奇跡の海 −7
(注:大学生Verです)
「………うっわ。すっげえ………」 東京近郊にこんな凄いお花見スポットがあったなんて。 広々とした庭に、桜の木が二十本以上植えられている。そのどれもが、見頃を迎えていた。 特に、一本だけあるでかい枝垂桜は、見事の一言だ。 桜だけじゃない。様々な木が花をつけていて、まさに春爛漫といった感じ。 趣きのあるこじんまりとした洋館が、その風景を更に引き立てていた。 「素晴しい庭ですね。こんな所で花見なんて、初めてです。…感激ですよ」 イルカのマジに感激した声に、 そーだろ、そーだろ、とツナデ様は得意そうに頷いた。 「この家の住人は今、アフリカに旅行中なんだ。せっかくの桜を誰も見ないのはもったいないから、是非観賞してくれ、とのことでな。ちゃんと許可は取ってあるから、心置きなく花見をしよう」 この家の留守番をしているという人が、門を開けてくれたんだけど。すごく礼儀正しい、老執事みたいな風情の人で、こんな人を雇っているなんてもしかして凄い家なのでは………? 自来也先生にこそっと訊く。 「………どういうお知り合いの家なんですか?」 「昔、誰もが尻込みした難しい手術を、ツナデが引き受けてな。…見事に三途の川の手前から引き戻してやった患者の家だ。命の恩人だと、ツナデを女神の如く崇めておるのよ」 なるほど、命の恩人か。…それじゃ庭くらいアッサリ貸してくれそうね。 「…それよりも、だ。事情は聞いたぞ。あのお前の親父殿。長いこと行方がわからんかったのを、ミナトが見つけたのだそうだな。………良かったの、カカシ」 自来也先生は、慈愛のこもった笑みで祝福してくれた。 「………はい。ありがとうございます」 行方どころか、顔も名前もわからなかったんだけどね。 サクモさんは、感嘆して桜に見入っている。 微風にサラサラと長い銀髪が舞い、その横顔は満開の桜と共に一枚の絵画のようだ。 ―――おっと。実の親父に見惚れている場合じゃない。飲み会…じゃねえ、お花見の準備しなきゃ。 ワンボックスカーの後ろを開け、先ずはレジャーシートを取り出す。 「どこがいいかな、シート広げるの」 「そこの芝生あたり、ちょうどいいんじゃないか? 直射日光が当らない。そろそろ紫外線もきつくなってきているだろ」 そーね。オレが(眼の事抜きにしても)紫外線苦手なんだから。オレよりも色が白いサクモさんは、更にマズイだろう。 教授はどーだかわからんが、ツナデ様も色白だから日焼け厳禁だろうし。(……それから、徹夜明けの自来也先生も太陽が黄色く見えてそうだし) 教授に手伝ってもらって、三人でシートを広げる。 本当はペグで固定したいんだけど、貸して頂いている他人様のお庭に穴を開けるのはマズイよな? 今日は風が強くないから、荷物置くだけでも大丈夫だろう。 「私も手伝いましょう、カカシ」 カフスを外し、袖をまくろうとしているサクモさんを、オレより早く教授が止めた。 「いや、サクモさんは今日、ゲストですから! ゲストはそういう事をしないものです。…ツナデ様!」 教授に呼ばれたツナデ様は、白いつば広帽子の陰でニコリと微笑む。 「はいよ。…こっちで見ていましょう、アインフェルトさん。準備など、あの子達に任せておけばいいんです」 …うわ、ツナデ様、ドイツ語ペラペラか。…さすが、天才。 「あ…はい」 女性に手招かれては、サクモさんも断れない。彼は素直に、ツナデ様方見学組に加わってくれた。 ふわりと裾が広がる優雅なワンピースに、レースで編んだ高級そうなカーディガンを羽織っているツナデ様は、文句なく美しい。 ああしてサクモさんと並ぶと、自来也先生には悪いけど、美男美女って感じでお似合いだ。 「今回は、亡くなった奥様の法事で、日本にいらしたのだそうですね」 「…正式には、妻ではありませんでしたが。…心の中では、ずっと妻だと思っていた女性の、魂を供養するという儀式に参列出来て、彼女の姉上に感謝しています」 「結婚なんて、紙切れ一枚の事でしょう。…心と心で結ばれ、子供まで儲けたのですもの。貴方と彼女は、夫婦です。…胸を張って、妻だとお言いなさい」 ドイツ語での会話は、オレには半分くらいしかわからなかったけれど。 サクモさんが切なげな表情で微笑み、「ありがとうございます」と言ったので、大方合っていると思う。 オレからも御礼を言います、ツナデ様。 ああいう事は、他人―――しかも、既婚者の女性から言われた方が、説得力があると思うから。 「おお、凄い豪勢じゃないか。美味しそうだねえ」 ツナデ様は、ニコニコと嬉しそうに弁当を眺めている。 「お前さん、やっぱり凄いよ、イルカ君」 「いえ…お口に合うといいんですけど」 健啖家の教授も、満面の笑み。 「謙遜、謙遜。すっごいよ。頑張ったよねー、イルカ君」 そう、イルカは、もの凄く頑張ってくれた。(オレもちょっとは手伝ったけど)何人分だ? これ、と思わず唸ってしまう豪勢な弁当だ。 ツナデ姫様のリクエスト、いなり寿司に太巻き。 おにぎりの中味は、梅干にシャケ、タラコ。昆布におかか。 それから、ハムとキュウリ、チーズ、ストロベリージャムのサンドイッチ。 惣菜も、メモに書き出したものは全て作った。黄金色の唐揚げにブロッコリーの緑とプチトマトの赤が映えて見るからに美味そう。食べやすいように小分けされたポテトサラダの隣には、いい色のローストビーフ。 弁当定番・ダシ巻き卵に、タコさんウィンナだろ、グリーンアスパラとにんじんのベーコン巻き、レンコンの煮物。…それから本当にミートパイも作ったんだよね。 ……………お前、マジで商売始められるんじゃね? イルカ。 飲み物も然り。 任せろと胸を叩いただけあって、ツナデ様の用意してくれた飲み物は、ここで茶店でも開く気か? と思うほど充実している。 でかい保温ポットに、お茶だけで四種類。 ほうじ茶、玄米茶、紅茶、ジャスミンティ。プラス、コーヒー。ペットボトルもクーラーバッグに山程。オレンジジュース、コーラ、ジンジャーエールに烏龍茶。 もちろん、アルコールもビールや日本酒をたっぷりと用意してあった。 そこに、食材のスポンサーになっただけでは満足しなかった教授が、ホールのタルトやパイに、桜餅やお団子までどっさり買ってきちゃって………どう見たって六人分のランチじゃないよね、というとんでもない様相になったのだ。 何人分…と言うか、何日分? …って感じ。 サクモさんも、心持ち眼を瞠っている。 この場を仕切るのは、当然ツナデ様だった。 「さあ、まずは乾杯といこうじゃないか。…この、見事な桜と、心尽くしの弁当に! それから、遠路はるばるお越しになった、カカシ君の父上に」 各々に飲み物が行き渡ったところで、ツナデ様がオレに目配せをする。オレはコホ、と咳払いをしてから、「乾杯!」とプラスチックのコップを掲げた。 皆が『乾杯』と唱和し、和やかに花見の宴は幕をあげたのだった。 ツナデ様は、自分のリクエスト通りのメニューにご満悦だ。 「んふ、美味しいねえ。…ああ、今度はバーベキューなんてのも、いいね。広いところで。どうだい、ミナト」 「そうですね。…カナダとかどーです? 大自然の中で。キャンピングカーで行けば、寝泊り出来ますよ」 ………インターナショナルというかグローバルなレジャー感覚ですね、教授。オレなんてバーベキューとか聞いたら、近所の河原しか想像しなかったよ。 「わざわざカナダまで行くのかい? 面倒だよ。…お前んちのベランダでいいじゃないか。どーせ最上階は広いのがついてるんだろー?」 「あそこは火気厳禁なんですよ、ツナデ様」 「そーなの? つまんないねえ」 サクモさんは、そんな会話を黙って興味深そうに聞いている。本当に日本語、だいぶ聞き取れるようになったみたいだな。誰かが変な事を言うと、ちゃんと反応して微かに笑っている。 「父さん、遠慮しないで食べてください。飲み物は?」 「ありがとう。食べていますよ。…本当に、とても美味しいです。料理、上手ですね」 サクモさんは、イルカにニッコリと微笑む。 イルカも、満更でもなさそうな顔で微笑み返した。 「ありがとうございます」 んはー…。いい光景だわ、オレ的に。 そこで、自来也先生がずいっとサクモさんの方に身を乗り出した。 「…のう、アンタは条件がどうの、と小うるさい方か?」 え? とサクモさんが自来也先生を見る。 「いや、ミナトの奴がな、アンタの声を絶賛しとったから。是非、その歌声を拝聴したいモンだと思っておったんだが。…こんな野外で、しかもノーギャラでは頼めんかな?」 いや、墓地で歌ったくらいだから。野外ってのは問題にしないだろうけど。 「………いいえ。私の歌を聴いてくださると仰るのでしたら、喜んで一曲歌わせてもらいます。…皆さんも、よろしいのでしょうか?」 皆(オレも)、一斉に眼を輝かせてコクコク頷いた。 「お願いします!」 「是非、聴きたいです!」 サクモさんは、はにかんだような顔で頷く。 「では………」 ちょっと待った、とツナデ様が手をあげる。 「アカペラでいいのか? …ちょっと待ってくれ」 ケータイを取り出し、ぺぺぺ、と素早くボタンを押す。 「…ああ、三忍野だ。…うん、ちょっと頼みたいんだが………」 ツナデ様は小声でボソボソとやり取りをした後、ケータイを切ってニンマリと笑う。 「ミナト。…お前、伴奏をおし。今、持ってきてもらうから」 教授はキョトンと眼を見開く。 「………ナニをですか?」 「バイオリンだよ。弾けるだろう、お前」 へえ、初耳。 「バイオリン弾けるんですかー。凄いですね、先生」 教授はぶわっと赤くなった。 「………しゅ、趣味の域だしっ………プロの、耳が肥えているサクモさんの前でなんて弾けるレベルじゃ………月に二、三回触ればいい方だし………」 「ミナト」 サクモさんは、ニコリと笑った。 「貴方が嫌なら、無理強いはしませんが。…出来れば、お願いしたいです」 赤くなった教授が、ううう、と唸る。 あー、葛藤しているなあ………出来ればサクモさんの伴奏をしたいというのと、彼の前で弾くのは恥ずかしい、という板ばさみ。 そうこうしているうちに、家から例の執事さんっぽいおじさんが、バイオリンケースを持って出てきた。 「で、でもそれここのご主人のじゃ………勝手に借りてマズくないですか?」 あ、教授逃げ腰。…でも、尤もな疑問でもあるけど。 執事さん(だろう、たぶん。もう執事さんでいいや)は、柔和に微笑んだ。 「三忍野様のご要望でしたら、何なりとご都合して差し上げるように、と旦那様から言いつかっております。たとえ、これ自体を御所望になられましても、どうぞお持ち帰りください、と仰るでしょう」 ………そうね。バイオリンの一つくらい、命と健康に比べたら安いもんだぁね。恩人の女神様が欲しいと仰るなら、この桜の木でも構わず一本引っこ抜いてリボンつけてくれそうだ。 「そ………そうなんですか………」 退路を断たれたね、教授。 ふはは、と自来也先生が笑った。 「ここの主人のコレクションは、ストラディ・バリウス並の名器だぞ。お前のショボイ演奏でも、楽器に助けられてちったあマシに聞こえるんじゃないか?」 あ、教授ったら恩師の挑発に乗せられました。ムッと唇を引き結んで、自来也先生を睨む。 「言いましたね! わかりました! サクモさんの邪魔をしない程度の音は出してみせますよ!」 執事さんは、丁寧な手つきでケースからバイオリンを取り出した。 「調弦は済んでおりますが、どうぞご自分でお確かめください」 教授がそれを手に取る前に、ス、とサクモさんが教授の手を取った。 「…ミナト。そんなに力が入っていたら、出せる音も出なくなりますよ。…はい、息を吸って………吐いて」 サクモさんは両手で教授の指先を包み、深呼吸を促す。 唇の端にほんの僅かな微笑を浮かべ、伏目がちのその静かな表情は、何というかその……まるで宗教画の聖母の像みたいで、綺麗だ。(…男なのに。しかもデカイ息子のいる) 「自分のバイオリンじゃないんです。いつもと同じ音が出なくても、当然ですから、硬くならないで」 教授も大人しく彼の言う通りに、静かに息を吸って、吐いている。 「…落ち着きました?」 「はい。…ありがとうございます」 「私がよく振るところのコンマスも、こうすると落ち着くと言うので、演奏前によくやるんです」 ………それって、普通? 演奏前にコンマスが指揮者に指を握ってもらうのって。…オレ、あの世界のことはよく知らんけど。 教授が訝しげに眉を顰めた。 「………それ、あのゴツイ人じゃないでしょうね? ぶっきらぼうで無表情の………」 「フガクさんのことですか? そうですよ」 教授は首を振る。 「………サクモさん、悪いことは言いません。…あまり、彼の手を握ってやるとか、そういう事はなさらない方がよろしいかと。…あの人は演奏前にアガるとか、そういう可愛げのある男じゃないと思います」 ………あ、教授が何を心配しているのか、わかった。 あの業界って、その手の嗜好の輩が結構いるって何か聞いたことあるような。実際にその人を見なきゃわからんけど、ちょっとヤバそうな感じの人なのかも。 教授の指摘している事がわかっているのかいないのか。サクモさんは苦笑して肩を竦めた。 「……ああ見えて、彼は結構繊細なんですよ」 「いや、でも…」 教授が更に言い募ろうとするのを、ツナデ様がひと睨みで黙らせた。 「ミ〜ナ〜トォ。…いい加減にしろ、コラ」 「は、はい。スミマセン」 教授はバイオリンを受け取り、調弦を始める。 「サクモさん、何を弾きましょう?」 「貴方の好きなもので、いいですよ。…たぶん、合わせられますから」 「…はい」 教授はもう一回静かに息を吐く。 桜の木の下でバイオリンを構えるその姿は、元々が美形なだけに物凄くサマになっててカッコイイ。 サクモさんも、教授から数歩離れた所に立った。 「………様々な奇跡が今、此処に私を立たせてくれています」 サクモさんはオレを見て微笑み、そして周りの皆にゆっくりと視線を移し。 「……今、この地に立つ奇跡と幸福に。…そして、この美しい桜と、桜を愛するすべての人に」 その言葉を合図に、教授の構えた弓が動き出した。 自来也先生の言った通り、いいバイオリンなんだろうな。門外漢のオレにもわかるほど、よく通る澄んだ音が青空に吸い込まれていく。 そして、桜の花びらが舞い踊る中、深い豊かな声が響き渡った。 ………やっぱり、ナマって違う。 CDなんかとは、全然違う。 彼の声は、凄い。………聞いていると、胸の中にジン、と何かが沁みてくるような。 キラキラと弾けるような、バイオリンの音。 桜の花の舞台で歌う、彼。 夢のような、光景。 ―――マジで、生きてて良かった、と思った。 そして、更に思う。 オレはあそこに立つ人がいたからこそ、この世に生を受けたのだ、と。 |
(2010/7/12) |
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