イルカが御上(おかみ)お抱えの忍の里、『木ノ葉』に来てから知ったこと。
それは、彼が二年間護衛していた『姫』の正体が、恐ろしく腕の立つ上忍だという事だった。
はたけカカシ。
忍の世界では、その名を知らぬ者はいないという。
イルカは、深くものを考えずに一緒に連れて行ってくれと、彼にせがんでしまった己の浅はかさを悔いていた。
あの時カカシは言ったのだ。
「後悔しませんね?」と。
「しません」と答えてしまったのはイルカ自身だったのだが。
自分だけの問題ならば、いいのだ。たとえ木ノ葉の里で生きることが許されず、最悪殺されたとしても。
だが、イルカを連れ帰ったことでカカシの立場が悪くなるとしたら―――
後悔しても、しきれない。
◆
仕えていた主を殺した下手人を庇ってしまい、あまつさえ一緒に城から逃げてしまったイルカにはもう、カカシについて行く他に身の処し方は考えられなかった。
城に戻れば、カカシが言う通り、一切合切の責任を負わされて切腹だろう。かと言って、カカシに言われるまま他に仕官する気にはなれなかった。
仕えるべき主に背き、仲間を見捨てて逃げたのだ。そんな自分がもう、侍の世界に身を置いていいわけがない。
ならば、その正体が忍だろうが、『生涯護る』と誓った相手について行こうと決心したのである。
カカシが『姫』―――女性ではない事など、とうに知っていた。
お家の事情で、男子に生まれながら『若君』ではなく『姫』として、人の目をはばかるように城の奥で生きてきたというカカシに対する同情は、いつしか違う種類の『情』に変わっていった。
そして今回の事件でお家の事情も何も、その存在すらが全て嘘偽りだと知った今でさえ、彼に対する気持ちが冷めていかないことに一番驚いたのはイルカ自身だった。
イルカの中ではもう、カカシは『護るべき主人』ではなく、『護るべき愛しい人』になっていたのだ。
「木ノ葉は、この山の中にあるんですよ。結界がありますし、道らしい道もありませんから、普通の人が入り込む事はまずありません。ごくたまに、迷い込む運の悪い人がいますけど。…ま、オレと一緒なら大丈夫です。アナタに危害を及ぼすヤツがいたら、オレが黙っちゃいませんから」
隠れ里というくらいだ。世間の目からその存在を隠しているのは当然だとしても。
カカシの言葉のニュアンスから察して、その『迷い込んだ人』の末路は、単に『運が悪い』で片付けられないものがあるのではないかとイルカは思った。
「………もしかして俺は、とんでもないご迷惑を貴方にかけているのでは………」
躊躇いがちに伺うイルカに、カカシは笑ってみせる。
「大丈夫。これでもオレはね、里の中じゃ力のある方だから。………さて、と。そろそろ入り口です」
カカシは何やら両手の指を組み合わせ、複雑に動かす。
初めて見るものだったが、書物でその存在は知っていた。これが『印』だな、とイルカは感心してその動きを目で追う。
カカシは刀印を作ったままの右手を前方に突き出した。
「尾を持つ獣の吐息は八方に広がりてその行く先は天も知らず。しからば其を定めしは我らの役目なり。開門!」
イルカはしばらくそのままじっと様子を見ていたが、一向に『開門』されたようには見えない。
カカシは舌打ちをした。
「…チィッ………符牒を変えやがったな。二年ぶりだから仕方ないか。あーもぉ、だから先に『式』を飛ばしておいたのに。………こらぁっ! 聞こえてんだろ、門番! シカトこいてんじゃねーっ! 開けろ! はたけカカシだ! さっさと開けねえと雷切お見舞いすっぞ!」
途端に、目の前の空間がくにゃりと陽炎(かげろう)のように歪んだ。
「や、やめてくださいぃ〜〜そんなモノぶつけられたら、門が壊れちゃいますぅ」
どこからか、オドオドとした細い少女の声が聞こえる。
「………門番まで代替わりか? タツミはどーした?」
「……おかーさんはぁ…木ノ葉で門番やってるのも厭きたって。アタシが『鍵』を継承出来るトシになったからって、さっさと一方的に継承させられちゃって………アタシ、娘のカノエですぅ」
「そうか。……まー、アンタ達の事情はともかく。今、門番やってんのはアンタなんだろ? 門番ならオレのチャクラをさっさと照合しろ。んでもって、サクッと通せ」
カカシは何も無い空間と話をしている。
イルカには少女の声は聞こえたが、姿までは見えなかった。
「ええっとぉ………はたけカカシさん………ハイ、照合終わりましたぁ。門、開けまーす」
揺らいでいた陽炎がすうっと広がり、くっきりと線を引いたように一間四方ほどの陽炎の枠が眼前に出現した。
これが、入り口なのだろう。
「あれえ? もう一人の方は、未登録ですねぇ」
「あ、いいの。この人はね、オレの客よ。…いいから、『通して』…責任はオレが持つ」
「………わかりましたぁ。じゃあ、お通ししま〜す」
カカシはイルカの手をつかみ、にこっと笑う。
「第一関門突破ってところです。門番が代替わりしていたのは幸運だったかも。前の門番はねえ、ちょいと気難しくて」
気難しい相手にあの暴言というか―――脅迫をしたのか、とイルカは心持ち蒼褪める。
そんなイルカの手を引き、カカシは『陽炎』の中に足を踏み入れた。体に感じた僅かな抵抗感が、結界の存在をイルカに教える。
カカシがイルカの耳元で囁いた。
「ようこそ、木ノ葉の里へ」
イルカは周囲を見渡した。
今まで歩いてきた山の中とは景色が一変している。山に囲まれた村の入り口にイルカは立っていた。
振り返ると、古めかしい立派な木製の門があった。この門は、外からでは見えない仕組みになっているのだろう。
カカシは門に向かって礼を言った。
「ありがとう、カノエちゃん。…ねえ、新しい符牒教えてよ」
「はい。『咲いた咲いた、サクラが咲いたの桜餅。桜餅はおいしいな〜』ですぅ」
カカシがヒクッと片頬を引き攣らせる。
「……………………………このガキャ。ヒトおちょくって楽しいか」
カカシの殺気に、思わずイルカは退いた。
少女の声も、泣きべそをかいているように震える。
「あぅあぅ…っ…おちょくってませぇん。…だってカノエ、難しい符牒覚えられないしぃ……第一、おかあさんみたいな符牒、思いつかないんですもん〜怒らないでくださいぃ」
カカシはため息をついた。
「………仕方ないなあ……お勉強して、もう少しソレっぽい符牒、考えてね。唱える方の身にもなって。…それで、印は?」
「あ、それは変えてません〜。そのまま継承しましたぁ」
「はい、了解。お役目ご苦労さん。……じゃ、しっかり頑張りな」
「はぁい。頑張りますぅ」
イルカは、カカシが話している間中少女の姿を捜したが、見つからなかった。
「お待たせ。さ、行きましょう」
「あの………門番の方、どこにいらしたんでしょう。…声から察してまだ子供みたいな感じでしたが………」
カカシは足を止め、振り返った。
「………声が聞こえた?」
「…………あ、はあ………」
「会話内容がわかりました?」
「……え…ええ。お母さんが門番に飽きて、娘さんに役目を継承して……とか、話してらっしゃいましたよね。あまりにも可愛らしい『符牒』だったんで、俺も思わず笑ってしまいました」
カカシがニィッと笑う。
「…そこまで門番の声を明瞭に聞けるってことはアナタ、素質ありですね。………あのね、カノエちゃんの姿は見えなくて当然です。彼らには人間の目で視認出来る姿はありませんから。そーですねえ………精霊とか妖怪とか、呼び方は様々ですが、そういう種族なんですよ。門番をやってくれているのは、古の契約によりってコトですが、早い話持ちつ持たれつってところだと思いますよ。彼らにも都合や事情とか…要するに益があるんでしょ。…で、彼らの声は、聞ける者と聞けない者がいます。何の修行もしていない一般の人にはまず聞こえません。………里の中にも、声がよく聞き取れないって者もいます」
イルカは素直に驚いた。
「精霊? 妖怪? 本当にそんなのが存在しているんですか? ……それに結構ハッキリ聞こえましたよ? 俺、剣術の修行以外してないんですが」
「だ・か・ら。…素質アリだと言ったんです。ま、剣の修行は精神鍛錬にも繋がってますけどね。侍がみんな精霊の声を聞くわけじゃないでしょうから。…さあ、それよりも早く行きましょう。ここはまだ里の入り口なんですよ」
「は、はい」
カカシに促されるまま門から続く雑木林を抜けると、山の中とは思えない立派な集落が出現した。
「…これでも木ノ葉は歴史が結構ありましてね。今の里長は、五代目になります。…似非(エセ)姫だったオレなんかと違って、木ノ葉における正真正銘の姫ですよ」
「女性の方が…長ですか? あ、世襲制なのですね」
「いいえ。ここでは無能な者が血筋だけで長になることはありません。あの御方は本当に木ノ葉の長たる風格とご器量があります。………つまり、オトコどもが『このヒトには逆らっちゃいけねえ』とケツまくって逃げ出すほどお強いんです」
「………なるほど」
木ノ葉忍軍といえば、イルカでも知っているほど名高い精鋭武闘集団だ。その長が女性とは驚きである。
「オレは、今回の任務完了を長に報告せねばなりません。…アナタも一緒に来てください。長にお許しをもらえれば、アナタは堂々とここで暮らしていけますから」
イルカは直感した。
長が、異分子であるイルカの存在を許さなければ、良くて追放。最悪、死だと。
妖しの領域の者に『門番』をさせるほど、外部からの侵入者には厳しい所なのだ。
表情を引き締めたイルカに、カカシは微笑みかける。
「…駆け引きや小細工は無用です。逆効果だ。アナタは在りのままでいてください。オレを、信じて」
「はいっ! 姫」
カカシはプッと噴きだした。
「………もう姫はやめてくださいよ」
「はい、申し訳ありません姫………あ、いや、すみません…………」
「急には無理ですか? まー、二年もそう呼ばされてたんだから仕方ないですが。…でも、世間一般的には忍よりも侍の方が身分高いんだから。オレに敬語使う必要もないんだってこと、そろそろ思い出してくださいな、海野様」
「うわわっそれこそおやめ下さいっ! イルカでいいです、イルカでっ」
あはは、と朗らかにカカシは笑った。
『姫』であった時には一度も聞くことが無かった明るい声だ。この笑顔を見られただけでも、出奔してきた甲斐があったとイルカは思う。
「さ、行きましょう」
「はい」
「結局、殺るしかなかったかい。…哀れな殿様だったねえ…ご苦労だった、カカシ。事の顛末を報告書にまとめてくれ。詳しくな。『御上』には私が報告しに行く」
里長だという女性を前にして、イルカは固まってしまった。
何と言うか―――凄い迫力である。
美人だ。それも、生命力にあふれた力強い美しさが内面から迸るような美女だ。
なるほど、これは並みの男では相手にもなるまい。
「それで? このオミヤゲは何だい。お前らしくないね。いつもなら余計なモノはスパッと切り捨ててくるだろうが。…何でよそ者を…しかも、お侍サマなんか連れてきたんだ」
「……スパッとね、切り捨てられなかったからですねえ」
美女はジロリとカカシを睨んだ。
「………カカシ」
カカシは肩を竦めてみせる。
「オレの所為で、物凄く危ない立場になってしまったものでね、このお人。何でもかんでも切り捨ててくればいいってものでもないと思って。無責任でしょ? そういうの」
「モノは言いようだねえ。要はお前、そのお侍を殺せなくなっちまったんだろ。…ったく、写輪眼のカカシともあろう者が、ヤキが回ったかい。………で? お前、私に何をして欲しいんだ」
カカシはゆっくりと息を吸った。
「彼を、当座はツナデ様の客分として迎え入れて頂きたいんですよね。…そして、ツナデ様のご判断で、いずれは彼を木ノ葉の一員に加えて頂きたく思います」
そこでカカシはニッコリと笑う。
「この人の為人(ひととなり)はオレが保証します。二年、間近で見てきましたからね。……ツナデ様、いつも忍塾の教師が足りないって仰ってたじゃないですか。この人、適任ですよ。真っ当な剣術を使えるし、読み書き算盤も出来る。お買い得です」
ツナデは胡散臭そうにイルカを見た。
「………侍の剣ねえ…そりゃあ、きちんとした剣術も必要だけどさ。…腕の方は確かなんだろうね」
「そりゃあ姫君の護衛を任されるくらいですから、相当使えますよ」
「はぁん。………なるほど。お前の護衛役だったワケか。それでね〜…可愛いとこあるじゃないか、お前も」
ニヤニヤと笑うツナデに、カカシは薄っすら赤くなった。
「………そんな事よりも。…どうでしょうか?」
「…確かにね、真っ当な学問を修めている人間が、塾の教師になってくれるのはありがたい。たまには外の風を入れるのも大事だしね。…だが、忍のことをわかっているわけじゃないだろう。塾のガキどもは、忍のタマゴだよ? おませなヤツは初歩の術くらい使う。チャクラもわからん教師の言うことなど、聞くかね。…でも、その概念ですら、外の人間に簡単に理解できるとは思えないしねえ…」
カカシはフッと笑った。
「案外、そうでもないかもしれませんよ、ツナデ様。……彼、カノエちゃんの声を聞けるんです」
ツナデは意外そうに眼を見開いた。
「門番の声を聞ける? そのお侍が?」
それまで黙って二人のやり取りを聞いていたイルカが、初めて口を開いた。
「………海野イルカと申します。お目にかかれて光栄です、木ノ葉の里長」
美女は妖艶に目を細めた。
「ほ。………いい声だ。なるほど、『力』があるようだね。………でもね、この里で生きるってコトの意味、本当にわかっているのかい。親兄弟、その他今までお前様の周りにあったすべてのものを捨てる覚悟がおありかえ?」
「………捨てるべきものは最初からございません。私は、常にこの身ひとつです」
イルカには一族の後ろ盾も、通さねばならない義理も無かった。彼が消えたことで立つ波風は無い。
カカシがのんびりと口を挟む。
「…ツナデ様ぁ。背中やシリにひらひらと余計な尾ひれつけている男なんか、オレが連れてくるとお思いですか?」
パン、とツナデは卓を叩いた。
「もうひとつ聞く」
「はい」
「………ここへ来たのは、お前様の意思かい」
イルカはツナデの眼を見据え、ハッキリと頷いた。
「………はい」
ツナデはカカシに向き直り、微笑んだ。
「………面白そうな男だ。…いいよ、カカシ。私が許す。お前、責任持って、この男の居場所を作ってやりな」
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