分岐点−3
カカシの言う『揺り返し』はいつ訪れるのか。 それは、カカシにしたところで予測は立たなかった。 何しろ、そんなものが本当に来てくれるという保証はどこにもない。 前例も聞いた事がない。 カカシとイルカの話題は自然とそこへ行ってしまう。 新聞紙を広げた上に互いの手裏剣やクナイを並べて手入れをしながら、カカシはため息をついた。 「まあだけどね。…別の世界に飛ばされた事自体、前例があるかどうか」 「……神隠しの中には例があるかもしれませんね」 だが『神隠し』から生還した例は少なく、何か不思議な事を体験していてもその体験談は曖昧で、何者かに拉致された挙句、薬物投与でも受けたのだと見なされるのが普通だった。 イルカはボロ布でクナイの汚れを丁寧に拭いながら窓の外に眼をやった。 「…俺達の話なんか、帰ってから話しても信じてもらえないでしょうねえ」 「あはは…二人揃ってヤバイ薬でも使われて見た幻ですか? …随分リアルな幻覚ですねえ…」 「……これ、まさか幻覚じゃないで…すよね…?」 イルカはふと、不安そうに視線を揺らす。 カカシは微笑んでイルカの顎に指を滑らせ、顔を自分の方に向かせてその眼を覗き込む。 「さあ? …時々、現のような夢を人は見ますからねえ…でも、夢でも何でもオレは構いませんよ。 …貴方と一緒にいられるなら。…ああ、夢を見ているのはオレかもしれない。貴方を失いたくないあまり、貴方が生きている幻を、自ら望んで見ているのかも…」 カカシは唇をイルカの唇におしつけた。 暖かく、適度に柔らかなその感触。 確かめるようなその行為に、イルカは自分からもそっとカカシの唇を吸う。 「……俺、ちゃんとここにいます…」 「うん……」 わかってる、とカカシはくちづけを繰り返す。 「…自慢じゃないですが、オレは瞳術使いですもん。幻術はお手の物。オレにこんなに長い幻を見せられるヤツ、そうそういないでしょ」 イルカが更にカカシを引き寄せようとした時、ガチャン、という扉を開ける音が玄関から聞こえた。 「たーだいまあ…」 病院に行っていたいるかと、それを迎えに行ったかかしが帰って来たのだ。 「おー、お帰り。…どうだった?」 「はい、おかげさまで順調です」 陽気な調子で出迎えるカカシに、いるかは軽く会釈する。 「オレ、買い出し行ってくるねー…何か足りないものあったっけ?」 クツを履いたまま玄関から声を掛けてきたかかしに、イルカが答える。 「トイレットペーパーがちょっと心細いですね。…ええと、後は牛乳と……あの、俺荷物持ちに一緒に行きますよ」 最近はすっかりここの主婦と化したイルカがさっさと玄関に向かう。 「そのまま?」 いるかはまだ杖無しでは歩行が出来ない。 杖を借りて突いて行ったのでは荷物持ちの役には立たないので、イルカは首を捻る。 「ああ…ええと…そうですね。それでは、変化して行きます…」 イルカは無難に、特に印象に残らないタイプの同年代の青年に変化してかかしと一緒に買い物に行った。 カカシはリビングの床に座り込んで、武器の手入れを続ける。 いるかは、興味深そうにその手元を眺め、傍に寄った。 「それ、手裏剣…ですか」 「ん? …うん、ここじゃ必要ないモンだってわかっているけどね…手入れはもう習慣なんでね。 ……まあ、商売道具だから大事にしないとねえ」 カカシは唇の端を上げ、自嘲じみた笑みを浮かべて『商売道具』を掲げて見せた。 その『商売道具』は、すなわち『人殺しの道具』である。 「…キミは嫌じゃない? かかし君は、オレが人殺しだってわかっても、あんまり気にした風じゃなかったけど」 イルカの足は一瞬止まった。 「……だって、それは貴方のお仕事でしょう? 俺は、この国が他国と大きな戦争をしていた時期から随分経ってから生まれていますから、他人の命を奪う事は即犯罪と言う物の考え方をしてしまいますが、戦時下なら敵を殺す事が時として英雄視される事は承知しています。…だから、俺の常識だけで貴方の人間性を判断する事は出来ないと思いますが」 いるかの答えに、カカシは小さく噴き出した。 「…キミもやっぱり『イルカ』だねえ…イルカ先生が言いそうな答えだよ、それは。……でもね、オレも承知しているよ。頭ではわかっていても、感覚が拒否する事はある。そういう嫌悪感は無いの?」 いるかはカカシの顔を見つめたまま、軽く首を傾けた。 「……無いらしいです」 カカシはやっとにっこり微笑んだ。 「ん。…ならいいけど。あんたみたいなタイプは、多少の嫌悪感は我慢できちゃうからね。…イルカ先生がさ…そうだから」 ほい、とカカシは手入れを終えた手裏剣をいるかに差し出した。 「これ、未使用だから。誰も殺してないから安心して触りなさい。…興味あるんでしょ?」 いるかは素直にそれを受け取った。 「ええまあ…この国にもね、ずっと昔にこういう物を使う忍者っていたんですよ。俺達は、それを作り物の世界…小説とか、映画なんかで知っているだけだから、実像とは違うかもしれないけど…それでもね、子供の頃からカッコイイなあって、憧れてました。…男の子なんて、誰でも大抵はこういう武器って好きですよね。何の目的で作られたものかって事はこの際横に置いておいて、ただ単純にカッコイイなって…思っちゃう…」 いるかは手渡された鋼の武器をそっと持ち、平らな部分に指を滑らせた。 「それ、あげようか」 「え?」 カカシはクスッと笑った。 「もしもね、俺達が急に元の世界に引き戻されたりしたら、お別れもお礼も言えないかもしれないから…まあ、記念品代わりに」 いるかの頭の中を一瞬、『銃刀法違反』という単語が過ぎったが、こんな小さなものは該当しないだろうとすぐに思い至る。殺傷能力で言えば、台所の出刃包丁の方が高いだろう。 「…いいんですか?」 「ああ、そうだ。もう一個なきゃね。…かかし君にも」 カカシはホルダーにしまいかけていた手裏剣を取り出し、いるかに渡す。 「それも未使用だから、まだ純粋に男の子のロマングッズだよ」 「…ありがとうございます。…あいつ、喜びそう。何たって、本物ですものね」 いるかは脚を庇いながら立ち上がろうとする。 「何? それ持ったまま立ったら危ないよ」 「あ…何か布で包んでおこうと思って…」 カカシは微笑って、小さな鞄から深い緑色の布を取り出した。 「じゃあ、おまけ。この、白く抜いてあるのは俺達のいる木の葉の里の印しなんだ」 大判のハンカチ程度の布の四隅の一箇所に、くるりと巻いた渦に尻尾がついたような可愛らしいマークが白く染め抜かれていた。 布の手触りは、ハンカチというより風呂敷に近かったが。 「うわ、そんな…」 「遠慮しないでいいよ。…って言うか、そんなもんじゃ御礼にならない程面倒掛けちゃってるから。…そんなモンで良かったら、もらってくれると嬉しい」 「ありがとうございます」 カカシから布を受け取り、いるかは丁寧にそれで手裏剣を包んだ。 「…さっき、そちらのイルカさんと俺が似ているって…そう仰いましたけど…カカシさんはやっぱりうちのかかしよりずっと大人ですね」 「ハハハ。そりゃ、トシ食ってる分くらいはね」 「……あの…」 歯切れの悪いいるかの顔を覗き込み、カカシは微笑む。 「ん?」 「…いや、あの……ちょっと…さっき貴方が仰った事…貴方は、何かイルカさんが嫌悪感を我慢している、みたいな事……何でそう思うんですか……?」 ああ、とカカシは目を伏せた。 「……いや…性質の問題。……あの人の両親って…彼の目の前で殉職しているんだけどね…化け物に殺されたんだよ。その化け物の封印に使われて身体にそいつを宿している子供を…仇を宿している子供を…彼は、自分の懐に入れた。子供には罪が無いと、理性が承知しているから。子供の中に存在する化け物に抱く気持ちは、嫌悪感どころではないだろうにね。……あの人は、優しいけど神様じゃない。自分の、ドロドロした気持ちを持て余して苦しんだ事も…あるだろうよ」 そこでカカシは人差し指を唇に当てて、軽く唇の端を上げた。 「…こんな話したの、彼にはナイショにね。この件に関しては、あの人なりに気持ちの整理をつけてふっ切ったらしいから」 いるかはコクン、と頷いた。 「はい…」 そこで、複雑な笑みを浮かべる。 「本当に、何から何まで鏡写しというわけじゃないんですね。…俺、母はもう他界してますが、親父はまだ生きてますもの。……」 カカシはふわりといるかの髪を撫でて、軽く額にキスした。 「じゃあ、お父さん大事にしなさいね。…彼の分も」 いるかは照れて、ふわっと顔を赤らめた。 「あ…あの……貴方も…その、イルカさんの事…」 「んー?」 「す、好き…なんですよね……いやあの、イルカさんは貴方が一番好きだって…」 カカシは嬉しそうに笑った。 「えー? あの人、そんな事言ったの? そりゃあもう、オレだってイルカを愛しているに決まってるじゃない。でなきゃ、格下で年下の男と寝る理由なんてねえよ。オレ、自分で言うのもナンだけど、プライド人一倍ありますもん。…彼の、魂が好きだな。すごく綺麗な色。…それがね、彼の表情や仕草、言葉に出る。……あの人はオレにとって、すごく大切な存在」 いるかは苦笑めいた笑みを浮かべた。 「…羨ましいです」 「…何で?」 「イルカさんも貴方も。きっぱりとご自分の気持ちが定まっている。お互いを、誰よりも大切で好きだと言い切れて」 カカシはもう一度いるかの黒髪を指でかき上げてやる。 「…キミは違うわけ…? 少なくとも、かかし君はキミが好きだよ? キミをケガさせた相手を、殺したいと思うほどね。……」 「俺は……それは、好きは好きだけど…イルカさん程、はっきりと言い切れない…」 カカシは流れるような動作で立ち上がった。 「…この世界って…同性の恋はタブー?」 はっといるかは顔を上げた。 「ああ、やっぱりそうなんだ…だから同じ男の彼と、寝たりしている事が後ろめたいんでしょ、いるか君は」 「…そうかも…しれません…」 カカシは奥の部屋に足を向け、何かを取って戻って来た。 「これ。…キミが描いたんでしょ?」 カカシが持っているのはいるかのスケッチブックだった。 「この間掃除していた時に、うっかり落としちゃってさ…その時、開いて中が見えたんだ。…上手だったから、悪いかな〜とか思いつつ、他のページも見させてもらったんだよね。…ねえ、キミは、こんな風に彼が描けるのに、描いているのに、それでも自分の気持ちがわからないって言うの?」 いるかの目の前に、以前眠っているかかしを描いた絵が示されていた。 「…あ…」 いるかは自分で描いた、かかしのスケッチから目が逸らせなかった。 カカシの言葉が、すとん、と自分の中に落ちて収まる。 ―――好きなんだ。 唐突に、いるかは納得した。 好きじゃなきゃキスしない。 好きじゃなきゃ抱いたり出来ない。 好きじゃなきゃ…こんな風には描けない――― いるかが顔を上げて、その事を言おうとした時、外からけたたましい悲鳴が聞こえた。 「誰かああーっ! あそこっ 子供が落ちるーっ!」 カカシは咄嗟に声が聞こえたベランダに飛び出した。 「……火事だ…!」 「えっ…」 マンションの、いるか達の住まいの上階から煙が出ている。 いるかは即座に携帯電話を引っ張り出して、消防署に連絡を入れた。 「…子供が煙に追われて、ベランダに出ているんだ…危ないな」 カカシは上方を見上げ、下の道路からおろおろとマンションを見上げている婦人を見下ろしてため息をついた。 「しょーがねー。やるか」 おっこいしょ、とカカシはベランダの手すりに飛び乗る。 「カカシさんっ! 何やってんですっっ ここ、七階ですよっ」 道路の方からも「キャー」と悲鳴が聞こえる。 「…キャー、じゃねえよ、おばちゃん。…あんたが助けを呼んだんでしょうが。…ああ、いるか君。キミは走れないんだから、今のうちに念の為避難しなさい」 「カカシさん! いくら忍者だって、こんな高いところ…」 カカシは手すりの上で微笑んだ。 「だーいじょーぶ。伊達に上忍やってませんから」 煙が噴き出している窓は一階上の部屋だったが、カカシがいるベランダからは間三世帯分離れている。 「玄関から回っている暇、無さそーだから。ああホラ、子供が身を乗り出している。…行きます」 カカシはひょい、と斜め上のベランダに飛び移る。 常識では無理だろう、と思われる距離をあっさりと跳ぶカカシに、いるかは驚愕した。 「…下の階にならともかく、上だぜ…」 しかも、この高さ。 カカシの身体能力と胆力を、改めて認めざるを得ない。 上の階に移ったカカシは、身軽にベランダを飛び移って目的のベランダまで辿り着く。 「よしよし、もう大丈夫だぞー。泣かないで、偉かったな」 カカシは、恐怖に引き攣った顔でしがみついて来た5、6歳の女の子を抱き締め、安心させるようにその背を撫でてやった。 室内を見ると、黒い煙が充満している。おそらく、向こう側は火の海だ。 子供連れで部屋の中を突破して玄関から出るのは無理かもしれない。 「お兄ちゃんに、しっかりしがみついてんだぞ。それから、いいって言うまで眼をしっかりつぶってな」 カカシは手早くそこにあった洗濯ロープを外し、背負った子供と自分の身体に巻きつけて、そのままベランダから身を躍らせた。 遥か下方から、「キャーッ」という悲鳴がまた聞こえる。 いつの間にか集まっていたギャラリーが一斉に上げた悲鳴だった。 「…うるさいってのよ…」 カカシは落下途中にある手すりや壁を蹴って勢いを殺し、最後は猫のようにくるんと回転して着地した。 「はーい、もう眼ぇ開けていいよー」 ギャラリーの驚愕のどよめきの中、カカシはロープを外して子供を下に下ろした。 子供はきょとんとして自分の今いる場所と、さっきまでいた自分の家のベランダを見比べる。 「…お兄ちゃん、ウルトラマン?」 「まあね。…ナイショなんだけど」 子供は涙目でカカシの袖をぎゅっと握る。 「ウルトラマンのお兄ちゃん! ハムちゃんも助けて!」 「ハムちゃん? まだ中にいたのか!」 子供はぶんぶんと頷く。 「お友達なの! ハムスターのハムちゃん! あたし、連れて来てあげるの忘れちゃった…ハムちゃん、死んじゃう…」 「…そっか。わかった」 立ち上がるカカシを、傍観していたギャラリーが口々に止め始めた。 「や、やめなさい! 今は奇跡的に助かったけど、また戻ったりしたら…」 「そうだよ、もう火がベランダからも噴き出している。自殺行為だよ」 「すぐに消防車が来る。消防士さんに任せた方が…」 そして、女の子を宥めるようにおばさんが言い聞かせ始めた。 「お嬢ちゃん。ハムスターはまたパパやママにお願いして買ってもらいなさい。…ね? いい子だから、諦めましょう…」 うえっと女の子はしゃくり上げる。 カカシは女の子の頭を撫で、微笑みかけた。 「ハムちゃん、お友達だもんな。死んじゃったら悲しいもんな。…あのさ、もしオレが行った時にもう死んじゃってたら…そしたら諦めてくれよな」 (ハムスターって何だっけ。…ああ、ねずみだったよな。ねずみ。…あんなんペットにするもんかねえ、普通…まあ、でもこの子がトモダチだっつうんなら友達なんだろうな…) カカシはハムスターの救出の為、再び火事の現場に戻ったのだった。 「あいた」 「どうしたの? イルカさん」 「いや、どうって事…卵ケースの角で指をちょっと…」 ぷくっと噴き出した血を、かかしはポケットティッシュでおさえた。 「さっき、バンソーコーも買ったよね。待ってて。今出す」 「あ、いや大丈夫ですよ。たいした傷じゃないです」 「でもぉ…」 と言い掛けたかかしは、遠くから聞こえてくるサイレンに視線を浮かせる。 「あれ…火事?」 マンションから煙が出ているのが、買い物帰りのかかしとイルカにも見えた。 「ヤバ…っ うちのマンションじゃねえ?」 「…そのようですね。急ぎましょうか」 かかしとイルカは顔を見合わせ、急ぎ足でマンションに戻った。 「うちの部屋からはちょっと離れているな。…でも、いるかとカカシさん、ちゃんと避難したかな…」 「かかし!」 マンションを見上げるかかし達を、目敏く見つけたいるかが声を掛けてくる。 「ああ、良かった。ちゃんと避難してたか。…あれ? カカシさんは…?」 「それが…」 カカシの言に従って、エレベーターで下に降りたいるかと入れ違いに、カカシは再び火事の現場に戻ってしまったのだと言う。 「ハムスターの為にぃ?」 「…やるでしょうね…あの人なら。…すみません、荷物ここに置きます」 止める間も無く。 イルカの姿は一瞬のうちに消えていた。 「カカシ先生!」 煙で視界の利かない外廊下で、イルカは声を張り上げる。 「カカシ先生!」 「…イルカ先生? こっちこっち」 微かに聞こえたカカシの声を頼りに、イルカは移動する。 「…ここですか…話は下で聞きました。女の子のペットはいましたか?」 「今、捜しているんですよ〜〜…何処にいるんだか、聞いてこなかったから。くれば見つかると思ったんだけどねえ」 「……そのペットって、どれくらいの大きさなんでしょう?」 「…ねずみですよ。ねずみ」 「………」 煙と炎の中で、不案内な室内を捜索する対象としては、あまりにも小さい気がする。 ゲホン、とイルカは煙でむせた。 「先生…このままじゃ…」 手探りでカカシの影に手を伸ばしたイルカは、何かに触れてそれを床に落としてしまった。 ガシャン! 途端、「キィッ」という小さな鳴き声。 「いました! 先生、コレじゃないですか? ねずみですよ。…ああ、煙を吸って弱っているみたいだ…」 イルカはそっとカゴからハムスターを取り出した。 「いましたか? まだ死んでいませんね?」 「今のところ。…じゃあ、俺達も避難しましょう。…どうやら、火消しの方達が来るらしいです」 イルカに暖かい毛の塊を渡されたカカシは、それをそっと胸のポケットに入れた。 「潰れませんか?」 「ああ、大丈夫。こいつの周りに小さく結界を張っておきます」 その時ちり、とイルカの首筋を何かが走った。 危険に対する勘。警告だった。 「カカシ先生!」 それと同じ警告を、肌で感じ取ったカカシは咄嗟にイルカを背後に庇って防御壁を張る。 カカシの背後からイルカが腕を突き出し、同じ印を結ぶ。 丁度、解呪の反発を受けた時と逆の位置関係。 カカシが妙な既視感を覚えた瞬間。 耳を劈く轟音が鳴り響き、彼らの視界が真っ白になった。 「……だ、大丈夫ですか…?」 カカシはチカチカする視界を頭を一振りして払い、イルカの姿を捜した。 「何とか…」 イルカの返事に、カカシはほっと肩の力を抜いた。 そして、周りを見回して愕然とする。 「…え…」 目の前に、海が広がっていた。 「カカシ先生…ここ…あの場所…ですよね…」 まさしく、二人で解呪を行った場所であった。 「戻って…来れた…? …」 茫然とカカシも呟く。 天に輝く白い月の光が、波に反射している。 その月の形は、あの夜と同じ。 「…カカシ先生…血が…まだ乾いていません…」 イルカの手には、血まみれの額当てが握られていた。 「時間が…あれから大して経っていない…というわけか…?」 あの、いるかのマンションには十日以上いたはずである。 もぞ、とカカシのシャツの胸ポケットが動いた。 「あら。しまった…ハムちゃん連れてきちまったい」 イルカはカカシのポケットに手を入れ、ぷるぷる震えているハムスターを取り出した。 カカシの結界が効いていて、どこも損なった様子は無い。 「……試してみますか…」 先刻、卵ケースの角で傷つけた指を噛み、イルカは再び傷口から血を絞り出した。 「…さっき、俺の血を拭いたちり紙をかかしさんが持っているはずなんです。同じ傷口からの血ですから、今ならこちら側からの術だけでこの子を送ってやれるかと…」 イルカは左の掌にハムスターをちょこんと乗せ、その血をハムスターの小さな頭にちょいと擦り付ける。 右手だけで刀印を切るイルカの術に呼応して、ハムスターの頭についた血が生き物のように細長く伸び、小さな動物の身体を螺旋状に包み込む。 カカシが何か思いついたらしく、口の中で小さく呟いてハムスターの額を指でちょいと突いた。 次の瞬間、どろん、と白い煙がハムスターを包み、小さな身体は掻き消えた。 「カカシ先生、何を?」 カカシはふふっと笑って舌を出した。 「あの子に伝言を頼みました。…さあて、それじゃあ俺達の忍具や服も呼び寄せましょうかね」 「…出来ます?」 「抜かりはありませんよぉ。こういう時の為に、あらかじめ荷物を一纏めにして術式を張っておきましたから」 イルカはぺこりと頭を下げる。 「さすがです。…では、報告が済んだら…呑みに行きましょうか」 「それ、大賛成です」 「ガスに引火したぞおぉ!」 見上げるかかし達の目の前で、煙を噴き出していた窓が爆発した。 「……っ」 かかしといるかは思わず息を呑む。 「…大丈夫だろうか…」 「あの人達、忍者だぜ? すげえ術、いっぱい使えるんだ…絶対、大丈夫…!」 そういうかかしも不安げだ。 目を凝らして上を見上げていると、いきなり胸に軽くはじけるような衝撃があった。 「うおっ? 何事…?」 かかしは、シャツの胸ポケットがごそ、と動くのを感じて上からそっと手で押さえてみる。 「…何かいる? …い、生きてる…」 ちょうどカカシがハムスターを入れたのと同じ場所に。 そこに、かかしはイルカの血を拭ったティッシュを入れていたのだ。 「ハムスター…だ…」 その、茶色い小さな毛の塊は柔らかく暖かくて… かかしはそっとそれを取り出した。 ハムスターはぴょこっと小さな頭を上げ、黒いつぶらな眼でかかしを見上げる。 『イママデアリガトウ。ブジ、カエレタヨ…』 いるかとかかしは硬直してハムスターを凝視した。 「…しゃべ…った…ハム公が…」 茫然とする二人の背後を消防車がけたたましく通り過ぎて行った。 部屋からは、彼らの物は消えて無くなっていた。 まるで、そんな人間など最初からいなかったかのように。 だが、カカシがいるかにあげる、と約束した手裏剣だけが布と共に残っていて、あの出来事が現実の事だったのだと教えてくれていた。 「…あのハムスターはあれっきりしゃべらねえし…」 「きっと、カカシさんの伝言だったんだよ」 かかしは、彼が自分達二人に、とくれた手裏剣を手に取る。 「良かったね…二人で一緒に戻れたんだね…」 いるかは「そうだな」と同意した後、からかうような笑みを浮かべた。 「それよりお前、皆の前でとんでもねえ離れ業をやってのけた事になってるぜ? どうする?」 「…あ、オレが女の子助けたコトになってんのか〜…」 かかしはちょっと困った顔をして首を捻る。 それから手裏剣をくるくる、と指で回して苦笑した。 「火事場の馬鹿力ってコトにしとくさ!」 また彼らと夢で逢えるだろうか。 かかしはそっと微笑んだ。 |
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はっぴーえんど! 2002/10/6 |