− HAZAMA −5

 

着信のメロディが2秒流れたか流れないかのタイミングでカカシは通話ボタンを押した。
イルカからの電話を待って、ずっと携帯電話を握っていたのだ。
「はい!」
『あ、俺。…イルカ』
携帯電話を握り締めて、カカシは飛び起きた。
「イルカ! 今どこっ!!」
『どこって…俺んちだよ。ごめんな、夕べ電話出来なくて』
「そんなん、いいけど…あ、婆ちゃんどう?」
『うん、今すぐどうこうって感じじゃない。…トシだからさ、念の為って感じ。親父の方が参っちゃってるんだわ。もー、マザコンかっつの…いいトシしてさ。ま、お袋が先逝っちまったから、気持ちわかるけどな』
カカシは眉根を寄せた。
明るく話しているが、イルカだって祖母が心配で、気が気ではないはずなのだ。
「…そう…」
『お前は? 大丈夫か? …最近お前、情緒不安定な感じだから…本当は一人にしておきたくないんだけどさ』
あはは、とカカシは笑ってみせた。
「うわ、過保護。…って、オレが悪いんだよね。…うん、ありがと。大丈夫だよ」

―――帰ってきて。早く、オレの処に帰ってきてくれ……

その願いは言葉に出来ない。出来るわけが無い。
優しいイルカを苦しめるだけの、カカシの弱音など。
『…そうか? 俺はもうちっとこっちにいるわ。姉ちゃんが運転手代わりにこき使ってくれてなー。婆ちゃんの容態が落ち着いたら戻るから。…んじゃ、また電話する。ちゃんと食えよー。戸締り忘れんなよ』
「わかってるってば。婆ちゃん、大事にな」
ぷつ。
通話が切れる。
たった今までイルカと繋がっていたその携帯電話を、カカシは握り締めた。
「…掃除、しよ」
滅多にかけない掃除機をよいしょ、と引っ張り出す。
もちろん、普段はイルカが掃除をしているのでカカシが触る事は滅多にない、という意味だ。
「キッチン、掃除機かけとかないと…ガラスの欠片残ってたらまずいもんな…」
カカシは何となくスリッパをつっかけて部屋の中を歩いている事が多いのだが、イルカは真冬でも裸足のままのしのし歩き回っている。
自分が痛い思いをするのは嫌だが、イルカが自分の所為で怪我をするのはもっと嫌だった。
掃除機をかけると、案の定何か硬い欠片を吸い込むような音がする場所があって、カカシはいつになく真剣に掃除を続けた。
キッチンからダイニング、リビングと続けて、いつもは互いに不干渉の個室まで掃除する。
イルカの部屋を掃除するなんて初めてだった。
部屋、と言っても始めは一つだった十畳ほどのスペースに間仕切りをして互いのプライベートな空間を作ったものだ。
ベッドと机を置いてしまえば、後はあまり余裕は無い。
カカシが転がり込んでこういう形で同居を始めなければ、イルカはもっと優雅に空間を使えたはずだった。
むろん、カカシは生活の総てをイルカにたかっているわけではなく、部屋代も入れていたし、光熱費や食費も折半している。
要するに、バラバラに一人暮らしをしているより、その方が互いに利点が多いのでイルカも同居を承諾したのだ。
イルカのスペースの出窓に、鉢植えがあるのに気づいたカカシは、キッチンへ戻ってコップに水を汲んできた。
カカシが鉢植えに水を遣る事など、きっとイルカは期待していないだろう。
「…オレだって、これくらいは出来るもんな。…お前がいない間に枯らしたりしないって」
ふと、机の上にイルカのスケッチブックが置いたままになっているのが目に入って、何気なくそれを手にとる。
B5のノートと同じくらいの大きさの、結構分厚いスケッチブックだった。
中学の頃から絵を描くのが好きだったくせに、ただの趣味だと言って、イルカは美術方面の学校へ進もうとはしなかった。
カカシの目には、何とか言う美大に進んだ美術部の奴よりイルカの方が上手く見えたのだが。
そういえば、最近彼がどんなものを描いているのか見ていないな、とカカシはパラパラ、とページをめくり…思わずばたん、と閉じてしまった。
「………う…」
嘘、とカカシは呟いた。
そうっと、もう一度さっきのページをめくる。
カカシの寝顔。
「…ひで〜…あいつ、何時の間に描いたんだよ、こんなん…」
自分の寝顔なんて、見たことは無かったが…ずいぶん子供っぽい顔で寝ているんだな、と他人事のようにカカシは笑った。
ぱら、ぱら、とページをめくるうち、自分が知らないうちに随分彼のモデルをしていた事を知る。
一緒にテレビを見ながら雑談していた時の、自分の横顔。
何やらマジメな顔で新聞を読んでいる自分。
家でだけではなく、学校で同じ講義を聞いていた時に描いたのだとわかるスケッチもあった。
「…何だよ…オレなんか描いてないでちゃんとノートとれっての……あ…!」
ぱら、とめくったそのページも、カカシの寝姿だった。
申し訳程度にタオルケットを下半身に纏いつかせ、全裸だとわかる格好で眠っている。
他の人間の目には、描き手に頼まれたモデルが脱いでポーズを取っているようにも見えるだろう。
だが、これは―――
「……イルカの、すけべ……」
カカシは薄っすらと赤面した。
行為の後、失神するように眠ってしまったカカシを、あろう事かイルカはモデルにしていたのだ。
カカシはしばらく、その自分の絵を眺めていた。
怒りは無かった。
イルカのスケッチのタッチは柔らかくて綺麗で、カカシは彼の描く線が好きだったから。
そして、イルカが描くのは彼が好きなもの、綺麗だと感じたものだという事を知っていたから。
目を閉じている自分の、睫毛の一本一本が丁寧に描かれている。
瞼の上を切り裂く傷痕すら、醜さを感じさせない綺麗な線で写しとられて……肩から腰、シーツに投げ出された腕、指先、薄く筋肉のついた胸…
…すべてが丁寧に……
こんなにもイルカが自分を『見て』いたのだと知って、カカシは胸がつまった。
まるで、今ここで彼の愛撫を受けているかのように身体の芯が火照ってくる。
カカシはそっとスケッチブックを閉じると、元の位置に戻した。
「……イルカ…」
ばふん、とイルカのベッドに倒れ込む。
「…オレ、こんなにお前の事…好きだったのか…な…」
イルカがいない事がこんなにも寂しい。
今までだって何日も顔を合わせないことは何度もあった。
そんな事、大して珍しくもなかったのに。
たった一日、離れていただけなのに不安でたまらなくなってしまった。
情緒不安定だとイルカに言われたが、その通りなのかもしれない、とカカシはため息をついた。
「…イルカの所為じゃない…あの、夢が悪いんだよ…」
今夜もまたあの…『嫌な』夢を見るかもしれないと思うとうんざりした。
夢のクセにやけにきちんと筋が通っていて、それもどんどん不穏な方向へ物語が進んでいる。
カカシは夢の中でやはり『カカシ』と呼ばれる男の視点で、その物語を『見ている』事が多い。『カカシ』がその場にいない場面もしっかり『見える』事もある。
そして、『カカシ』の心理状態はカカシにもシンクロして、彼をいたたまれない気分にさせた。
「クソ、もーイルカが帰ってくるまで寝ない! …ってわけにもいかんしなー…」
いっそのこと、見舞いと称して自分もあちらに行こうか。
そんな考えが浮かんだカカシは頭を振った。
「イルカの言う通り、もー休めねー科目あるしなー…第一、あっちで一緒のフトンなんかで寝かせてくれるわけないしさ」
カカシは諦めたように一際大きく息をつく。
「うん、そうだよ。…ただの夢じゃんか。映画だと思って楽しめばいいんだよな。続きがちゃんと見られる夢なんて、滅多にないんだから得したと思ってー…」

――― 夢の中のオレ…ちゃんと『イルカ先生』を助けられるのかな……

カカシはイルカのベッドに突っ伏したまま、目を閉じた。

 



 

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