ヤツデの部下達の手を借りて集めた七枚の呪符を懐に、イルカは竜巻を誘導した。
操り手の意思を離れた竜巻は、イルカの目論見通り呪符の誘引力に従って方向を変える。
――― よし! こっちへ来い…こっちだ…
城はもちろん、自らを守る力を持たない人々をこの脅威から守らねばならない。
それが、今のイルカの『仕事』だった。
純粋な自然現象ならばイルカの手に余ったが、これは違う。
懐に収めた七枚の呪符は、集められた事によって恐ろしく禍々しい気を発していた。
その気を、イルカは自らのチャクラで暴走しないように制御しているのだ。
その『気』は毒のようにイルカを蝕み、彼の全身から冷や汗が噴き出す。
彼は悪寒と吐き気を堪えながら必死になって精神を集中していた。
「もう少し…もう少しこっちへ来い……」
イルカは気力を総動員して、崖の上に立った。
ここならば、竜巻を正面から迎え討てる。
視界に出現した竜巻の影を見据え、イルカは奥歯を噛み締めた。
懐から呪符を取り出し、解呪の為の手順を頭の中でさらう。
――― 『明日でも、明後日でも逢える』…か。…すみません、カカシ先生…もう、貴方に逢う事は出来ないかもしれない…
イルカは静かに微笑んだ。
アカデミーで教鞭を取り始めてから任務の荒事とは少し縁遠くなっていた自分が、こういう形で命を落とす事になるとは。
だが、里を、木ノ葉の国を守る為に忍びとして自らの力を出し切って倒れるならば本望だ。
イルカは保身の為にチャクラの出し惜しみをする事など考えてもいなかった。
彼が心配だったのは、自分の力が及ばず解呪に失敗することだけ。
深呼吸。
イルカは呪符を口に咥え、両手で印を結び始めた。
全身のチャクラを、持てるだけのチャクラを練り上げ、術を行使する為に精神を集中する。
ふと、カカシの声が聞こえたような気がした。
――― カカシ…先生……
唐突に、イルカの背後に知った気配が現れる。
「続けて! 印を崩さないで!」
カカシの出現に驚いたイルカは一瞬リズムを崩しかけたが、瞬時に持ち直す。
カカシはイルカを背後から抱くように身体を合わせ、イルカの指の動きに自らの指の動きを重ねて同じ印を切り始めた。
「…オレのチャクラも併せます…同調して下さい。…大丈夫、オレ達なら出来ます…」
呪符を咥えているイルカは声に出して返事は出来なかったが、僅かに頷いて同意を示す。
同じ術を他人と一緒に発動させた経験などなかった。
だが、カカシの体温がイルカを落ち着かせる。
意識の一部を彼に向け、同調させ―――冷静にチャクラを練り上げていく。
自分の鼓動が彼の鼓動と重なるのが感じられた。
術が構成されるに従って、身体中に昂揚感が満ち―――複雑な印が完成に近づく。
イルカは咥えていた呪符を前方の空間に吹き付けた。
チャクラによって形成された力場に呪符が捕らえられ、宙に浮く。
ばしん、と最後の印を切り終えたイルカの両手が組み合わさり、その手にカカシの両手が重なった。
竜巻はすぐ近くまで迫り、しっかり足を踏みしめていないと身体が風圧で揺らぎそうだ。
「…いきます。カカシ先生」
「はい」
二人のチャクラを合わせた解呪の術が真っ直ぐに竜巻に向かって放たれた。
その刹那、イルカはまるでカカシと一体になっているかのような錯覚にとらわれる。
恐ろしく甘美な、そしてエクスタシーにも似た一瞬の幸福感。
「あら、目、覚めたー? はたけ君」
カカシはパチパチと瞬きした。
白い天井。
「…ええ…と…」
カカシは身体を起こそうとして眩暈を覚えた。
「あ、無理しないでね。まだ寝ていなさい。…君、寝不足だったんじゃない?」
誰かの手でカカシはまたベッドに寝かされた。
――― 病院…!
カカシは目を見開いた。
「イルカ! イルカは?」
看護婦は微笑んでカカシの肩をポンポン、と優しく叩く。
「大丈夫。君が血をくれたからね。…危険な状態は脱したわ。若いし、体力ありそうだから、すぐに回復するわよ。…ぎりぎり脊椎の損傷を免れたから、歩行にも支障は出ないと思う。…ただ、背中に傷は残るかもしれないけど。後はね、手も足も無事よ。あ、折れているのは無事って言わないか。でも、切断とかしたわけじゃないからすぐ治るわよ。頭も無事。…良かったわ、助かって。…彼ね、歩道にいた子供を咄嗟にトラックから庇ったんですって…優しい人ね、貴方のお友達。……後、質問は?」
カカシは五秒ほどおいて、看護婦を見上げた。
「……顔、見られる? 会っていい?」
「そうね。まだ意識無いけど……いいと思うわ。あ、顔も無事よ。良かったわね、傷が増えなくて。…あの子も君ももったいないわねえ…ハンサムさんなのに、そんな傷こしらえちゃって」
カカシは苦笑した。
「いいんだよ。…女じゃないしさ」
それに…とカカシは胸の中で呟いた。
この傷は、オレ達の絆なんだから。
カカシはじっと、ベッドに横たわるイルカの顔を眺めていた。
普段見知っているイルカと違って、まだ青白い。
「…イルカ…」
呼びかけると、彼は応えるようにぽっかりと目を開けた。
「カカ…シ……?」
掠れた声が、カカシの名を呼ぶ。
久し振りに聞く、携帯電話越しではないイルカの肉声。
カカシはイルカの、折れていない方の腕をしっかりつかんだ。
「オレだよ…イルカ…イルカ……」
イルカはぼんやりとカカシの顔を見、そして周囲に視線を巡らせた。
「…ここ…病院…? 俺…俺、駅から出て…お前に電話しようとして……」
「トラックが突っ込んできたんだってさ。…お前、子供庇ってそのトラックにはねられたんだよ」
イルカは数秒、自分の記憶を辿っているようだった。
「ああ、そうだった…うん…トラックだよな……竜巻じゃなくて……」
竜巻? とカカシは自分の耳を疑った。
だが、イルカはその事にはもう触れず、自分の怪我の容態を訊くより先に妙なものの心配をする。
「…明太子…つぶれちゃった…? お前、好きだから買ってきたのに…」
明太子どころか、イルカの所持品などまだカカシは見ていない。
「……わかんねー。お前の荷物、まだ確認してねえもん。荷物よりお前が心配だったし」
そこでまた新たに加害者に対する憎しみを募らせるカカシ。
大事な相棒であるイルカをこんな目に遭わせ、せっかくの彼の心遣いを踏みにじった(かもしれない)なんて! 事故さえなきゃ、今頃は土産の明太子を肴にイルカと一杯飲んでいたというのに。
「…うん、ごめんな…カカシ。…心配かけて…」
「イルカは悪くない! 謝るなよ……でも、良かったよお…オレ、イルカ死んじゃったらどうしようかと…思っ……」
ぽろっとカカシの目から涙が零れた。
「……お前、一人暮らし出来ないもんなぁ……」
イルカは動く方の腕をのばし、カカシの手に優しく触れる。
「…遅くなっちゃって、ごめん。…ただいま、カカシ…」
カカシは泣き笑いの顔でイルカの手を両手で抱いた。
「…おかえり。………ちゃんとオレ、留守番してたよ……」
さらさらと、夜風が髪を撫でていく。
カカシは腰をおろし、イルカの上半身を抱きかかえていた。
ゆっくりとイルカの額にかかる黒い髪をかきあげてやる。
解呪・消滅の術は元々の術者なら抵抗は受けないが、他者が行おうとすればかなりの反発を受ける。
それを己のチャクラでねじ伏せなければならないので、想像以上の負担がかかるのだ。
竜巻を形成していた破滅の術は、ねじ伏せられる直前、最後の抵抗をし―――イルカとカカシは、予想外の衝撃をくらった。
それも、イルカの背後で術の補助をしていたカカシは位置関係でイルカに庇われる形になり、衝撃の大半はイルカが受け止める事になってしまったのだった。
咄嗟に張ったカカシの防御壁も術を放ってチャクラを使い果たしていた後では大して役に立たず、イルカの額当ては弾け飛び、衝撃は彼の全身を切り裂いた。
そしてその衝撃が去った時にカカシが知ったのは、解呪の成功と、既にイルカが呪符の毒気に侵されていた事だった。
「…無茶をする人ですねえ……」
カカシがぽつりと呟くと、イルカの瞼が気だるげに上がった。
「……ありがと…う…ございました…俺だけ…だったら…失敗して…いた…かと…」
毒と失血の所為で冷たくなったイルカの指先を握り、カカシは唇を噛む。
「…本当なら、すぐさま里に連れ帰って、治療をしたいんですけどね………」
イルカは青ざめた顔で、無理にでも微笑んでみせる。
「いいですよ……カカシ先生…だって、お辛いでしょう…?」
幾人もの敵と戦って、更にイルカを追い、そして解呪のチャクラを使ったカカシに、もう自分で立つ事も出来ないイルカを連れて戻る力は無かった。
イルカに追いつく為とはいえ、移動の為にチャクラを使ってしまった事に今更ながら歯噛みする。
だが、里に連れ帰ったところで、この異質な毒に侵されたイルカを救う手立てがあるかどうかは怪しかった。
確実に体温が下がっていくイルカの身体を、どうしようもない思いで抱き締める事しかカカシには出来ない。
「…イルカ…」
イルカは震える手を持ち上げ、そっと指でカカシの頬をなぞる。
「良かっ……俺、もう…貴方に逢えないかと………」
忍として生きてきた。
畳の上で死ねるわけがないと思っていたが―――今、この世で一番愛している人間の腕の中で死ねるなら、それは最上の死だとイルカは微笑む。
カカシは悲しむだろうが、この人は幾つもの『死』を乗り越え、しゃんと独りで立っていた人だ。
この人の人生に、自分が関われた事が嬉しい。
時々は、何かの折に思い出してくれるだろうか。
逝ってしまった彼の友人、恩師らと共に、彼の思い出の中に加われるのだろうか。
「…死んだら、許しませんよ」
イルカの心の内を読んだようにカカシは言葉を絞り出した。
「許しません。……貴方が死んだら、オレもここで心中しますからね。それが嫌だったら生きなさい」
イルカは困ったように苦笑した。
もう、手足の感覚がない。
カカシの願いならどんな事でも叶えたいと思うイルカだったが、こればかりはどうしようもなかった。
「…カカ……俺、ね……です……か…………さ、い…」
「…はい…」
イルカの声は囁くように小さかったが、カカシにははっきり聞き取れた。
『…寝てしまいそうだから、何か話をして下さい』
カカシは少しでもイルカが楽なように抱え直し、彼の手を握った。
こんな時、何を話したらよいというのだろう。
「………最近ね、おかしな夢をみるんですよ。…妙にリアルでね…オレ達、どうやら学生みたいで…その夢の中だと貴方、オレにポンポン言いたいコト言ってくれてねえ…でも、何だか平和な世界でね…殺し合いとか、そんな事無縁で………」
カカシは、夢の内容をぽつりぽつりとイルカに語り始めた。
何故今、こんな話をしているのだろう、と思いながら。
「…でさ、忍者だろう? あれ、『印』っていうの? 両手でこう…やるの。あれで忍術使うんだな。それで、敵の忍者のすげえ術をぶち破るんだ」
カカシは輸血中に見た夢をイルカに語っていた。
「それ、お前の言ってた嫌な夢とは違うの?」
「んー、同じだと思うんだけど、見方を変えてみたんだよ。臨場感たっぷりの3Dな映画だと思えば楽しめるかなって」
イルカはカカシの顔を見上げて微笑った。
「じゃ、俺はお役御免かな?」
カカシは屈み、イルカの耳元で小さく囁いた。
「…まさか。お前治ったら、一緒に寝ようぜ」
イルカは口の動きだけで『ばーか』と応えた。
「な、カカシ……それで、どうなったんだ…? 成功…したのか? その…術」
「ん? ええと…そういや、その直前で目、覚めちゃったっけ…」
「…でね、貴方が大怪我して…オレが血を貴方にわけて…それで、貴方は助かるんです…夢の中のオレは、貴方をちゃんと…助けられるんです……いいでしょう? 本当に、平和な…世界なんですよ…」
「まあ、今夜辺り続き、見られるかもね。スペクタクルの」
イルカはふうん、と相槌をうって、ふわ、とあくびをした。
「あ、悪い。…寝ていいよ。疲れちゃったろ?」
「…うん…ごめん……カカシ」
「お前、眠るまで側にいるから…な?」
カカシの頬を涙が一筋伝い落ちる。
「………寝ちゃったんですか…? …イルカ先生…ダメでしょう…? オレがまだ話しているのに、眠っちゃダメじゃないですか……イルカ…先生……ねえ、まだ…続きがあるんですよ……」
カカシはイルカの手を握ったまま、とりとめのない話をしていた。
やがて、イルカの相槌が返って来なくなる。
「…寝ちゃった…? イルカ…」
カカシは微笑み、そっとイルカの手を病院の薄いフトンの中に戻してやった。
「……その世界のオレ達はね、お互いの気持ちを確かめ合ってね……そうして、また一緒に暮らすんですよ……一緒に…幸せに…ずっと……」
カカシはイルカの身体を抱き締め、声にならない咆哮を闇に放った。
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