− HAZAMA −2

 

がちゃん、という派手な物音でカカシは覚醒した。
自分が、大学の学生食堂で居眠りをしていたのだとすぐに思い出す。
「あーあー、やっちゃった〜」
誰かが、食事ののったトレイを落としたのだ。その惨状に、からかうような女子学生の声がする。
カカシは音のした方をちらりと一瞥したが、すぐに興味を失った。
「も〜…気持ち良く寝てたのにな〜…」
目覚める寸前まで何か夢を見ていた。
カカシが居眠ったのは、ほんの数分だったが人間は数秒で結構長い夢を見るものだ。
「…えっと、何だっけ…」
夢の中で、やたらに急いでいた感覚がまだ残っている。
不安な思いと、あせり。
よく思い出せなかったが、その感覚はカカシの気分を落ち着かないものにした。
カカシは結構よく夢を見る。
同居人のイルカは、夢など見ないと言う。
見ても忘れてしまうだけなのだろうと笑っていた。
そんなのはつまらない、とカカシは思う。
カカシは、夢を思い出すのが好きだった。
現実とは違う、幾つもの世界に遊びに行っているようで楽しかったから。
時々悪夢も見たが、それは現実での出来事が反映されている事が多い。
「試験前とか、レポートの提出が迫っているわけでもないのに、何であせりまくっている夢なんか見たんだろ…」
首を傾げていると、頭に軽い衝撃。痛くはないが、少々ムッとする。
「誰だよ、人の頭を気安く…」
振り返ると、手に丸めたレポート用紙を持ったイルカが立っていた。
「なーんだ、イルカかー」
「何だじゃないだろ。…お前、中庭の掲示板ってちゃんと見ているか?」
「掲示板? …休講のお知らせとか貼ってある奴? だって休講の時はたいてい誰かがケータイにメールしてくれるから…あまり見てないな」
ふう、とイルカはため息をついた。
「…お前、掲示板で法学の教授に名指しされてたぞ。出頭しろってさ」
「何でー? オレ、何もしてないよ。レポートもちゃんと出したし」
イルカは手にしていたレポート用紙をカカシに渡した。
「…そのお前のレポート。俺が準備室に顔出した時、教授に渡された。お前が来ないからってな。再提出だってさ。…お前、もうちょっと慎重にキイ打てよ。変換ミス五ヶ所あるって」
うー、とカカシは唸った。
「直すだけなんだから、唸らない。控え、取ってあるだろ?」
「まーねー」
ふと、イルカが屈みこんで手をカカシの額に当てた。
「…何?」
「いや、何だかお前顔色が…元気なさそうに見えたから…」
あは、とカカシは笑う。
「平気だよ。光線の加減じゃない? ちょっと今、居眠りしてたからさー…何か、夢見悪くって…」
イルカは顔を顰めた。
「こんな所で寝るなよ。風邪ひくだろう」
「うん…イルカ、もう帰るの?」
「ん? ああ、俺は今日はもう講義ないから」
ねえ、とカカシは甘えるように見上げる。
「…オレ、あといっこ出なきゃいけないんだけどさー…イルカ、一緒に出てくれよ」
「何でまた」
「…一緒に、いてよ。……なあ、オレの見える所にいてくれってば」

―――…不安なんだ。

カカシは喉元まで出かけた言葉を飲み込んだ。
「あといっこって、何?」
「……ドイツ語」
「クライン先生か。…うん、つきあってやってもいいぞ。あの先生、美人だから」
「イルカのすけべ」
カカシは幾分不機嫌になる。
「どーせ一番後ろだろ? 座るの。俺、彼女の顔でもスケッチしてる」
絵を描くのはイルカの趣味だった。
いつも、小さなスケッチブックを持っている。
「…あ、そーいう事。…うん、何でもいいや。…一緒にいてくれるんなら」
イルカは少し訝しげに眉を顰めた。
「……カカシ、お前どーした? 変だぞ」
おかしくないよ、とカカシは微笑う。
「…オレはイルカの側にいるのが好きなんだから」


帰りの電車の中でもカカシは元気がなかった。
心配したイルカに何度か訊ねられても、曖昧に微笑んで誤魔化す。
学食で昼寝して見た夢に気分が引きずられて、わけもなく不安で…などとイルカに言えるはずもなく―――言ったところで、イルカは一笑にふすだけだろう。
しかし、漠然とした不安はずっとカカシの胸に重く圧し掛かっていた。





「カカシ先生」
呼ばれて、カカシは振り向く。
聞き慣れた穏やかな声は、いつでもカカシの気持ちを落ち着かせてくれた。
先生、と呼ばれた事に若干の違和感を覚えながらも、カカシも彼をこう呼んだ。
「イルカ先生」
彼の顔の中央に走る傷痕も見慣れたもの。
その誠実そうな表情も。
―――イルカだ。確かにイルカだ。でも、何だろうこれは…いつもと違う。ああ、髪だ。
どうしてこいつ、あんなに高い所で結っているんだろう。いつもは項で髪をくくっているのに…
「カカシ先生、今日はどうしますか? 夕食、俺んちで食います?」
「うう、行きたいです〜…本当にとっても! でも今日は…」
イルカは残念そうに、だが優しく微笑んだ。
「お忙しいんですね。じゃ、また今度にしましょう」
「…あの、イルカ先生…夜中じゃ…ご迷惑……ですよね…? あ、あの…もしかしたら夜中なら行けるかなーって…ハハハ、いや、すいません何言ってんだろ、オレ」
イルカは一瞬言葉を詰まらせた。
「…じゃ、窓の鍵、開けておきます。…今度合鍵作っときますね。でも、お疲れだったら無理をしないで下さい。明日でも、明後日でも…逢えるでしょう…?」
「ええ。…でもオレは逢える時は何時だって逢いたいんです」

――― 一緒にいたい…

イルカは返事の代わりにカカシの指を捉えると、その指先にくちづけた。


 

 

カカシはごそ、と寝返りを打って隣に寝ている男の背中に鼻先を埋めた。
今しがた見ていた夢はやけにはっきり覚えている。
「…変なの…イルカに先生、だって」
「……何? ……」
「あ、悪い…起こした?」
「いや…ウトウトしてただけだから…何? また夢見でも悪かったのか?」
イルカは反転してカカシの方に向き直ってくれた。
「ん? んー…いや、そうでも…あ、お前の夢見ちゃった。さっきまでえっちしてたせいかな。結構激しかったもんね」
イルカは半眼でカカシを睨んだ。
「…お前…いきなり人のベッドに潜り込んできて乗っかりやがったクセに…」
「でも、イルカだってその気になっただろー?」
クスクス笑う幼馴染みを、イルカは複雑な思いで見つめた。
まさか、小学生の時からの腐れ縁とよもやこういう関係になろうとは。
「……俺は、やるからには半端は嫌いなんだ。お前にいい加減に勃たされて、適当に抜かれたなんて胸クソ悪いのはごめんなんだよ」
「わはは、イルカらしいー…あー、でも夢で見たお前、変だったなー…こーね、髪の毛ポニーテールみたいにしててさー…すっごい言葉遣いとかも丁寧なの」
「何だ、そりゃ」
さあ? とカカシは目を細めて笑った。夢だもの。
「……イルカさあ、先生になりたいんだよね」
「うん…? ああ、一応教職希望だけど」
「なれるよ。…オレ、さっき夢ン中でお前の事『先生』って呼んでいたもの。きっと、正夢だな。…あ、でも夢ってやっぱヘンだよな。お前もオレのこと、『先生』だってさ」
イルカは呆れた顔をした。
「夢なんかどーでもいいだろ? 遅番のバイトで疲れたとか言ってたくせに人の腹の上で更に体力使ったんだから、さっさと寝ろよ」
その言葉のぞんざいさとは逆に、イルカの指はそっと優しくカカシの髪を撫でてくれる。
優しい、幼馴染み。
その優しさを、いつまで自分一人に向けてくれるのだろう。
カカシはまた胸に湧きあがってきた不安を紛らわすように目の前の男にしがみついた――

 

 



 

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