想いのたどりつく処 −9

 

「先生、オレここ出ていいよね? 怪我ももう大体治ったし」
ある日、診察を終えたカカシは、いきなりそう切り出した。
「だって、身体そのものに異常は無いんでしょ?」
「…まあ、そうだが。……でもなぁ、カカシ君………」
「なら、もうお世話になる必要無いし。………ココにいたって別にオレの記憶が戻るわけ
じゃないんでしょ? 方法、無いんでしょ? じゃあ、いる意味も無いじゃない。…寝て
ばかりいたら身体が鈍るもの。………任務に差し障る」
石榴は思わずカルテを取り落としそうになった。
「おいおい、任務だって?」
カカシは心外そうな眼で石榴を見上げた。
「………オレは忍だよ、先生。………十二年分の記憶を失くしていても、オレは上忍だ。
任務はこなせる。………失くしてしまったものを嘆いたって何も始まらない。それよりも、
戦列に復帰する為の力を取り戻す方が重要だ」
フー、と紅はため息をついた。
「…止めてもムダですね、先生。こうなったら、先生が許可しなくてもこのコは勝手に出
てっちゃいますよ」
石榴もため息をつきつつ、やれやれと首を振る。
「まー、そうだね。止めるだけムダだろうねえ………わかったよ、カカシ君。退院を許可
しよう。………その代わり、定期的に診察に来ること。それから、何かあったらすぐにお
いで。…いいね?」




「はい、着替え持ってきたわよ」
紅はドサドサとベッドの上に着替えを置いた。
「………ありがと」
「これ、綿布と油紙。それからサラシ」
「? ………そんなのどうするんだ?」
紅はビシッとカカシの胸を指差す。
「胸に巻くのよ。…まだお乳が出ちゃうから、油紙はその用心だったんでしょうね。アン
タ、綿布でおっぱい包んでから上に油紙当てて、それからサラシ巻いてたわよ」
カカシは僅かに狼狽した。
「あ…え………そ、そうなんだ………?………」
「まあいいわ。私がやってあげるから、やり方覚えなさい」
「………うん………」
紅は、カカシの服を脱がせた時に見た通りに、サラシを巻いていった。
カカシは大人しくされるがままになっている。
「…カカシ」
「………何」
「…………アンタは、はたけカカシよ」
カカシは訝しげに眉を顰めた。
「………それがどうした」
「…今でも、アンタが女の子だって皆が知ってるわけじゃないって事よ。………知ってい
る人間の方が少ないわ。アンタは、はたけカカシ。表向きは依然として男なのよ」
カカシは無表情に頷く。
「わかった。………じゃあ、オレの性別を知っている人間の名前を教えてくれ。それ以外
のヤツには、男として接すればいいんだろ? …別に、今までもずっとやっていた事だ」
紅は、カカシの性別を承知した上で協力してくれている人間の名前を挙げていった。
「―――と、まあ…これくらいだったかしらね、私の知っているのは。…アンタが私に内
緒で誰かに打ち明けていない限り」
「………環まで知ってんのか。…チッ…前より少し、増えたな。………その、サクラとか
サスケとかいうのは知らん名前だ。誰だ?」
「下忍の子よ。環は今、上忍師としてアカデミーを出た下忍の子達の教官をしているの。
…サクラとサスケは、その下忍。スリーマンセルだからもう一人いるけど、その子はアン
タの秘密は知らないから。…サスケは、ウチハよ。最近、写輪眼を発現させてしまったか
ら、里で唯一の同じ能力者であるアンタが特別に指導教官としてサスケについたの」
カカシはどこか不愉快そうに眉を顰めながら頷いた。
「…わかった。覚えておく」
「それから、もう一人」
カカシはシニカルに薄く笑う。
「………………オレの、亭主って野郎?」
紅が挙げた名前の中で、覚えが無いのはサクラとサスケだけであった。自分を娶ったとい
う、ある意味度胸のある男の名前はまだ聞いていない。
「…そうよ。………名前は、うみのイルカ。…アンタは正式な書類上では、うみのカカシ
って事になるわね。………アンタより、一つ年下の二十五歳。…もっとも、今のアンタの
感覚じゃ十一も年上のオジさんってことになるのかしらね」
カカシは、口の中で「うみの…イルカ」と呟いた。
やはり、カカシの記憶のどこにもその名前は引っかからなかった。本当に、まだ出逢って
いない男なのだとカカシは納得する。
「………わかった。…どーもね、紅サン」
紅は、複雑な思いでそんなカカシを見ていた。
自分の結婚相手に関してはかろうじて多少の興味を見せたカカシだが、子供の性別、名前、
月齢など普通なら気になりそうな事を訊こうとしない。
まるで、わざと無視しているかのようであった。
(………いいえ。意識しないようにしているんだわ。…自衛の為に。………アンタにとっ
て、妊娠出産って………そんなに受け入れられない事だったの………)
この分では、イルカはあの若さで子持ちやもめになりそうだ。
(………どーにかならないものかしらねえ………)
内心ため息をつきつつも、手際よくサラシを巻いていった紅は、余った布の端をカカシに
渡す。
「はい、後はこれを自分で加減して胸の上のとこに挟み込んで。…後はわかるでしょう? 
アンタが昔もこの忍服を着ていたかどうかは知らないけど。私が知っているカカシは、い
つもこのスタイルだったわ。木ノ葉の標準装備ね」
「口布は?」
「………いつも上げたままよ。左眼は額当てで隠してたし。…アンタの素顔知っている人
間なんて、ごく僅かね」
「そうか」
カカシはどこか安心したようにアンダーをかぶった。
「胴衣も新しいの用意したわ。…着ていたのはあっちこっち裂けてたし、ハデに返り血浴
びてたから。ほら、これよ。アンタの持ち物には手をつけてないから、自分で確認して新
しい胴衣に移し替えなさい。腰嚢とクナイ入れはそのままよ」
「…うん」
茶色く変色した血の染みで汚れた胴衣を、カカシは何の感慨もなさげに受け取り、ゴソゴ
ソと内ポケットを探っては中身をベッドの上に置いていく。
大半は紅も見慣れた忍具や、薬などだ。
だが、胸のホルダーから巻物を抜いて中を検めたカカシは、唇を噛んだ。
「………ちくしょう………」
「…何?」
紅の問いかけに、カカシは黙って首を振る。
そして、更に胴衣をまさぐっていたカカシは、襟に触れて首を傾げた。
「………何だ? こんな所にも隠しポケット………?」
胴衣の襟の内側に、一見しただけではわからない小さなポケットがあった。生地の上から
触れてみると、何か金属のような硬い物が入っているのがわかる。
折り返しの間を指で探り、隠しポケットのジッパーを開ける。と、チャリン、と涼やかな
音がして鍵が二つ転がり出てきた。
「………鍵………」
『カカシ』が、どちらの鍵を大切にしていたのか、ひと目で知れた。
ひとつには素っ気無い鉄色の細い輪がついており、ひとつには綺麗な組紐が結び付けてあ
ったのだ。何色もの縒り糸を使った高価そうな組紐だ。
「その、紐がついているのはアンタの家…というか、彼の家の鍵よ。前、使っているのを
見たことがあるわ。………もう一つはたぶん、独身の頃住んでいた宿舎の鍵ね。結婚して
からも、周囲の目を誤魔化す為に部屋を借りたままにしてあるって…聞いたわ」
紅の説明に、カカシは曖昧に頷いた。
「ふぅん………そっか、良かった。…オレ、帰るウチあったんだな。………なあ、そのオ
レが前に住んでいた部屋って、アンタ知ってる? 知ってるなら、教えて。………オレが
十二年前に住んでいた所と同じならいいんだけど」
「…確か、緑枝町の十番地じゃなかったかしら」
カカシはガッカリした顔になる。
「………なんだ。…引っ越したんだ、オレ。…前は白根町だったのに」
「ああ、わかったわ。…何年か前に、老朽化が原因で取り壊しになった上忍宿舎があった
所ね、きっと。住んでいた上忍は、全員引っ越す破目になったって」
「それじゃ仕方ないね………オレにも、ねぐらは必要だもんな………」
カカシは、鍵を二つとも無造作にポケットに突っ込んだ。
そして、手早くベッドの上に広げていた忍具や薬を新しい胴衣に納め、手甲と額当てをつ
け、最後に口布を引き上げる。
そこには、紅が見慣れたいつものカカシがいた。
「悪いけど、迷惑ついでにオレの部屋まで連れてってくれないかな」
「………いいけど。…別に、迷惑じゃないわよ。アンタとは、友達だもの」
へえ、とカカシは軽く眼を瞠った。
「ああ、そう。………そりゃ、驚き。…オレ、女の友達なんかいたんだ。………それもこ
んな、色っぽさがウリみたいな姐さんと友達ねえ………」
「アンタね、私のこと何だと……………………まあ、いいわ」
中味がガキのカカシの物言いにいちいち腹を立てていても仕方ない。まだ、いきなり時に
置き去りにされたような自分の状況に慣れず、混乱している部分もあるのだろうから。
紅はそう自分に言い聞かせ、そっと深呼吸した。
「…それより、彼には逢わなくていいの?」
「彼? ………ああ、イルカって人? ………んー、どうしよーかなぁ………えっと、い
や………何か、億劫なんだよね…気持ち的に。………いや、心の準備が出来ていないって
言うのかな、こういうの」
「………つまり、まだ逢いたくないのね?」
「…………………ん………………」
視線を逸らすカカシに、紅は肩を竦めた。
「…まったく。………そんなんで、ここ出て何処へ行くつもりだったのよ」
「そんなん、どうとでもなる。…最低、野宿でもオレは平気だ」
「バカ言ってんじゃないわよっ」
言葉と同時に手が出ていた。
ぺし、と頭を叩かれたカカシは「痛えな」と紅を睨む。
「アンタねえ………医者の反対押し切って退院した挙句、野宿? そんな事したら、どれ
だけの人がアンタを心配して怒るかわかってる? わかってないでしょう」
「だって」とカカシは拗ねたように口布の下で唇を尖らせる。
「………わかんないよ。………オレのこと…本当に心配してくれたの………先生…だけだ
もの………他の奴らは、何かヘンな生き物でも見るような眼でオレを見る。………オレが
隊長だから命令は聞くけど、用が無ければ近寄ろうともしない。………それが普通なんだ」
紅は呆気に取られた。
本人は、自分が他人を寄せ付けないでいる事を自覚していなかったのか。
女である事を隠す為にそういう風を装っていたのだとばかり、紅は思っていた。
いや、他人との接触を嫌ったのは、やはり性別を隠すのが最大の理由だろう。何せ、周囲
は男だらけだ。
だが。
(―――このコ………本当は寂しかったんじゃ………)
アスマの話では、四代目を失った後のカカシは、ぶっきらぼうで暗くてトゲだらけの扱い
にくい『ガキ』で。僅かでも心を開かせ、信用を得るのに大変な苦労と根気が要ったと言
っていた。
紅が話し掛ければ、饒舌とはいかないまでも割とまともな返答が返ってきていたから、聞
いていた程扱いにくい子供ではないと思っていたのだが。
単に紅が、『性別を偽る必要がない、同性の世話人』だったので、必要以上に警戒しなかっ
ただけらしい。
(そりゃーね。…いくら性別を隠す必要が無い相手と言っても………よく知らない男に女
の子だってコト知られているって方が普通怖いんじゃないかしら。………アスマが警戒さ
れたって無理ないわよ)
「…バカね」
紅はそっとカカシを抱き寄せる。
「三代目がアンタの世話を私にお命じになってくださって、良かった。…心配で、他の人
にアンタを任せる気になんかなれないもの。………だって、大切な友達なのよ。友達で、
アンタが妹みたいに可愛いの、私は。…そんな、寂しい事言わないで、カカシ」
瞬間、身体を強張らせたカカシだったが、紅に柔らかく抱きしめられ、そのゆっくりと語
られる言葉を聞くうちに、だんだん力が抜けてくる。
大人の女性の優しい抱擁は、それだけで安心感をもたらすものだ。母親の記憶が無いカカ
シですら、『母』に抱かれた気分になる。
「―――うん………」
ごめん、と素直にカカシは謝った。
「わかってくれればいいのよ。………私のウチに来る? カカシ。…あまり広くは無いけ
ど、アンタ一人泊めるくらいは出来るわ。ねえ、いらっしゃい。………アンタの部屋、今
はあまり使ってないはずよ。色々と不便かもしれない。………ね?」
カカシは少し考えたが、首を振った。
「…気持ちは嬉しいけど、ダメだよ。………アンタ、独身だろ? 男、泊まらせたりした
らダメだ。ヘンな噂でも立ったら、アンタに悪い」
確かに、カカシは『男』だ。里の、大概の人間からは男として認識されている。
しかし、だからと言って。
「私のことなんか、どうでもいいわよっ!」
こうして、いつも『男』でいなければならなかったカカシ。
その理由を知ってはいても、何だかむやみに腹立たしく、悲しかった。
(―――この子は、女の子なのに………)
忍である事を選び、望んでいるのがカカシ本人なのだとしても、その姿が痛々しく見える。
「………いいのよ、カカシ」
「よくないよ。…………友達なんだろう? オレ、記憶をなくす前のオレの気持ちなんて
わかんないけど。…でも、たぶん、アンタが好きだったはずだ。…だから、ダメ。アンタ
の立場を少しでも悪くするなんて、オレが嫌」
「………カカシ………」
カカシはニコ、と片眼で笑う。
「大丈夫。…ちゃんと屋根のあるところで寝るんだから、心配しなくても。…ね? 案内、
してよ。…オレの部屋に」
「………わかったわ。でも、大人しくしているのよ? たぶん、当分は自宅療養、待機だ
からね」
 

      

 



 

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