奇跡の海 −雲上にて

(注:大学生Verです)
 

その瞬間を感じさせない、見事な離陸だった。この機長はおそらく、腕がいいのだろう。
ハイデルベルグ大学に用があるというミナトは、私と一緒に飛行機に乗ったのだが―――早くも眼を閉じて、ウトウトしている。これは彼の特技だな。多忙な彼は、拾い寝がとても上手い。ちょっとした時間に、細かく睡眠をとっている。
だから、身体も持つのだろう。
日本で最も高く、美しい山、富士山が離れていく。
ああ、日本とも―――カカシとも、しばらくお別れだ。
私が『日本に移り住む』と宣言した時の、カカシの驚きようったらなかった。やはり突然過ぎたのだろうか。
―――それとも、たまに逢う分にはいいが、突然降って湧いた父親に始終近くにいられるのは、鬱陶しいものなのだろうか?
ミナトにあの子の存在を教えられた時、私は運命の神に感謝した。
ファイアライト家がパーティの席に私を招いてくれた時。最近私は、ああいう席で歌う仕事はあまり請けていなかったのだが、たまにはいいだろうと承諾した。
あそこで断っていたら、ミナトと会うことも無く。
カカシに繋がる糸は永遠に切れてしまっただろう、と思うとゾッとする。
赤の他人の私達親子の為に動いてくれたミナトにも、本当にいくら感謝してもしきれない。
彼は、根が親切なのだろう。
私が日本に移り住みたい、カカシの近くに来たい、と打ち明けた時も、それならウチのゲストルームに住めばいい、と言ってくれた。
どうせ空いているし、カカシも彼の仕事を手伝っている関係でしょっちゅう部屋に来る。いつでも逢える、と。
とても魅力的な提案だったが、いくら何でもそこまで甘えられない。
それに、職業柄ピアノは要る。彼の隣の空き部屋を見せてもらったが、防音もしっかりしていて理想的だった。
………きっと私は、非常識なことをしようとしているのだと思う。今現在、周囲で私を支えてくれているスタッフ達が、何と言うだろう。
困惑し、私の元を離れていく者も少なからず出るはずだ。
「………ねえ、サクモさん」
眠ったとばかり思っていたミナトがこちらを見ていた。
「貴方のナマ歌、久し振りに聴きました。…やっぱり僕、貴方の声好きだな」
「…ありがとう。私は、貴方のバイオリン初めて聴きましたけれど。とても素敵でしたよ」
お世辞ではなく、本当に。素直でいい音だと思った。
「あは、プロの方にそう言われるとくすぐったいですね。……ね、サクモさん。貴方にとって、音楽って何ですか?」
「え?」
「………才能を生かして職業とした。芸術的な分野で活動する人は皆そうでしょうけど。でも、単に報酬を得る為の手段、というだけではないでしょう?」
「………そうですね。…仕事、としてだけではなく。…音楽は、私が私として生きていくのに、必要なものです。音楽そのものが、私にとっての糧なのだと………そう、思います」
地位や名声を欲して音楽をやっているわけではない。
彼も、そこのところを聞いたのだと思う。
ミナトは、肘掛に乗せていた私の手に手を重ねた。
「…僕は、クラシックをやるのにヨーロッパにこだわる必要は無いと思います。………音楽は、国境を越える。……環境は確かに大事ですが。でも本来、素晴しい音楽は場所を選ばないものなのだと―――あの、桜の下で、たった五人…いえ、六人の聴衆の為に歌ってくれた貴方の声を聴いた時に、そう思いました。」
「………ミナト?」
ミナトは微かに笑った。
「…まだちょっと、迷っているのかな、と思って」
迷いが顔に出てしまったかな。…私も未熟者だ。
遠く海を隔て、カカシとまたメールや電話だけの交流しか出来ないと思うと、身を切られるように辛くて――だから、思い切って日本に移住しようと決意したのに。
「………お見通しですね。今まで築いてきた音楽活動の基盤を、捨てる覚悟でなければ日本には来られません。全く躊躇いが無いと言えば、嘘になります」
「…………大丈夫、ですよ」
彼は、私を励ますように重ねた手に力を込めた。
「…どちらかを捨てる、なんて選択をする必要は、無い。貴方さえその気なら、日本でも十分、今まで通りの音楽活動が出来ます。…僕が、請合います」
私を見る、彼の真っ直ぐな瞳。
彼は、根拠の無い無責任な励ましなどする人間ではない。
私は、決意を新たにした。
「そうですね。…音楽は、どこででも出来る。…貴方の、言う通りです。…ありがとう」

そう。………音楽と、息子。秤になどかけられない。
どちらも大切で、愛している。

―――私はもう、後悔したくないのだ。
 

 

 

 

(2010/7/17)



END