姫と呼ばないで
3
イルカが、並みの侍以上に己の精神力を鍛えているということ。 そして、『門番』カノエの声を聞いたという事実。 カカシにとっては、それで充分だった。可能性はある。 確率的に、六割。それでも、『外』で生まれ育ち、既に成人している人間がチャクラを扱えるようになる確率としては高い数字だ。 カカシはまず、チャクラの概念から教え始めた。 始めはなかなか理解が出来ないでいたイルカだったが、カカシが何度も根気よく教え、実際に術を発動させて見せたりしているうちに、その概念と仕組みを理論上は呑み込んだ。 「体内に宿る力と、精神の力を引き出し、練り合わせて術を行使する力、チャクラに変換するということはわかりました。………ですが、そのやり方がわかりません。一心に念じればよろしいのでしょうか?」 首を傾げるイルカに、カカシも首を傾げる。 「そっかー………そうですねえ、そのチャクラを練る作業ってのは、オレ達忍になって長い者にはもう、息をするように無意識に出来る類のものだから………口では説明しにくいねえ。………体で覚えるって言っても、まずキッカケがなきゃいけませんよね」 「貴方は幾つくらいから出来るようになったのですか?」 「………さて、オレはいつから術を扱えるようになったやら。………実のところ、物心つく頃には出来てたから………オレ、忍になったの凄く早かったんです。ませてたんですね。数えで七つの頃には、中忍として任務にあたっていました」 忍の里の制度、仕組みについてはもう頭に入っていたイルカは、驚愕に眼を見開く。 「………無茶な…………こ、子供にそんな……いくら貴方が優秀でも………」 「覚えていますか。…十数年前、大きな戦があちこちであったでしょう? 木ノ葉は、御上に命じられるままに、どこの戦場にも駆り出されました。単に、人手不足だったんですよ。………ガキでも数のうちってヤツです」 イルカは暗澹たる思いで頷いた。 イルカが生まれる前から、いつも国の何処かしらで戦があった。一つの戦が終わっても、また別の場所で戦火があがる。それは彼がかなり成長するまで続いたのだ。 「………覚えています。俺も、いつかは戦に出るものだと思い込んで、必死に剣の稽古をしていましたから。今から思えば、単なる児戯でしかなかったけど。………でも貴方は、そんな幼い頃から戦に出ていたのですね……」 カカシは軽く笑ってみせた。 「それは、身分の差ってものでしょ。人には役割ってもんがある。………戦で稼ぐ忍の科白じゃないですが、戦は人の行為の中でも愚かな部類に入る。そんな場所、元服もしていない侍の子は来なくてもいい。戦場に行く子供なんて、オレ達みたいな日陰の者だけでいいんです。一人前になった侍にとっちゃ、戦も仕事ですけどね」 イルカは反駁しかけたが、開きかけた口を黙って閉じた。 カカシの言うことが、今の世の中では『間違って』いないからだ。 イルカ自身、武士という身分だから。それだけの理由で町民以下の人間に頭を下げられ、それに疑問も抱いていなかった。 その『世の中』から一歩離れた場所に身を置いた今、それが本当に当然な事なのか―――イルカにはわからなくなってきていた。 自分はたまたま武士の子に生まれた。 だが、それだけでこの里の人は、自分に頭を下げたりはしない。里の人にとっては、お城の殿様よりも、あの美しい里長の方が高貴であり、刀を二本差しているイルカよりも、自在にクナイを操るカカシの方が尊敬に値する人物なのだ。 そして、イルカはそれも当然のことだと受け入れていた。 この里では、自分は無力だった。 カカシの庇護がなくては、おそらく生きてはいけない。―――少なくとも、今のままでは。 イルカは顔を上げ、カカシの眼を静かに見た。 「………続けます。どうぞ、もう一度チャクラを練ってみせてくださいませんか」 「はい。…じゃあ、いきますよー」 イルカは勉強熱心な弟子であった。やると決めたからには、とことん努力する男である。 関連書物を読み、カカシの指導通りに身体の鍛錬もよくこなす。 忍術以外の体術の類は、驚くほど上達が早かった。手裏剣術も、手ほどきを受け始めたばかりにしてはスジが良く、修行を始めて僅か半年で、これならば忍塾の子供達に馬鹿にされる事もないであろうと思われる程度の段階まで来たのである。 だが、そこから先が難題だった。 忍術の理論的な仕組み・発動条件の理解までは、比較的短時間で何とかこぎつけたが、チャクラの練り方がどうしてもわからないらしい。 そうして、ただ徒に月日だけが流れてしまった。 イルカはしょんぼりと項垂れた。 「………申し訳ありません………カンが悪くて」 「いやあ、カンはいいですよー、アナタ。お侍が、手裏剣術やら縄抜けの術やら、こう短期間でものにするとは正直驚きです」 イルカは苦笑した。 「ものにした、とはまだ言えませんでしょう。実戦では使い物にならないことくらい、わかっておりますよ。…塾の小さな子供さんになら張り合えるって程度でしょう?」 「ははは、それでもね。…生まれながらに此処の空気を吸って生きてきた人間に比べたら不利な割に、いいセンいってると思いますよ。………意外といえば、コレもですけど」 カカシはお椀を掲げて見せた。 「お侍さんが、料理出来るなんて思わなかったです。こういうのって、普通やらないでしょう?」 たすき掛けの紐を外しながら、イルカは笑う。 「少なくとも、お城にいる時は、厨に近づくことも稀でしたが。…俺も色々ありまして。子供の頃に一時期、田舎の道場に預けられたことがありましてね。そこでは武士の子も何もあったもんじゃなくて、修行の一環として、雑巾がけから薪拾い、厨の下働きまでやらされましたから。見よう見真似で、簡単な食事の支度くらいは出来るようになりました。…今となっては、その頃の修行に感謝ですね」 「………この家を掃除した時も、手際良かったですもんねえ………何でこの人、雑巾がけオレより上手いんだろーとか思ってました。………そういう訳ですか。終いにはアナタ、オレから雑巾取り上げるし」 「…俺にとっては、貴方が掃除や雑用をなさるのを見る方が心臓に悪かったんですよ。…姫がそんな事をなさるなんて、と」 カカシは大仰にため息をついた。 「………いい加減、そこから離れてくれませんかね。二年っていうのは、潜入期間としては長い部類に入るかも、ですけど。オレにとっては、任務でこなしてきた擬装のひとつに過ぎないんですよ」 ええ、とイルカは頷いた。 「わかっています。………わかってはいるのです。貴方は、はたけカカシ。…木ノ葉の、上忍。………姫君ではない。姫のままでいて欲しいわけでもないのです。でも………」 「………意識を塗り替えるのって、そんなに大変なんですかねえ………」 煮物を口に運びながら、カカシはぼやくように呟く。 「もう少し、柔軟な意識を持たなきゃ。………チャクラが練れないのも、そういう頑固さが一因かもですよ?」 途端にギクリとイルカは身体を竦めた。 「も、申し訳…ありません。あ、後二ヶ月しか無いのに………」 アスマとの賭けの期限まで、後二ヶ月と五日だった。 「そーですねー……このままじゃ、負けかなあ………あの野郎、何を言い出しますかねえ………もしも、一晩ヤらせろとか言われても、拒否出来ないのかあ…オレ……」 イルカは思わず、箸を取り落としてしまった。 「そ…そういう要求をなさる………方なんですか?」 カカシはチラリと視線を上げた。 「面白がって、嫌がらせで言いそうな事かな、と」 その続きは、声に出さずに胸の内で呟く。 (……オレが、アナタに惚れてるの知っているから) イルカは膝の上で拳をきつく握り、唇を噛んで俯いてしまった。ややあって、口を開く。 「………な…………」 カカシは首を傾げた。 「な?」 イルカはわなわなと拳を震わせながら、言葉を搾り出す。 「………何か………何か、方法は………ありませんか………。お、俺は………貴方が負けてもいいだなんて、これっぽっちも思ってはいませんでしたが。ただ、あの方にお会いした時の印象で、賭けに勝っても、貴方を傷つけるような要求はなさらないのではないかと、勝手な憶測をしていたのも事実です。………で、でも…そんな………貴方の身体を求めるかもしれないなんて………そんな可能性が欠片でもあるのなら、負けるわけには参りません! 何か、方法を………! 滝に打たれるとか、火の上を渡るとか、どんな修行でもやりますから!」 カカシは眼を瞬かせた。 単なる軽口のつもりが、とんだ方面からイルカの闘志に火をつけてしまったようである。 「………方法って言われましても……身体をイジメりゃチャクラが練れるっていうんなら、とっくにやってますって」 「で………ですよね………」 ふむ、とカカシは考え込んだ。 (………チャクラか………もう、体内の力と、精神の力は充分だと思うんだけどな……たぶん、上手く融合させることさえ出来れば、すぐに中忍並みのチャクラが練れる状態まできているはずだ。………要は、キッカケ………こうだよ、と彼の身体の中でやって見せられればいいんけど………身体の…) 「そうか」 カカシは立ち上がった。 「…………どうしたんですか?」 「すみませんが、夕食の後片付け、お願いしますね。…オレ、ちょっと出かけてきます。朝までには帰りますから。先に休んでいてください」 そう言い置きざま、カカシは出て行った。 「………姫………」 その後姿を見送ったイルカは、思わずこぼれ出た呟きに慌てて口を覆った。 彼を女性扱いしたいのではない。ただ、イルカにとっての『姫』は、彼だけなのだ。 大切に、大切にしたい対象。それをイルカは『姫』と呼んできた。 (それが………いけないのか………?) 関係ない、とイルカは思う。 意識の塗り替えもなにも、あの時『曲者』=『姫』だったとわかった時点で脳天を殴られたようなもので、強制的に意識の切り替えは済んでいる。 それでも尚、カカシはイルカの『姫』だった。 (………いけない。今は、チャクラを練れるようにしなくては……このままでは、初歩の術すら会得出来ない………) イルカは夕食の膳を片付け、夜が更けるまで縁側で座禅を組み―――精神の統一を図っていたが、やがて昼間の修行の疲れが出て、そのまま眠りの淵に引きずりこまれてしまった。
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申し訳ございません。 |