分岐点−2

 

「…うわあ、本当だ……」
長い入院生活から解放されて、ようやく自分の住まいに戻る事が出来たいるかが発した第一声。
「ねー? オレ、嘘なんか言ってなかったでしょお?」
いるかの視線の先には、今自分の隣に立っている幼馴染みとそっくりの男がニッコリ微笑んで座っていた。
「お邪魔してます」
「あ、ども…」
カカシににこやかに挨拶されたいるかは、ぎこちなく会釈する。
「そっちも、えらい災難だったね。…退院おめでとう、いるか君」
「あ…いえ…あ、ありがとうございます…」
いるかはまだ片方松葉杖を突いていたが、両手は使えるようになっていた。
「…コイツが見ていたリアルな夢に出てきた忍者…って話でしたけど…」
いるかはこつん、と一歩カカシに近づき、まじまじと相手の顔を見た。
かかしの話では、この男は彼らより八つも年長で、しかもかなり上位の忍者らしい。自然といるかの口調も改まる。
「うん、そうみたい。…敵方の大掛かりな禁術を無理矢理解呪しようとしたものでね…想像以上の反発を食らってさ。…気づいたらここにいた。…反発が激し過ぎて、空間を捻じ曲げたとしか思えないんだけど……きちんとした説明はつけられないな。…オレ自身もまだ信じ難い…」
他所の世界から来た忍者だというこの男は、なるほど顔かたちはとてもよく幼馴染みに似ていたが、雰囲気はまるで違うといるかは思った。
年齢の所為もあるだろうが、あちらのカカシの方が声にも深みがある。
「……不思議な事がある…ものですね…」
「まったくだねえ」
カカシはにこにこといるかを見ている。
八つも離れているカカシ達と違って、いるかとイルカは三つしか違わない。従って、いるかの方は双子の兄弟と言っても充分通るくらいよく似ていた。
かかしに促されて、カカシの向かいのソファに腰を下ろしながらいるかは室内を見回した。
「…あれ…あの、俺ももう一人いるって…聞いたんですけど…」
「ああ、イルカ先生。…彼は今眠っている。…己の持てるチャクラの限界を超えて…ギリギリ以上に力を振り絞って術を行使したのでさすがに回復が遅いんだ。…ここ二日ほど、殆ど眠ってて…もう少しチャクラが回復したら、自分で体内に残っている毒素を分解出来るから…そしたらすぐに回復するだろうけどね。…あ、あっちのベッド、君のかな。ごめんね。ずっと借りていて」
カカシに答えたのはかかしの方だった。
「あ、イルカさんが寝ているのはオレのベッド」
「……え? でもオレ達が最初にあんたの上に落っこちた時は…あっちの、今空いている方のベッドだったよねえ。あっちにあんたが寝てたから、てっきり…」
いるかに咎める様な視線を向けられ、かかしはあっさり白状した。
「うん。あの時オレ、いるかのベッドで寝てたの。…だってさー、寂しかったんだもーん…」
このバカ、と小さく呟いているかは片手で顔を覆った。
「あ、心配しなくてもこの人オレ達の関係知っているから大丈夫だって」
「何が大丈夫なんだよっっ」
苛々としたいるかの声に、かかしはへらりと舌を出す。
「ってゆーかさ、このお兄さん達の方がアツアツなんだもーん。オレずっとアテられちゃってたんだぜー?」 
カカシはぷ、と小さく噴いた。
「ゴメンゴメン。…だってさ、もうバレバレだと思ったら遠慮する方がバカらしいでしょー。せっかく九死に一生で助かったんだし…イルカ先生は本当に死にかかったからね。……あんたも、ひとつ間違ったら危なかったんでしょうが。…かかし君の気持ちも察してやんなさい」
いるかは柔らかいカカシの物言いにふと頬を染めた。
「……あ…はい…」
かかしは少し不機嫌そうにいるかを見遣る。
「何、いるかったら…お兄さんには素直じゃない」
「ばか。何言ってんだよ」
「はいはい、やってなさい。…いいねえ、幼馴染みで同い年だと遠慮が無くてさ。…さーて、オレのイルカせんせはまだ起きないかなっと」
カカシは立ち上がって奥の部屋に足を向ける。
その気配で眼が覚めたのか、イルカの目蓋が持ち上がった。
「…あ、起きました? 調子どうです?」
イルカは指先で軽く眼を擦り、微笑む。
「…だいぶ、身体の痺れとだるさが取れました。こんなに寝てばかりというのは初めてですね」
「解毒できますか?」
「…少し無理をしても、先に解毒をした方が良さそうですね。残っている毒が体力の回復を妨げている様ですから…すみません、手を貸して頂けますか? 身体を起こさないと…」
カカシは頷いてイルカの肩に手を回し、上体を起こしてやる。
「ありがとうございます」
イルカは深呼吸すると、目を閉じて両手で印を結んだ。
一定のリズムで、同じ印を七回切る。
しばらくそのまま動かずにいたイルカが、更に深い息を吐いた。
「…浄…!」
イルカが目の前の空間を刀印で切ると、何かが蒸発するような「ジュッ」という小さな音が微かにはじける。
イルカはパン、と両手を合わせ、解毒の術を終わらせた。
チャクラはまた消耗してしまったが、これで後は普通に栄養を摂って休息すればすぐに元通りになるはずだ。
「お見事。…いつ見てもアナタの印は綺麗ですね。…少し貧血に似た症状があるかもしれませんが、大丈夫ですか?」
「はい…大丈夫です。…解毒の術は久々で。成功しなかったらまずいな、と思ったんですがうまくいって良かったです。…これはまだアカデミーじゃやらないんですよね。…カカシ先生、まだお教えになっていなかったら折りを見てナルト達に教えてやっ…」
そこまで言って、イルカは口を噤んだ。
「……無事、帰れたら…お願いします…」
カカシは黙って頷いた。
リビングから様子を窺っていたかかしが、顔をのぞかせる。
「イルカさん、大丈夫そう? あの…」
カカシは肩越しに頷いて見せた。
イルカの方へ向き直り、耳元でそっと囁く。
「この世界のアナタですよ。…今日、退院してきたんです」
コトン、コトン、と松葉杖を突く音と共に、かかしの後ろから人影がやって来た。
「………」
「………」
二人の『イルカ』は、一瞬無言で相手を見つめた。
「…ど…うも…」
いるかの方が先に何とか音声を発する。
その声にイルカも我に返った。
「…お留守の間にお邪魔して、申し訳ありません。お世話になっています」
ベッドの上でイルカはぺこりと頭を下げた。
「いや…何というか…ああ、あの…具合良くなかったら横になっていた方がいいんじゃ…」
「ありがとう。…大丈夫です。今、解毒の術を行いましたからだいぶ気分が良くなりました。そちらこそ、脚はまだ治りきっていないのでしょう? 無理しないで下さい」
そこでふと、イルカは着ていたパジャマに手を当てた。
「着る物まで貴方の物をお借りして…すいません」
「あ、そんなん気にしないで…って言うか、俺の物なんかでかえって悪かったですね。…かかし、パジャマくらい新しいの買ってくりゃいいのに」
振り返ったいるかに軽く睨まれたかかしは、肩を竦めた。
「先立つものが無くてね。…バイト代、入るの来週だもの。寝巻きはある物で済ませられるけど、食い物はそうはいかないじゃない。優先順位は考えるまでもないよな」
いるかはため息をついて、ぺちんとかかしの後頭部を叩いた。
「もー、お前は何でもかんでも考えなしに喋るな恥ずかしいっ! …まったく…あの、気にしないで下さいね。…その…」
カカシは顎に手を当て、ふむ、と頷く。
「そりゃー、いきなり二つも口が増えたら大変だよねえ…当たり前だわ、そりゃ。……オレ達もすぐに元の世界に戻れりゃあいいんだけどね……悪いけど、いつ揺り返しが来るかわからないしね…」 
「揺り返し?」
鸚鵡返しに訊ねるかかしに、カカシは頷いて見せた。
「…想像だけどね。…これは、とても不自然な現象だろう? 本来、いるはずのない人間が二人もいれば…それも、この世界に既に存在している人間に相当している者が、だ。こ の世界はバランスを保とうと、身を捩ってオレ達をはじき出そうとするかもしれない。オレ達をこちらに押し出したものと同様の力が、いつかまた働くと思うんだよ…つまり、揺り返しが」
「捻じ曲げられた空間が、元に戻ろうとする力ですね? …考えられると思います」
カカシの説明に、イルカも同意を示す。
「ふうん? そっかー…揺り返し、ね」
かかしは曖昧に頷くと、顔を上げてにかっと笑った。
「まー、それじゃあソイツが来るまで、ゆっくりしてたら? オレ達はかまわないから。
なあ、いるか?」
「ああ……まかり間違ったら俺達が、その忍者が普通に存在している世界に飛ばされていたかもしれないんだからな…当然だ」
「え? でも、お兄さん達は術の反発がどーたらって…」
「それに相当するショックがこの世界に無いと言い切れるか? 例えば、ガス爆発とか」
かかしはポンと手を打った。
「あー、なるほどぉ…いるかってば頭いい〜」
「………まあ、ですから…その揺り返しがいつ起こるかわからないけど、しばらくここで静養するといいですよ。…さっきコイツが言った事は気にしないで下さい。俺、今回の事故で見舞金や慰謝料が入るんです。生活費には困りませんから」
いるかは、カカシとイルカに向かって笑って見せる。
「…ありがとう。…でもさ、無理はしないでねー。…ホント、着替えなんかは、良かったら貸してくれると嬉しい。…わざわざ買う事は無いからね」
「着替えくらい幾らでも貸すけどさー、まあホント、気楽にしててよ。…その代わりさ、俺は昼間学校行っちゃうし、バイトもあるし……いるかが無理しないように見張っててくれない? コイツ、一人にすると無理してバタバタ動きそうだからさ」
反論しかけたいるかの口をかかしは素早く手でふさぐ。
「むがっっ」
その様子を眺めていたカカシはにっこり目を細めた。
「ああ、それは想像に難くないねえ。…了解。いるか君はばっちり見張って、大人しく静養させてあげる。なーに、言う事を聞かないようだったら、オレには幾らでもやり方があるからね〜〜安心してお勉強してらっしゃい。かかし君」
「幾らでも…って…」
「忍をナメたらいけませんよぉ。…ま、いるか君が大人しくしててくれれば手荒な事はしませんから。…ね? いるか君」
いるかは思わずこっくりと頷いた。
得体の知れない忍術なんかで自由を奪われるのは怖い。
「手荒って…お兄さんは怖いなあ。…イルカさん、悪いけどいるかとそれからお兄さんも見張っててね…?」
かかしは、たぶんカカシより自分達に近い感覚を持ってそうなイルカに救いを求める。
「……わかりました…ご両人が無茶をしないように気をつけています…」
イルカは心の中でそっと嘆息する。
世界が違っても、彼の心労はなくなりそうも無かった。





抜けるような青空を窓から見上げ、いるかは深呼吸した。
「いー天気だなー…」
「布団でも干しましょうか」
イルカは、いるかの考えを読み取ったかのようにベッドから布団を持ち上げる。
「今さっき、シーツも洗濯機に入れましたから…洗っている間干しておけば丁度いいですよ」
イルカはさっさと雑巾でベランダの手すりを拭く。
「あ、どうも…それにしても貴方達、順応性が高いと言うか…慣れるの早いですね」
ここ二、三日でだいぶ体力が回復したイルカは、当たり前のように家事をこなしていた。
「ははは…こちらの方が少し発達しているようですが、俺達の世界もある程度電化製品なんかもありますしね。…生活レベルでのカルチャーショックはそれ程無いです」
イルカはベランダの手すりに布団を干し、街を眺めた。
いるか達の住まいはマンションの七階で眺めがいい。
「…確かに、こうして眺める景色はだいぶ…違いますけどね。それに、話し言葉は概ね通じるけど、表記文字が少し異なるように思います。見れば大体わかりますが」
ちらりとイルカが走らせた視線の先には、リビングで新聞を読んでいるカカシの姿があった。
そこへ、もう一人のかかしがキッチンから戻って来て一同を見渡す。
「お昼、コンビニ行って何か買ってくるけど〜…皆、何が食いたい? 他にも要る物あったら言ってー」
ぱ、といるかが手を上げる。
「じゃあ単三の電池買ってきてくれ。二個もあればいい。…メシは俺おにぎりがいいな。焼きたらことシーチキンと…梅おかか。後は何かカップ麺でも見繕ってきて」
「焼きたらこにシーチキンに梅おかかね。いるかって冒険しねえなあ」
「お前はチャレンジしすぎだよ。新しい具のおにぎりコンビニで発見する度に試すんだから。…ええと、そちらは何か食いたい物あります?」
イルカは訊かれて首を傾げる。
「え…いや、俺は何でも食いますよ」
カカシは読んでいた新聞を置いて立ち上がった。
「ねえ、かかし君。オレ一緒に行くよ。…何が置いてある店なのかよくわからんし」
「えー? そ、そりゃマズイよお、お兄さん」
「だーいじょうぶよお。オレ、忍者だもん」
カカシは気負いもなく両手でさっと印を結ぶ。
どろん。
カカシとイルカには見慣れた白い煙が立ち昇る。
「………うっそ…」
かかしといるかは驚愕に目を見開いている。
「変化の術っていいます。あはは、驚いた?」
カカシは綺麗な女性に変化した姿で、にっこり微笑んで見せた。
「お、驚いた…」
「げー、忍者ってンな事も出来んのー?」
かかしは夢で色々と見ていたとはいえ、彼らが術で何が出来るのか総て見たわけではない。
どうやら彼らの世界の『忍術』は、自分達の認識している『忍者の術』とは根本的に異なるのだと、かかしもいるかも悟らざるを得なかった。
彼らをこの世界に飛ばした原因である『術』は、かかしも『夢』という形で見ていた為、現実感がまるで無かったのだ。
「これは基本的な術だから、一瞬バケるくらいならアカデミーの子供でも出来ますよ。…変化の完成度や持続時間はやはりレベルが物を言いますがね。カカシ先生くらいだと、そのままで一週間は平気で過ごせるんじゃないですか?」
イルカは苦笑して解説する。
「普通は敵地潜入とか、戦闘時の撹乱に使う術ですね。…ま、買い物に使っても構わんでしょう。つうわけで行くぞー、かかし君」
カカシはかかしを引き摺って玄関まで行き、はた、と立ち止まる。
「あ、しまった…クツがねえか」
「下駄箱の中に確か、姉ちゃんに買わされたサンダル無かったっけ?」
いるかの声に、かかしは下駄箱を開ける。
「あー、あったあった。買わせておいて、荷物になるって置いて行ったヤツね。…これ履く? お兄さん」
かかしは女物の華奢なミュールを出して見せる。
「いいの?」
「いいって。どーせ買ったのはいるかだもん」
「じゃあ、お借りするかな。…イルカ先生、オレが適当に選んで構いませんか? 昼飯」
「お願いします」
カカシはまるで自分の物のように自然な動作でミュールを履き、ひらひらと手を振って出て行った。
「…つくづく、貴方達は別の世界の人間なんだって思いましたよ。…ああいうのは俺達の常識を超えている」 
いるかは松葉杖に滑り止めに巻いておいた包帯を巻き直しながら、自分そっくりに鼻梁に傷のある男を見た。
イルカはカカシが適当に畳んで行った新聞を綺麗に折り直している。
「みたいですね。…まあ、ああいう術は、忍くらいしか使いませんから、一般の方達はこちらの人間と変わりませんよ」
いるかと同じく、項で髪を一括りにしたイルカはすい、と手を出して松葉杖を支え、包帯を結ぶのを手伝った。
「あ、すいません。………前にかかしからあいつの夢の話を聞いた時は…変な夢を見る奴だって…まさか、本当に貴方達が存在する世界があるなんて思いもしなくて…でも、どうしてこんなによく似ているんでしょうね。…傷痕までそっくり同じなんて……」
イルカは彼を見上げて笑った。
「さあ? 神様の悪戯でしょうかね。…たぶん、考えてもわかりませんよ。あるがまま受け入れるしかないです。……それに…何もかも同じじゃない。貴方達は、幼馴染みで子供の頃からずっと一緒にいるのでしょう? …俺はカカシ先生とは…まだ出会って一年と…経っていません…」
「年齢もだいぶ違いますね」
「ええ。…彼は俺より年上だし、忍としても俺が背伸びしたって追いつけない優秀な人です。……彼は上忍で、俺は中忍だと話したでしょう? 上忍っていうのは、忍の世界ではエリートです。ごく限られた人達で…」
いるかは首を傾げた。
「…そうは見えない…」
ぷっとイルカは噴き出した。
「あの人は…自分の地位に胡座をかくのが嫌いなんですよ。…ご自分の技量や仕事には誇りと自信を持ってらっしゃいますけどね。それに、付き合ってわかったけど…優しい人です。ちょっと変わった所もありますけどね」
「…彼が…好き?」
イルカは眼を細める。
「貴方だってかかしさんがお好きでしょう?」
いるかは困ったように顔を伏せる。
「……嫌いなわけはないけど…俺は…よくわからない。…あいつ、近くに居過ぎるから…ずっと一緒で、いるのが当たり前みたいだったから…」
「…俺は…今、世界中で一番好きな人が彼ですよ」
イルカは微笑んで、当惑しているいるかの顔を見た。
「自分が男性をこんなに好きになるなんて想像もしていませんでしたけどね。おかしなものです。…以前に女性を好きになった時とはちょっと異なる感情のような気もしますけど、好きという気持ちに変わりはない。…彼が幸せなら自分も嬉しいし、その…触れたい、欲しいという欲求も覚えます。これじゃどう否定したくても、この気持ちに名前をつけるならそれは恋愛感情というものですよね」
いるかは落ち着かない様子で、手の中の松葉杖を弄った。
「…俺は……いや、俺だって…あいつ、大事だし…その…バレてるらしいから言ってしまえば…身体の関係もある。…あいつ以外の野郎となんかキスする気もしないから…やっぱ、俺にとってあいつは特別な存在なんだろうと…思いますが…」
「それでいいんじゃないですか? 大事で特別で。そんな人と一緒にいられるのは幸せな事じゃないですか」
いるかは息を吐いて、ソファに背を預け天井を見上げる。
「…幸せ…なこと…」
イルカは微笑んで立ち上がり、キッチンに向かった。
ケトルに水を入れ、火にかける。
「幸せだと…俺は思いますよ。好きになれる人と出会えた事そのものが」
まだ学生の立場でいるいるかは、既に教育者になっているイルカの背中を不思議な気持ちで見つめた。
カカシを好きだと。
この世で一番好きだと言い切れる彼が羨ましい気がした。
いるかの中でかかしに対する思いは、仲のいい幼馴染みの延長線からどれほど発展したものなのか。まだそれはひどく曖昧なものだったから。
自分の気持ちを掴みきれないもどかしさに、いるかは唇を噛んだ。



「いやそれがね、結構面白かったですよ、イルカ先生。貴方もこもりっきりじゃつまらないでしょうから、ちょっと外に出てみたらいいですよ」
買い物から帰ったカカシは、にこにこと肉まんを頬張る。
「……お兄さんは出来たら次はもっと目立たないのに変身してよね…道行く男は皆振り返るしさ〜コンビニの店員は鼻の下伸ばしてるしさ〜…皆チラチラこっち見てるんだもの。落ちつかねえったら」
「ハハハ。女の格好する時は、大抵男を篭絡しようって魂胆があるからねえ。ついクセで」
いるかは、興味を示してイルカに質問した。
「変化の術って言うのは、何にでも化けられるんですか?」
「そうですね。…まあ、結構何にでも化けられますよ。人間以外…例えば犬や猫とか…やろうと思えば、無機物にでも。要するに、自分の頭の中でどれだけ具体的にイメージ出来るかですね」
へえ、といるかは感心する。
「動物にも、ですか…すごいなあ」
イルカは胸の前でさっと印を結ぶ。
次の瞬間、いるかの膝の上にぽんっと茶色い塊が飛び乗った。
「うわ、可愛い〜〜〜っ ウェルシュコーギーの仔犬〜〜っ」
歓声を上げたのはかかしの方だった。
いるかは一瞬硬直し、それから恐る恐る膝の上の犬に触る。
「……い、犬の手触り…ちゃんと犬だ…」
仔犬はクゥン、と鼻を鳴らし、いるかの手をぺろりと舐める。
「イルカさん、こっち来て〜〜っ抱っこさせて〜〜♪」
カカシも犬好きだが、こちらのかかしも同様らしい。
仔犬は苦笑するようにちょっといるかを見上げ、それから床に降りてかかしの方へ移動した。
フローリングの床を犬が歩く時独特の、ツメが床をこするチャッチャという音がちゃんと聞こえる。
かかしは嬉しそうに両手を広げて迎えると、イルカを抱き上げた。
「わあ、柔らか〜い。すっげ〜…」
カカシは少し首を傾げて、仔犬の耳に触った。
「ウェルシュ…何だって?」
「コーギー。ウェルシュコーギー。犬種だよ。可愛いよね。俺、大好き」
「…イルカ先生、よくそんな犬知ってましたね」
仔犬はクンクン言いながら壁のカレンダーを鼻で指す。
カレンダーの写真には、可愛らしい仔犬が様々なポーズで愛嬌を振りまいている姿が映っていた。
「……あ、なるほど…暦の写真…」
「イメージ出来たら変化出来るっていうのを実践して見せてくれたんですね。ありがとうございました」
いるかが礼を言うと、仔犬はわん、と吠えてかかしの腕から床へ飛び降りた。
「ああっもうおしまい〜〜?」
かかしが残念そうにしている前で、イルカは変化を解いて元に戻った。
「実物見ていませんから、どうも自信が無くて。…ちゃんとあの写真の犬になってました? サイズは一緒に写っている花やなんかとの比率から見てあれくらいだと思ったのですが」
「完璧、完璧。どこから見てもコーギーの仔犬だったよ」
かかしはまだ残念そうにイルカの前髪をちょいちょいと触った。
「……そんなにお気に召したのなら、今夜さっきのに化けて一緒に寝てあげましょうか?」
「本当っ?」
文字通り飛び上がりかけたかかしの頭を抑えてカカシが唸る。
「却下。…ダメですよ、イルカ先生〜…浮気しちゃ。そんな事したら、オレもさっきの女姿に変化しているか君のベッドに潜り込んで誘惑しますからね」
この部屋にある二つのベッドの、本来かかしが使っている方にカカシとイルカが。もう片方にかかし達が寝ていた。
「ああ、どうせなら俺、猫がいいです。田舎では飼ってたけどこのマンションペット禁止だから。最近猫抱いて寝てないんですよね〜」
真面目なんだか冗談なのかわからないいるかの口調に、カカシもつい追求してしまう。
「女より猫がいいの?」
「女の子じゃ、意識しちゃって寝られないじゃないですか。猫はねー…背中とか撫でているうちに何かこう…気持ちよく寝ちゃうんですよね。一緒に寝ると、布団に毛がつくって婆ちゃんが嫌がるんだけど」
「オレにもその変化の術ってのが出来たらな〜〜…毎晩猫になっているかと寝てやるのに」
かかしは本気で残念そうに、さっきのイルカの印を真似してみる。
「…やっぱ、ダメか」
「印を型通り結ぶだけじゃ術は発動しませんよ。…体内でチャクラを目的の術に見合う分量練り上げて、それから印で術を構成して発動させます。その配分は、理論を元に経験で覚えていくしかありません」
イルカににっこり微笑まれ、かかしは首を竦める。
「う〜ん、出来の悪い生徒になった気分…よくわかんねー…」
「チャクラの概念が無いらしいですから、仕方ないでしょう。…すみません、ついクセで講義口調になりまして」
「うう…今から修行してもダメかなあ…」
「かかし君」
ぽん、とカカシはかかしの肩に手を置く。
「……猫じゃ彼氏とイイコト出来ないよ?」
「そっかー、その通りだねっ! さすがお兄様っ!!」
即座に納得したかかしは、さっさと『忍者修行』を放棄したらしい。
イルカといるかは一瞬顔を見合わせ、互いに胸から深く息を吐き出したのだった。

 

 



 

ここで言う『姉ちゃん』とは。
『逃げ水』に登場しているイルカの従姉妹、紅さんです。彼女はイルカを弟同然に可愛がり、こき使い、甘えているのです。
その彼女が買わせた挙句、荷物になると言って置いていったミュールをカカシ先生が履く・・・(笑)

 

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