奇跡の海 −8

(注:大学生Verです)
 

オレがはじめに何故、花見をする場所を千鳥ヶ淵にしたいと言っていたのか、イルカはちゃんとわかっていた。
花見の帰り、九段坂の方へ車を回してくれたのだ。
「俺達は先に帰っているから、サクモさんと一緒に行って来いよ。…夜もライトアップされて、綺麗らしいぞ?」
「え? でも………」
ツナデ様も、笑って促してくれた。
「私らは、結構飲んでいるしね。人混みを歩く気分じゃない。…行っておいで」
いつもなら、一緒に行きたがりそうな教授も、黙って手を振っている。きっともう、皆でそういう風に打ち合わせてくれたんだろう。
千鳥ヶ淵は、母さんと同じ名前の場所だってだけで、特別な縁があるわけじゃないんだけど。
ここは、皆さんのご厚意に甘えることにした。
「…ありがとう。じゃあ、行ってきます。…降りましょう、父さん
私達だけ? いいのですか?
…この近くに、桜の名所があるんです。だから、混雑しているとは思うんですけどね。……『千鳥ヶ淵』って、いうんです
サクモさんは、すぐに納得した顔になった。
なるほど。…そう、なんですか………
…実は、母さんとは関係のない場所なんですけど
サクモさんは、ふふ、と笑った。
でも、日本の春は、桜が綺麗なのだと彼女は言っていました。彼女と同じ名前の場所に、桜がたくさんあると言うなら、是非見ておきたいです

 

オレ達は、千鳥ヶ淵緑道を九段から半蔵門方向に向かって歩き出した。桜は既に満開で、風が吹く度に白い花びらが雪のように舞う。さすがに名所と言われるだけの事はあるな。濠沿いを彩る桜の眺めは圧巻だ。
―――それにしても。
ここで、シート広げて花見する気だったのか、オレ。
……なんて無謀な。千鳥ヶ淵緑道って結構狭いんだな。
宴会禁止も納得だ。そんな事したら、通行の邪魔で迷惑この上ないだろう。
ここは、桜の花を楽しみながら散策する場所だな。
凄いですね、桜。………人も、凄いですが
すみません。実はオレもここ、初めてなんです。……やっぱり混んでましたね
こんなに綺麗なんです。みんな、見たいと思って当然でしょう。混むのは仕方ありません。…私は、大丈夫だから気にしないで
でも、スリには気をつけてください
あ、はい。………日本、治安いいけど、スリくらいはいますよね
まあねー。昔に比べると日本も物騒になったらしいけど。諸外国に比べたらマシかもしれないな。
サクモさんは、桜で埋め尽くされた空を見上げた。
………本当に、美しいですね。………昼間に皆さんと一緒に美味しいランチを食べながら見た桜も、とても綺麗でしたけれど。…ここはまた、雰囲気が違う
サクモさんは、さっきからずっと英語だ。ちょっと日本語に疲れたのかもしれないな。
あの濠のボートから見ると、また違った感じでいい景色らしいんですけど………今からじゃ無理ですね
ここを歩くだけでも、十分見応えありますよ
―――本当は、オレじゃなくて、母さんと歩きたかっただろう。………出来る事ならば。
………母さんとは、ドイツ語で話していたんですか?
サクモさんは微笑って首を振る。
いいえ。ドイツ語も多少使いましたけど。彼女とも、その時々で違う言葉でやり取りしていました。…カカシと話していると、その頃を思い出して懐かしいです。…英語は、カカシの方が上手いですけどね
………オレは、父さんがドイツ語オンリーじゃなくて助かりました
マジで。英語が通じなかったら、サクモさんとの会話は教授まかせか、情けないことにゲーム機経由でしか出来ないところだった。
桜を見ながらそぞろ歩き、半蔵門側の内堀通りに出たところでUターン。また九段下方向に向かって戻る。
緑道を半ばまで戻ったところでサクモさんが呟いた。
………今日、カカシと…そしてミナトやイルカ君、三忍野のご夫妻と一緒に桜を見に行って…とても楽しい、幸せな時間を過ごしました
サクモさんが楽しんでくれたのなら、オレは言う事ないな。
オレも、すっごく楽しかったですよ。少し前まで、父さんと花見が出来るなんて想像もしてなかったですから。…父さんの歌と、教授の演奏も良かったし。……最高にいい日でした
…そうですね。最高にいい日。…その通りです。……でも
サクモさんはつい、と手を伸ばし、オレの頭を抱き寄せた。
………もう、ダメです、私は
―――え…っ? …いったい、どうしたって言うんだろう。どこか、具合でも悪いのか?
と、父さん? …ダメって………
慌ててオレは、彼の顔を覗き込む。
疲れました? どこか、座りますか?
…違う。…そうじゃありません。私…私はもう………
オレは固唾を呑んで、彼の言葉を待つ。
…もう君と、離れている事に耐えられそうもない
何かの告白のように搾り出されたその言葉に、オレは口を挟む事が出来なかった。
サクモさんは眉根をきゅ、と寄せて苦しげに首を振る。
………きっと、向こうに帰ってから、今日の事を何度も思い出しては、ため息をつく日々になるでしょう。…日本で、カカシが好い人達に囲まれて暮らしているのがわかって、とても安心したし、嬉しかった。……でも、その輪の中に私はいない。…遠くから、想うだけです。………カカシは今、何をしているのだろう。また怪我などしていないだろうか。何か困ったりはしていないだろうか。ちゃんと、笑っているだろうか。…そんな事ばかり考えてしまう。………そんなのに、もう私は耐えられない。……ダメです
ダメですって………でも、ダメとか言われても………サクモさんの言いたいことはわかるよ?
オレだって、このままずっと貴方が傍にいてくれたらいいのにな、とは思う。
でも、そんな事言ったって………―――
…だから、決めました
―――は?
………何を、ですか?
サクモさんは、決然とした眼でオレを見た。
私、住まいを日本に移そうと思います
オレは、アングリと口を開けてしまった。
―――ちょっと待て!
ヨーロッパを拠点にしている音楽家が、何を言い出すんだ、おい!
……で…でも………父さん、仕事は………
………カカシは、私が日本に来るの、嫌ですか?
―――だからチョット待ってください!
そんな悲しげな眼でヒトの顔見ないでっっ………って、ちょっとデジャブ。
この『訴える眼』の破壊力に覚えが………あ、思い出した。教授だ。『教授と学生は友達になれないのか』とか言ってた時のアレだ。アレにソックリ。
そんな眼、しないでください、お父さん。
………突然の日本移住宣言に驚いて、うろたえてしまったけど。『マジか? 来るなよコラ』とか思ったワケじゃない。思うわけがないでしょうが。
オレだって、逢おうと思えばすぐ逢えるところに貴方がいてくれたら、そりゃ嬉しいですよ。
本当にいいんですか? それで貴方は大丈夫なんですか? ―――って、貴方が心配なだけで。
………でもきっとこの人は、さっきからずっとそれを考えながらこの桜の下を歩いていたんだろう。
大決心に決まっている。
慣れ親しんだ土地を離れ、言葉も違う不案内な東洋の島国に移住しようっていうんだから。
仕事のことなんて、オレに言われなくたって彼自身が一番よくわかっている問題だろう。
なら、オレにはこれしか言えない。
………嫌なわけ、ないでしょう?
サクモさんは、ニッコリと笑う。
ありがとう。………カカシが嫌だと言うなら、ダメだと思っていました。………ありがとう
―――ってまた! 公衆の面前でキスするし、この人は〜〜〜!!(軽いバードキスだけど)
………あああ、見てる見てる………今、女の子が嬉しそーに眼ぇキラキラさせて見てた!(何でそんなに嬉しそうなんだよ)おじょーさーん、ホモカップルじゃありません! 親子です!
ああ、空港でお別れのハグ(キスも)とかならまだ言い訳も出来る…かもしれないが、桜見物のカップルも多いこんな場所でキスなんかしたら、ホモにしか見えねえよな………ガクリ。
ま、アレだ。イルカとキスしている所為か、野郎とのキスに抵抗感が少ない(相手にもよるけど。激しく)オレもオレだし。
そんなオレの胸中など知る由もなく、おとーさんは嬉しそうに微笑んでいる。
まー、いっか。………おとーさんが幸せなら。
そんなコトをボーっと考えていたオレに、彼は更なる爆弾を落としてくれた。

………ミナトの隣の部屋、空いているそうですね
 
―――最上階の、もう片方。
あそこに………おとーさんが………来る?
………何つーか………青天の霹靂。
あらゆる意味で、オレの生活環境が激変する予感。
 

 


―――ああ。
あの時、オレのバイクの前に猫が飛び出して来なかったら。
そして、怪我をしたオレが大学の掲示板でバイトを探したりせず、あそこで教授と出会わなかったら。
オレは一生、父親の素性も顔も知る事はなかったんだと思うと、運命の不思議さを感じずにはいられない。
人生ってやっぱり、何が起こるかわからないものなんだな、としみじみ思う。
今度あの猫を見つけたら、サンマの一匹でもご馳走するとしようか。
 


 

(2010/7/17)



『奇跡の海』はここで一応ENDです。


サクモさんサイドからのエピローグ『雲上にて』 ≫