跳べる所まで跳んで、カカシは足を止めた。
ここで移動の為だけにチャクラを使い過ぎては本末転倒だ。
息を殺して、辺りの様子を探る。
頭上に月が出ているにも拘わらず、夜目の利くカカシにも周囲がよく見えない。
だが、彼は確実にイルカに近づいているはずだ。
その証拠に禍々しい術が生み出した災厄の気配はどんどん大きくなって、カカシの感覚を圧倒し始めていた。
――― イルカ…!
カカシの焦燥感もどんどん募る。
イルカの意図はわかっていた。
木ノ葉の国にも、他国にも損害を出さずに災厄を食い止め、消滅させる。
それには、ぎりぎりまで己が災厄に…術によって生み出された竜巻に近づくしかない。
呪符を回収したイルカは、それを逆に利用して解呪を試みるつもりだろう。
だが、それには恐ろしく危険が伴う。
「イルカぁ――ッ!」
カカシは断崖の上に佇む人影を見つけて絶叫した。
カカシは三晩続けて同じ夢を見た。
『イルカ』のいる場所に何とか辿り着き、そして彼の姿を遠目に見つけてその名を叫ぶ。
その自分の声に驚いたように目を覚ますのだ。
「……何なんだよ、いったい…」
罪も無い枕にあたって、壁に投げつける。
「…もう…イルカの言う通りになっちまう…ストレスだぜ、こりゃ…」
朝からぐったりとしたカカシは、取りあえず気を取り直すために風呂場に向かった。
熱いシャワーでも浴びれば、少しはすっきりするだろう。
それに、夕べの電話がカカシの気持ちを少し浮き立たせていた。
イルカは毎晩ちゃんと連絡を入れてくれていた。
その夕べの電話で、彼の祖母が持ち直したので、明日には――つまり、今日だ――こちらに戻るという。
『婆ちゃん、目ぇ覚まして、俺の顔見て何て言ったと思うよ? 「何でおめえ、ここにいるんだ? 学校はどうしたんだ、馬鹿たれ」だってさ。もー、相変わらず気が強いんだわ。やっぱ、戦前生まれの人は強いよ。心身ともに。…ああ、お前の事も気にかけてたぞ。「カカシちゃんは細いから、ちゃんとおめえが食べさせてやんなきゃダメだぞ」って。……うん、婆ちゃん顔色良くなってきたしな。明日帰るから。…何か、欲しいもんある? 買ってってやるよ』
「そっか。婆ちゃんによろしく言っといて。無理しちゃダメだぞって。…土産なんかいいから、お前も気をつけてな」
『うん、サンキュ。じゃあな。そっち着いたら電話するから』
カカシは頭から熱いシャワーを浴びて、嫌な夢の余韻を振り切ろうとした。
「あ、そうだ。シーツとかまとめて洗っとこう。何か、ずっとイルカのベッド使っちゃったしな。…ベッド、綺麗にしといてやったら喜ぶだろうし…」
――― 帰ってきたばかりなのに、誘ったら呆れられるかなあ……でも、イルカとやりたい…キスして、抱きあって……あ、オレってばマジにホモだったんかな………
カカシは苦笑した。
イルカもカカシも、それなりに女の子と遊んだり付き合ったりしている。
それなのに、気づくとその子達より彼らは互いの存在を優先させてしまって、結果どの女の子とも長続きしないのだ。
何人目かの女にはあからさまに罵られた。
『何よ! あんた、ゲイでしょ! あたしよりその同居してる男の方がいいわけね!』
正直な所、その女とイルカとどっちを選ぶかと訊かれたら……
「イルカの方がいいわな」
がくりとカカシは独りで肩を落とした。
「…だって、イルカの代わりはいねえもん…」
イルカに指導されていた通り、洗濯物を干す前には物干し竿をちゃんと拭いて。
洗濯したシーツや枕カバーを干して、カカシは満足げに自分の仕事を眺めた。
干す前に、テレビで天気予報もちゃんと確かめた。
「おし! 学校行こっと」
今日は、講義は午前中で済む。
帰ってから取り込んでも洗濯物は大丈夫なはずだ。
きっと、昼過ぎにはイルカから電話が入るだろう。
「久し振りに、居酒屋行くのもいいな。…うん、今日はオレの奢りで」
カカシは戸締りを確認して、大学に向かった。
カカシの携帯が鳴ったのは、家に帰ってベランダの洗濯物を取り込んでいる時だった。
「はいはいはいっと」
ジーンズの尻ポケットにねじ込んであった携帯を引っ張り出して、液晶画面もロクに見ずにボタンを押す。
「はい」
イルカからの電話だと思い込んで取ったのに、まるで聞き覚えの無い男の声が聞こえてくる。
『ええと…貴方は、はたけカカシさんですか?』
「……そうだけど…あんた、誰」
カカシは警戒した。こんな電話、ロクなものじゃない。
『警察の者です。貴方がうみのさんの連絡先でいいんですね』
「警察? 何で警察が…」
『うみのイルカさんの所持品の手帳に、君の携帯番号が控えてあって、それが緊急連絡先にもなっていたから…あのね、うみのさん事故に遭ったんですよ』
「え…?」
カカシの顔から血の気が引いた。
『交通事故です。完全に被害者ですけどね。歩道に酔っ払い運転の軽トラックが突っ込んだんです。今、病院で手当てを受けていますが。……ご家族、近くに住んでいらっしゃらないみたいだから、取りあえず君、来てもらえますか? 病院は―――』
カカシは機械的に頷きながらメモを取った。
ぷつん、と通話が切れてからもどこか現実感が無くてしばらく茫然と携帯を眺めてしまった。
「…行かなきゃ…イルカ……のとこ…」
カカシはぱちん、と両手で自分の頬を叩いた。
「しっかりしろ! オレがうろたえてどーすんだ!」
警察に教えてもらった病院に駆けつけてみると、イルカは手術中だった。
「…怪我…ひどいんですか……」
担当の警察官は気の毒そうに首を振った。
「まだ、何とも言えません。救急車で運ばれて、処置室に入ったままですから…ええと、君は彼の親戚…?」
「オレは…奴と一緒の大学で…今、同居しているんです……」
「ああ、なるほど。じゃあ、現住所は彼と同じですね。…書類、書いてもらえますか。彼の持ち物もこちらで預かってますし」
「…はい…」
カカシが警察官について行こうとした時、背後を看護婦が慌しく駆けていった。
「処置室のクランケ、血液が足らないみたいなの! センター連絡して!」
カカシは反射的に振り返った。
「血って誰の! イルカ? イルカなのか?」
看護婦は冷静に応じる。
「さっき、救急で運び込まれた交通事故の患者さんよ。少し髪の長い男の子。…関係者の方?」
「イルカだろ? 鼻んとこに古い傷のある奴だろ? オレ、血液型同じだ! オレの血、あいつにやってよ!」
「本当? 検査するわ。こっちに来て!」
「要るだけ取ってよ! 全部やってもいいよ!」
カカシが袖をまくって突き出した腕を看護婦は優しく叩いた。
「ええ、だから検査してからね。全部抜いたら貴方が死んじゃうでしょ? 落ち着いてね。貴方、顔色悪いわよ。…お友達が心配なのはわかるけど、私達も頑張っているから。ね?」
カカシはこくん、と頷いた。
警察官の方に向き直って一応断る。
「書類、後でもいいですか…?」
「ああ、いいですよ。…検査、行くといい」
看護婦はカカシの腕を柔らかく掴んだ。
「じゃ、こっちへ。…ええと…」
「カカシ。はたけカカシ」
「はたけ君ね。…きみ、ちゃんと食べてるの? ほっそい腕ねえ。血、採って大丈夫かしら」
そりゃアンタに比べれば…という憎まれ口は胸で呟くにとどめ、カカシは逞しい看護婦に引きずられるようについて行く。
「…大丈夫だよ。オレ、結構丈夫だから」
――― イルカ…イルカぁ…死ぬなよ。オレの血なんか、いくらでもやるから。お前が死んだら、オレも死んでやる。それが嫌なら、何が何でも死ぬなよ。
……お前の代わりなんて、この世にいないんだから―――
自分の血がイルカの体内に注ぎ込まれる様に倒錯的な快感を覚えたカカシは、僅かに微笑みを浮かべながらゆっくり意識を手放したのだった―――
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