CROSS-OVER U

 

今日は、父も母も仕事で留守だ。
二つ違いの兄も、まだアカデミーから戻らない。
チャンスだ、とチハヤは階段にそっと足を掛けた。
古い木の階段は、子供の軽い体重にも僅かにきしきし、と抗議の声をあげる。その声をなだめながら、チハヤは階段を昇りきった。
二階の廊下の突き当たりが、彼の目的地である。
チハヤの母、カカシの私室だ。
その部屋には一人で黙って入ってはいけないと言われていたし、母親の持ち物に黙って触るのはいけないことだと、チハヤにもわかっていた。
だが、その部屋―――母の小さな私室にそうっと足を踏み入れると、他の部屋には無い匂いが鼻腔を満たし、チハヤの好奇心をいつも刺激する。
それは、父の書斎とは似ているようでいて、どこかが決定的に違う匂いだった。
その匂いに名前をつけるとすれば、『危険』。
幼いチハヤにはそんな言葉は思い浮かばなかったが、彼は本能でそれ嗅ぎ取っていた。
そして、危険だとわかっているのに、同時にそれはチハヤにとって魅力的な匂いだったのである。
本当に危ないものが部屋にある時は、カカシは子供達が部屋自体に入れないように結界を張ってしまう。
逆を言えば、部屋に入れる時は危なくないのだ、とチハヤは思っていた。
(………部屋に、入るだけだもの。悪戯なんか、しないもの。………だから、少しくらい…いいよね?)
慎重にドアノブを回し、戸を開ける。
午後の陽射しが、硝子窓に施されている装飾の影を木の床に描いていた。
特殊なガラスを透して部屋に注ぎ込む光と、影の競演。
これを見るのも、チハヤの目的のひとつだ。
この窓に陽の光が当るのは、この時期夕陽が差し込む今の時間帯だけなのである。
(…キレイ………)
その窓枠は木製ではなく、頑丈な鉄製だった。この古い家の中で、鉄製の窓枠はこの部屋だけだ。鉄製だが、檻のような物々しさは無い。窓枠と同じ材質で、ガラス全面に蔓草のような装飾を施した、洒落た窓だ。
ガラスも、透明な薄いものでなはく、表面が細かく波立ったような加工のしてある分厚いものだった。
木ノ葉で、こんなガラスを使った窓は他に無い。
母の部屋から他とは違う印象を受けるのは、この窓の所為もあるのかもしれない。
木ノ葉では伝統的な造りの古い家の中で、ポツンと一箇所だけ、異国の香りを漂わせている母の部屋の窓。
チハヤはそれが、遠い鉱の国に住む母の父―――祖父からの贈り物だと、知っていた。
娘の為にわざわざ誂えて、職人ごと木ノ葉に送って寄越したのだ。
チハヤはしゃがみ、床に描かれている影を指先でなぞる。
(………何だか、ジュツシキみたい………)
母、カカシは忍犬使いだ。その呼び出しの時に地面に描かれる召喚の術式を、チハヤは何度か見た事がある。
その光景は摩訶不思議で、御伽噺の魔法のようで面白かった。
(………おれも、忍犬よびだせるようになるのかしら………)
正直言って、チハヤは何が何でも忍者になりたい、とは思っていなかった。
里で生まれ育った子供は、忍になるのが当然だと思うのが普通だ。両親が忍なら、余計に。現に、チハヤの友達はみんなそう思っているようだ。
だが、祖父の国まで旅したことのあるチハヤは、既に『外の世界』を知っている。世界は広くて、忍者以外にも将来の選択肢はたくさんあるのだということを。
忍者になるのは、当たり前のこと、ではないのだ。
周囲は皆、当然のようにチハヤは忍者になるものだと思っている。チハヤが、天才忍者である母カカシに瓜二つの容貌をしている所為だ。
加えて、兄のチドリが幼いながらもやはり天才の片鱗を見せている為、弟のチハヤにも優秀な忍になることを期待している。
周囲の期待は、チハヤには重いものだった。
何故なら、兄ほどの才能が自分には無いということを彼は既に知っていたから。
知っていても、口には出せなかった。
みんなの期待を裏切った時、彼らはチハヤなど見なくなるかもしれない。父や、母も失望するだろう。
それが怖かったのだ。
その過剰な期待さえなければ、チハヤは素直に『お父さんとお母さんみたいな忍者になる!』と思えたのかもしれない。
忍者自体が嫌なわけではないのだ。
嫌なら、忍具であふれている母の部屋が魅力的に見えるはずがない。
チハヤは、床の模様から視線を引き剥がして、立ち上がった。くるりと部屋を見回し、机の上で何かが光っているのに気づく。
(何だろう。キレイ………)
椅子によじ登り、チハヤは光の正体を見た。
「………クナイ………?」
クナイの刃の部分に陽の光があたって、光っていたらしい。変わった形のクナイだ。
刃の付け根から、左右両側に小さな刃がついており、持ち手に呪文が刻み込まれている。
こんなクナイを母が使っているのは、見た事が無い。
チハヤは、そぉっとクナイに触れた。
「こら。お母さんの部屋に黙って入ったらダメじゃないか」
「きゃっ」
ふいに掛けられた声に驚いたチハヤは、三叉のクナイを放り出し、自身も椅子から転げ落ちた。
「あぶないっ!」
椅子から落ちた弟を受け止めようと、チドリは部屋に駆け込んだ。
チドリは弟を抱きとめたが、踏ん張りきれずに二人もつれるように倒れる。そこへ、チハヤの手から離れた三叉クナイが、光を弾きながら放物線を描いて落ちてきた。
刃物から弟を護ろうとしたチドリは、そのクナイを弾き飛ばそうと咄嗟に手を伸ばす。
クナイはチドリの指先を傷つけ、床に突き立った。
途端、床の上に力が満ちる。
「………ッ!」
部屋を柔らかく照らしていた陽の光が、瞬間凝縮して狭い空間をクッキリと明と暗に分けた。
奈落のような闇と、眼も開けていられぬほどの光。
恐怖でパニックを起こしそうになりながらも、チドリは弟を護ることを忘れなかった。
何が起きたのかわからぬまま、周囲の異変から弟を庇おうと、小さな身体をぎゅっと抱きしめる。
(お父さん、お母さん、助けて! チハヤを助けて………!)
弟を抱きしめたまま、チドリの意識は薄れていった。

:::

ふと、チハヤは眼を覚ました。
自分がどこにいるのか、今何時なのかもわからない目覚めは、経験がある。
大抵は、昼寝をしてしまった時だ。
でも、単に昼寝から目覚めたにしては、何かがおかしい。誰かにしっかりと抱きかかえられており、それが兄だと気づいたチハヤは、びっくりした。
「…兄ちゃん………?」
そして、キョトキョトと周囲を見回し、愕然とする。
「………………どこ? ここ………」
自分の家ではない。
いや、家の中ですらなかった。
草の生えた地面。頭上を覆う緑の葉。―――どう見ても、森か林の中だ。
「兄ちゃん、起きて、兄ちゃん」
声を震わせ、チハヤは兄を揺さぶった。
「………ぅ…ん………」
軽く声を漏らし、チドリは眼を開ける。
「………チハヤ………ちゃん…?」
「兄ちゃん、おかしいよぅ。…何でおれ達、お外で寝ているの?」
チドリはガバッと身を起こした。
確かに、外だ。
チドリは探るように周囲を見回し、敵らしき存在が無い事を確認する。
彼は、意識を失う寸前の事を覚えていた。
それは、弟のチハヤも同じだったようだ。
「ごめん…なさい。………おれの、所為だね。………お、おれが………入っちゃいけない部屋に入ったから………おかぁさん、怒って…それで、おれたちを捨てちゃったんだ………」
ぐすすっと涙ぐんだ弟の頭を、チドリは撫でた。
「違うよ。お母さんは、チハヤや僕を捨てたりはしない。………何が起きたのかわからないけど、これは……そう、フソクの事故ってやつじゃないかな」
「フソクの事故…?」
「そうだよ。お母さんは、チハヤが大好きなんだから。危ないことをしたら叱るけど、捨てるなんてこと、絶対にしないよ」
チドリは、先ず弟と自分の身体の状態を調べた。
自分は、クナイで切ってしまった指先以外、ケガはしていない。
「チハヤちゃん、どこか痛いところ無い? 立てる?」
チハヤは自分の身体をポンポン、と叩いてから頷いた。
「大丈夫。立てる」
「じゃ、立って。…ここがどこだかわからないけど、たぶん里の中だと思うし……この感じ、もうすぐ日が暮れると思う。こんな所にいちゃダメだ。家に、帰ろう」
「………うん」
兄の言う事はもっともだったので、チハヤはよいしょ、と立ち上がった。
「ちょっと、待ってて」
チドリは、手近にあった木の枝に飛び乗り、するすると上の方まで登る。
歴代火影の顔岩を遠くに確認し、飛び降りた。
「方向、わかったよ。急ごう、チハヤちゃん。ここ、結構森の奥の方だから、のんびりしていると暗くなるまでに出られない」
兄弟はしっかりと手を繋ぎ、森の出口に向かって歩き始めた。
しばらく黙々と歩いていたチハヤが、ぽつんと呟いた。
「………兄ちゃん」
「うん?」
「………フソクの事故って、どういうこと?」
チドリは首を傾げた。
「んーとね………誰にも予想も出来ない事ってあるじゃない? そういうのだよ。よくわからないけど……たぶん、僕たち知らないうちに、何かの術の発動条件を揃えてしまったのだと思う。きっと、口寄せの反対…みたいなことをしちゃったんじゃないかな」
その推理は、大方正しかった。
チドリの血と、呪文を刻み込まれたクナイと、窓の装飾が描いていた床の『術式』。
偶然が重なり、その『術』は発動したのだ。
だが、天才と言われるチドリもまだ子供だ。術の詳しい分析をするには、知識も経験も足りなかった。
「………ごめんね、兄ちゃん。………おれ、おかぁさんに謝る」
チドリは微笑んだ。
「うん。黙ってお母さんの部屋に入ったことは、謝ろうね」
何かの術が発動して、自分達はこんな森に移動してしまった。
だけど、チハヤも自分も、無事だ。心から反省して謝れば、父も母も許してくれるだろう、とチドリは考えていた。
そこへ。
「こぉらっ! 何処から入り込んだ!」
いきなり頭上から一喝され、子供達は竦みあがった。
「ご、ごめ…なさ………」
咄嗟に謝ろうとしたチドリは、ポカンと相手を見上げ―――そして、全身がホッと安堵感に包まれるのを感じた。
(…良かった、これで帰れる。家に、帰れる………)
先に動いたのは、チハヤの方だった。男に駆け寄り、その足に、ガッシと抱きつく。
「おとーさぁん!」
「お、お父さん?」
父の顔をした男は、面食らったように眼を瞬かせた。
「ちょっと待て! お前ら、何処の子だ?」
安堵から一転。
チドリの顔からスゥッと血の気が引いた。
今のは父の反応ではない。断じて。
「チハヤちゃん! その人から離れて! その人、お父さんじゃない!」

 



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