姫と呼ばないで
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ツナデの元を辞したカカシとイルカは、里の中を歩いていた。 すれ違う里人が、物珍しげにイルカを振り返る。不躾にしげしげと眺める者もいた。 「あの………姫」 「…カカシ。…オレのことはカカシでいいんですってば」 イルカは曖昧に「はぁ」と頷いた。 「…で、何か?」 「………侍って…珍しいですか? それとも俺がよそ者だから…?」 「ああ、里の中にお侍が入って来る事は、滅多にないんで。皆、見慣れていないだけですよ。そのうちアナタが一人で歩いていても、何とも思わなくなります」 「………そういうものですか」 フフッとカカシは笑った。 「そういうものです。隠れ里は閉じた世界だから、見慣れないものや目新しいものに皆、敏感なんですが。眼になじめば、関心を無くす。と言うと聞こえは悪いですが、要するにそこに在るのが当たり前、と受け入れちゃうんですね。そこら辺は柔軟というか、いい加減というか」 イルカも苦笑した。 「…なるほど。わかる気がします」 「……さ、お腹すいたでしょ。どっか、飯屋にでも行きましょう。オレ、久しぶりに温かいメシが食いたくて」 『姫』でいた間、カカシの口に暖かいものが入ることは無かった。遠い厨から運ばれ、毒味にまわされ、カカシの前に置かれた時、お膳の中はすっかり冷えてしまっていたから。 「………そうですね。お気の毒に思っておりました。いくら贅を尽くしたお膳でも、ああ冷えてしまっては少しも美味しくないだろうと………」 「ねー、お殿様とかお姫様って、可哀相。ホントに美味しいものを知らないんだから。メシは炊き立てが一番、焼き魚は焼きたてアツアツが一番。…あ、ここにしましょ。ここね、味噌汁が美味いんですよ。味が変わってないといいんだけど」 カカシは、飯屋の暖簾をくぐる。と、威勢のいい声が迎えてくれた。 「おーや、カカシさん。随分と久しぶりだねえ、生きていたのかい」 「お久しぶり。ちゃーんと足もあるよー。メシ、適当に見繕ってもらえる?」 「あいよっ」と応えかけた飯屋の店主は、ふいに言葉を切ってギロリと鋭い視線をカカシの背後に向けた。 その視線を遮るようにカカシが動く。 「オレの連れにも同じものを頼むよ。……このお武家様、ツナデ様の客分だから、そのつもりでね」 店主はギクシャクと頷いて、警戒を解いた。 「そ…そうかい、カカシさんの連れだったのかい。…ゆっくりしてってくれや、お侍さん。『外』に負けねえモン食わしてやっからよ」 イルカは無言で会釈した。 奥の席にいた男が、カカシたちに向かって手をヒラヒラと振る。 「よぅ、やっとご帰還か、カカシ。結構長かったな、今度の任務」 「アスマか、久しぶり。……フーン、いいご身分じゃないの。昼間っから酒?」 アスマと呼ばれたのは、顎鬚をたくわえた大柄な忍だった。 「なぁに、この程度じゃ酔わねえよ。水と一緒さ。……ま、座れや」 カカシはイルカを促して、アスマの向かい側に腰掛けた。 「このヒゲは同僚のアスマ。見かけはこんなんだけど、悪いヤツじゃないですから、安心してください」 アスマはニッと笑ってイルカに杯を差し出した。 「猿飛アスマだ。このバカとは腐れ縁でな。………ま、よろしく」 イルカは一礼して杯を受け取る。 「海野イルカです。よろしくお願い致します」 「…さっき、五代目の客分とか言ってたな?」 イルカはチラリとカカシを見た。カカシが口を挟む様子を見せないので、正直に答えることにする。 「………と、いう事にして頂きました。実のところは、俺がこの方に無理を言って、連れて来て頂いたんです」 アスマはニヤニヤ笑いながら横目でカカシを見た。 「はぁん。…てめえ、潜入先でオトコ引っ掛けやがったな? こーんな真面目そうな二本差しを毒牙にかけやがって、この性悪猫が」 カカシはムッとした表情でアスマを睨む。 「………妙な言い方しないでくれる? ………ま、全面的に否定出来ないけどさ」 軽くからかっただけのつもりだったアスマは、肯定ともとれるカカシのセリフに、眉を顰めた。 「お前なー………マジにそうだったのかよ。見たところ、ちゃんとしたお武家だろう。浪人には見えん。そういう男の人生狂わせるような真似……」 「確かに」 アスマの言葉を、イルカが遮る。 「………確かに、この方にお会いしたことで、俺の人生は変わりました。今までお仕え申し上げていた城に戻れなくなった―――殿を裏切ることになったのも確かです。でも、それは自分の選択であって、責任も自分にあります。…無理を言って、ご迷惑をお掛けしているのは、俺なのです」 アスマの眉間の皺が更に増す。 「………だぁから、お見事にコイツに引っ掛かけられたって言ってんだよ、アンタ。………元何藩ってのは訊いちゃマズイんだろーな?」 カカシはため息をついた。 「答えなくていいですよ、海野様。どうせ上忍連中は耳聡くてハナも利く。異変のあった藩なんて、向こうが隠そうとしてもいずれ知れます。アナタの口から言う必要はないです」 それから、とカカシは続けた。 「オレは、衆目のある場ではアナタを海野様と呼びます。五代目の客分であるお武家様を、上忍とはいえオレが呼び捨てるのは不自然ですから」 イルカは不承不承頷いた。 「……わかりました。何やら落ち着きませんが、如何様にもお呼びください。…猿飛殿」 「アスマでいいですぜ? 海野様。殿、なんてガラじゃねえや。…で、何だい?」 「………俺が、貴方やこの方をお呼びするのに一番不自然でない敬称は何でしょう? 呼び捨てはしたくありませんので」 ふむ、とアスマはカカシを見た。 「…アタマの硬そうなあんちゃんだな?」 「………礼儀とか、筋とか、そういうものを叩き込まれて育った武家社会のヒトなんだもん、仕方ないでしょうが。それがこの人のいい所だし」 アスマは面倒そうにガリガリと頭をかく。 「そーさなぁ………名前に上忍、とくっつけて呼ぶのが一番無難かね。そいつなら、はたけ上忍、もしくはカカシ上忍……ってカンジかな? それなら、傍で聞いても無礼には聞こえん」 「わかりました、アスマ上忍。ありがとうございます」 あのさ、とカカシが声を上げた。 「何でオレに訊かないんですか? 海野様」 「………先刻、カカシでいい、と仰いましたから。また同じ返事が返ってくると思いましたので」 ぶはははは、とアスマが笑い出した。 「なるほど、カカシがお持ち帰りしたくなっただけの事はありそうなカンジだぜ。面白え」 イルカは怪訝そうな眼になった。 「………城では俺は、皆に面白みの無い男だと言われておりましたが。忍の方の眼からは、違う風に映る部分があるのでしょうか? 先刻も里長に面白そうな男だと言われてしまったのですが」 カカシはフッと笑った。 「……城の連中は、アナタを見る眼が無かったんですよ。ここで面白そうだというのは悪い意味じゃない。むしろ、褒め言葉です。…ちなみに、オレもアナタを面白い男だと思っています。―――アナタの持つ可能性と、未知の能力に興味を引かれますしね。……なあ、アスマ」 「なんだよ」 運ばれてきた食事に手をつけながら、カカシは何気なさそうな口調で訊ねた。 「二十歳を過ぎた普通の人間が、一から修行して忍の術を会得できると思うか?」 「あん? それまでチャクラの基礎も知らなかった人間って意味か? まず、無理だろ」 それを聞いたカカシはニヤリと笑う。 「―――賭けない?」 「何をだ?」 カカシはイルカの肩にポンと手を置く。 「三年。………いや、一年でこの人が、何か術を覚えられたらオレの勝ち。何も出来ずに終わったら、アスマの勝ち」 「………ひ、姫?」 いきなり何を言い出すのかと腰を浮かせたイルカを、カカシはギロリと睨んだ。 「すみません。…ええと、カカシ上忍。そんな事、俺は…」 アスマはカカシの膳から漬物を失敬しながら、のんびりと応える。 「………で、何を賭けるんだよ」 「酒とかじゃ面白くないよねーえ? 何か相手に好きなことを要求できるってのはどう?」 ほ、とアスマは口角を上げる。 「何でもかい」 「何でも。命でもくれてやるよ。………ああ、でも常識の範囲で、可能なコトを言ってよね? 五代目を手篭めにしてこいとか、お月様を取って来いとか、馬鹿な要求したら里中に言いふらしてやるからね〜」 あの里長に夜這いをかけるのは、天空に浮かぶ月を取るのと同じくらい困難な事なのかと、一瞬そちらに気を取られかけたイルカは、慌てて頭を振った。 「待ってください! そ、そんな無茶な賭けを何故………それに、俺はそんな話は聞いておりません!」 「………海野様」 「………はい」 カカシはスッと眼を細めた。 「アナタ、自ら望んでこの里に来たんでしょ。…ここが、忍の里だってこと、承知の上で。ここでアナタ、何をするつもりだったのです? 野良仕事でもする気だった? …冗談じゃありませんよ。確かにアナタ、剣の腕はいい。学問も修めている。でも、それだけじゃダメなんです。それじゃあ、アナタは一生ここの『お客さん』だ。それでいいんですか?」 イルカは、カカシに気圧されたように微かに首を振る。 「―――ここで。この里で認められたければ、忍としての技を一つでも会得することです。………さっき、アスマが言ったでしょ。普通、外で二十歳過ぎまで暮らした人間が、これから修行して忍の術を会得することはまず、無理だと。…この里でも常識的に無理だと思われている事を、アナタがしてのけられたら―――考えただけでも痛快じゃないですか。まず、確実に里の連中のアナタを見る眼は変わります。…武士の価値観と、忍の価値観は違うんですよ。…わかります?」 「…………はい」 だからね、とカカシは続けた。 「アナタに忍者になれとは言いません。アナタは武士だ。…でも、ここでの技も身につけて頂く。………いいですね?」 「…………はい」 『姫』に「いいですね?」と言われて、首を横に振れるはずもない。イルカは血の気が引いていくのを自覚しながらも、ただ頷くしかなかった。 「よろしい」 カカシはニッコリと微笑む。 「賭けの対象になるのは気分が悪いかもしれませんが、一年という区切りを設けておいた方が気合入るでしょうし。………オレも、アナタに無茶を言う以上、自分の首をかけるくらいの危険は背負います」 アスマには、カカシの魂胆など見え透いていた。そして、カカシが言うからには、目の前の朴訥そうな侍には何かしらの素質があるのだろうという事も。 だが本当にそんな『奇跡』が起こせると言うのなら、見てみたい気もする。アスマも大概酔狂な男だった。 「よぉし。のるぜ、カカシ。………明日だ。明日から一年。この侍が、忍術をひとつでも身につけられたらお前の勝ちだ。お前の言う事をきいてやる。…ま、常識の範囲内でな」 「じゃ、決まりね。頑張ろうね〜、海野サマ。大丈夫、このオレが、教えてあげますから」 「……………………よろしく…………お願いします………………」 蒼白になっていくイルカの顔を眺めながら、カカシは薄っすらとした笑みを浮かべていた。 (―――アナタの居場所をこの里に作れと、ツナデ姫の仰せですしねえ………どうせなら、誰しもがアナタに一目置くような、そういう『居場所』がいいじゃないですか。…オレの横も居場所には違いないけど、そんな芸が無いのは姫にハナで笑われちゃいますもんね) 「ここが、オレの住まいです。お城に比べたら、ぼろ小屋同然ですけど、ガマンしてくださいね。……しばらく帰っていないから、酷い有様ですし」 カカシの住まいは、里の中心地からは外れた、静かな竹林に囲まれた一軒家だった。平屋造りで、中は思ったよりも広い。町民の感覚なら、三家族は住めると判断するのではなかろうか。イルカですら、カカシ一人の住まいにしては大きいと感じた。 「………お一人、なんですか?」 「え? ああ、家族とか? いませんよ。オレ一人ですから、その点はどうぞ気兼ねなく」 「…………貴方を、待っている………方は?」 そう口に出して初めて、イルカはその可能性に思い至った。そして、愕然とする。何故、その事を考えなかったのだろう。この里で、彼を待つ人がいたのかもしれないのに。 カカシは水瓶らしきものの中を覗きながら、のんびり答えた。 「ん〜? いませんよお。……それって、女って意味でしょ? そんな面倒なのがいたら、アナタを連れ帰るようなオソロシイ真似出来ませんって。……殺されてしまいます」 「………俺が、ですか?」 「そぉねえ、その女の性格にもよるけど………オレか、アナタか。…どっちもかなあ。忍の里の女は、キツイのが多いからね〜」 あっはっは、とカカシは笑う。 そしてふと、真顔になった。 「…………オレは、そういうつもりで、アナタを連れてきましたよ」 もしも『女』がいたら、その女がイルカに嫉妬する。 ―――そういう関係。 カカシの眼は、そう告げていた。 イルカは、安堵すると共に、自分の心の奥底に存在する疼きが熱くなったことに気づく。 カカシと離れがたくて勢いでついて来てしまったが、もう情人という関係ではいられないだろうと、漠然と思っていたのだ。あれは、不自由な思いをしていたカカシが単に『慰め』を求めただけ。 城から、姫と言う立場から解放された彼が、そういう意味合いでイルカを求めることは、もうないだろうと。 イルカは、カカシの方も自分を欲していると言ってくれた事を、素直に喜んだ。そして、静かに頷く。 「………俺は、姫のものです」 身も、心も。 カカシは苦笑した。 「また姫って言う………」 「申し訳ありません」 カカシは首をゆるりと傾け、眼でイルカを誘った。 それがくちづけをねだる時の『姫』の仕草だと承知しているイルカは、誘われるままゆっくりと唇を重ねる。 柔らかくそっと吸い、唇で愛撫するかのように何度も啄ばみ。だが、決して舌をねじ込むような真似はしない。 以前と全く変わらない優しいくちづけに、カカシがどれほど喜んでいたか。 そして、それと同じくらい切ない想いを味わっていたかということも。 その時のイルカには、わからなかったのである。
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『海野様』―――なんてマジにカカシが呼んじゃう設定ってイイな。(笑) |