………何を見せてくれるんだ?」 「見てりゃわかるって」 カカシはスッと手を挙げた。 「始めてください」 「はい」 イルカは胸の前で印を組んだ。チャクラを練り慣れていない駆け出しの忍者が組む印だったが、それを見たツナデは「ほう」と声を漏らす。 「………なかなかサマになっているじゃないか」 イルカはそのまま、後ろに下がった。 足が、池の水面に触れる。 が、その足は池に沈まなかった。 この池が浅くない事くらい、アスマもツナデも知っている。池の底は緩い泥状で、人が立てるような杭を打ち込むことは出来ない。また、そのような子供騙しがアスマに通じない事くらい、カカシも承知しているだろう。なら、あれは――― アスマはボソリと呟いた。 「………水面歩行の術……か」 術としては初歩の部類だが、水面歩行はチャクラの制御が出来ていなくては不可能な技だ。 イルカが自力でチャクラを練り、水面に立っているのだとしたら、もうこの時点で賭けはカカシの勝ちも同然である。 「アスマ」 カカシはアスマに手裏剣を渡した。 「彼に向かって、投げて」 「………いいのかよ」 そう言いざま、アスマは手首を捻って手裏剣を放つ。 と、その手裏剣はイルカに到達する寸前、突然にせりあがった水の壁によって遮られた。 「………嘘だろ………水陣壁じゃねえか………」 呆然と呟くアスマの背をポンと叩き、カカシはツナデに微笑みかけた。 「ツナデ様が証人ですね。…オレは何もしなかった。あれは、彼の術です」 ツナデは腕を組み、大きく頷く。 「ああ。…お前のチャクラは動かなかった。私が確かに見届けたよ。……彼は、一年で水遁の術を身につけた。………指導したのが上忍のお前だったとはいえ、大したものだ」 「彼、水と相性がいいらしくて。水遁が一番上達早かったんですよね」 カカシはイルカに向かって合図した。 「お疲れ様。もう、いいですよ」 イルカは慎重な足取りで、池の淵まで戻ってきた。地面に足をつけると、大きく息をつく。 「…はあ……やはり水に立つのは…つ、疲れますね………これ、初歩なのでしょう? まだまだですね、俺……」 ツナデはイルカに歩み寄り、肩を軽く叩く。 「水面歩行は初歩だが、塾のガキには出来ん技だ。…足の裏ってのは、チャクラを集めにくいんだよ。しかも、水は安定が悪い。壁歩きよりも高度な制御が求められる。それに、水陣壁の反射速度は中忍並だった。……よく、習得した。褒めてやるよ、海野様。…大した根性だ。私は、根性のある強い男が好きさ。………お前様さえその気なら、木ノ葉の者として登録しよう。どうする?」 イルカは慎重な言葉を返した。 「………私はまだ、忍と呼べるほどの技は身につけておりません。…また、自分でも自分が忍にはなりきれないと承知しております。………それでもよろしいのでしょうか?」 「ああ。私も、お前様を忍者として使う気は無いよ。…お侍として生まれ育った男が、簡単に忍になれるとは思えん。……だが、この里の者として充分なチャクラをお前様は得た。自分自身の努力でだ。…だから、この里に住まう権利を与えようと言うんだよ。そうなりゃ、お前様はもうお客じゃない。―――どうだ?」 イルカはカカシを振り返り、そこに浮かんでいる表情を目に収めてから頷いた。 「………ありがたく、お受けいたします。…私を、この里の一員にお加えください」 「よし」 ツナデは目を細めて微笑した。 「明日、私のところに来な。必要な手続きをしよう。………じゃあ私は帰る。面白いものを見せてもらった」 そしてカカシの横を通り過ぎざま、一言小声で囁いた。 「でかした」 カカシは無言で僅かに肩を竦めてみせる。里長は嫣然と微笑んだまま、歩み去って行った。 ツナデが帰ったところで、カカシは「さて」とアスマに笑いかけた。 アスマはお手上げのポーズで、ため息をついて見せた。 「あー、はいはい。俺の負けだってんだろ? まさか水遁水陣壁を見せられるとは思っていなかったよ。お前の勝ちだ」 「…オレ、というよりやっぱ、イルカの勝ちだね。…ツナデ様じゃないけど、マジ根性あるよ、この人。………一年で水陣壁なんて、オレも想像していなかった」 イルカは赤くなって俯いた。 「…カカシ…上忍のご指導が良かったからです………」 「で?」とアスマは唸った。 「俺に何を要求するんだ? カカシ」 「じゃあねえ、まずは一つ目」 「おいっ! 普通一つだろ!」 「一つだけ、なーんて賭けの時言わなかったでしょー?」 カカシはニコニコと笑いながらアスマの肩に手をかけ、イルカに聞こえない場所まで彼を引きずっていってから口を開いた。 「…先ず一つ目。…これから先、何があっても、お前はイルカの味方になること。…それから二つ目。オレが傍にいられない時は、オレの代わりにあの人を護ること」 「………お前………」 「………承知した、と言って」 アスマはカカシの眼を見て、ハッキリと頷いた。 「…ああ。………承知、した」 「ありがと。……じゃ、三つ目。………イルカが我が木ノ葉の一員になったお祝いに、宴席でも設けておごってよ。それから、一つ目と二つ目は彼には内緒。………いいな?」 アスマはすぅ、と息を吸って、大きな声で答えた。 「あーもー、しょーがねえ。負けは負けだ! どんな高級な料亭でもおごってやる! …ったく、人の足元見やがってこの野郎!」 カカシはイルカを振り返って、ヘラリと笑った。 「交渉成立で〜す。今夜のゴハンはアスマのおごりで木ノ葉一の高級料亭ですよ〜。……ありがたく思えよ〜、アスマ。イルカがさ、勝ってもアスマの尊厳を傷つけるような要求だけはするなって言ってくれたからさ、この程度で済んだんだから」 「………尊厳を傷つけるって………お前………」 カカシはアスマの鼻先で指を振る。 「素っ裸で逆立ちして里内一周とか、イロイロあるじゃない? ………ま、武士の情けって言うの? 赤っ恥かかせるような事だけはさせちゃダメってね、彼が言うのよ。感謝なさ〜い」 アスマはげんなりとした顔で煙草をくわえた。 「……そりゃどーも。…お優しいコトで」 イルカはアスマのすぐ前まで来て、頭を下げた。 「アスマ上忍。………このような賭けにお付き合いくださいまして、ありがとうございました。…ただ単に一年で忍術を覚えろと言われても、出来なかったかもしれません。期限と、それに伴う賭けの存在がなければ、ここまで必死になったかどうか。………感謝致します」 アスマは紫煙を吐きながら、皮肉げな笑みを浮かべる。 「顔を上げてくれ。俺はカカシと賭けをしたんだ。……負けても、アンタ自身に何かあるわけじゃねえ。それでもか?」 イルカは首を振る。 「…だからこそ、です。負けても俺が払いきれるものならいい。………俺が不甲斐無いばかりに、この方に負担を強いるのは………耐えられないから」 なるほどね、とアスマは鼻を鳴らした。 「………俺はどうやら、いっぱいくわされたな」 「何のことさ」 白々しい笑みを浮かべているカカシの額を指先で小突いて、アスマは踵を返した。 「この性悪猫。……いや、悪知恵狐か? …ったく、俺の方がおごって欲しいくらいだぜ」 「まー、そのうちにね」 「じゃあ、今夜六時に『九海山』な。あそこなら文句はあるまい?」 カカシは口布の下でヒュッと口笛を吹いた。 「ないない。あるワケない。アスマさんったら太っ腹。男前!」 「………ぬかせ、阿呆。……じゃあな、海野様。………いや、もうイルカ、でいいのかな?」 イルカは微笑んだ。 「そうですね。…もう、俺は客じゃないのですから。………アスマ上忍」 「俺も別に呼び捨てで構わんぜ。………じゃ、また後でな」 「はい」 アスマを見送ったカカシとイルカは、「はあ」と同時に大きく息を吐く。 「…………成功して良かった………」 「やー、ギリギリ間に合いましたねえ………一時はどうなる事かと」 「………十日前ですからね、水面に立てるようになったのは」 ふふ、とカカシは笑った。 「水面に立つだけでも、忍術と言えますから、それで良かったんですが………どうせなら、あのクマ驚かせてやりたくて。……無理言ってすみませんでしたね」 イルカは首を振る。 「いいえ。俺、感激しているんです。………努力次第で、俺でもまだ身につけられるものがある。学ぶべきものがたくさんあるのだと―――貴方は教えてくださいました。賭けは終わりましたが、俺はもっと精進したい。………貴方さえよろしければ、これからもご教授願えませんか」 カカシは小首を傾げた。 「………忍者になりたいんですか?」 「忍の技も使える侍を目指してはいけませんか?」 イルカは、自分を侍だと思っていた。侍であることに誇りを持っていたし、また自分は侍以外の者にはなれないと、わかっていたのだ。 「いいえ。…いいと思いますよ。忍術もこなせる侍なんて、そういないですからね。わーかりました。元々、貴方に忍術覚えろって言ったのオレですし。出来る限り、協力しますよ」 「ありがとうございます」 真面目な顔で礼を言う侍に、カカシは流し目を送った。 「………もう、チャクラの練り方は教えなくてもいいんですか?」 イルカの顔が、見る見るうちに真っ赤になった。首筋まで赤い。 「あああ、あの………ハイ。お、おかげさまで………何とか………や、やり方がわかるようになりましたから……っ…」 「あーん、そう? ざーんねん。あれ、慣れてきたら結構楽しい術だったのになあ。…ね、アナタはどう? 苦しいだけだった?」 瞬時に、自分の身体の上で身を捩る白い裸体が脳裏に浮かび、イルカはくるりと後ろを向いてしまった。 とてもではないが、カカシと向かい合ってなどいられない。 「………苦しいだけ…とは申しません。………貴方と肌を合わせることに、俺は喜びを感じておりました。………ですが、あれはもう………貴方にご負担を強いているのが俺にもわかるのです。……姫にあんな真似をさせて―――」 カカシは険しい顔でイルカの肩をつかんだ。 「いい加減にしろ」 「………え…………」 突然、不機嫌になったカカシの声に、イルカは戸惑う。 「アンタ、いつまでオレの家来でいる気だ。………オレは姫じゃないと、何度言わせる。いいか、二度とオレを姫と呼ぶな。………オレは………アンタに仕えて欲しいわけじゃないんだ!」 一気にそう吐き捨てると、カカシはイルカに背を向けた。 イルカは狼狽した顔で、カカシの背中を見つめる。 「………申し訳………ありません………」 「謝るな!」 「………しかし………」 カカシは背を向けたまま、小さく呟いて姿を消してしまった。 イルカの耳に届いた呟きは。 『―――アナタは何もわかっていない』
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