想いのたどりつく処 −10

 

たまにしか訪れていないはずのカカシの部屋は、意外ときちんとしていた。
空気も澱んでおらず、つい最近掃除したようにも見える。
「………あら、思ったよりキレイね………」
紅は素直な感想を漏らして、部屋を見回した。
窓際の観葉植物は青々としており、ベッドも清潔そうだ。
水周りも見てみたが、台所、洗面所、風呂場、トイレ。いずれもきちんと掃除してあり、
すぐに使用可能な状態にしてある。
冷蔵庫には、封を切っていない飲み物が数種類。日持ちのしそうな食べ物も幾つか入って
いた。
まるで、ハウスキーパーでもいるようだ、と思った紅は、そのハウスキーパーが誰なのか
すぐに思い当たる。こんな事をする―――というより、出来る人間は一人しかいない。
「………アンタが、こっちに戻るって………わかってたのね………」
「何………?」
紅は苦笑した。
「アンタの、旦那よ。………ホントに、マメな男ねえ………」
え? とカカシは眼を丸くした。
「こ、この部屋………その、イルカって人が掃除したり………してんの?」
「普段は、彼もあまりこちらに来ることはないでしょうけど。…たぶん、退院したらこっ
ちの部屋にアンタが戻るって、予想したんでしょう。だから、部屋に風を通して、いつで
も使えるようにしておいてくれたのよ。………そういう、人だわ」
では、とカカシは思った。
この部屋に入った時に感じた、優しく包み込まれるような心地よさは。
その男のものなのだろうか。
まだ顔も知らない男の、自分に対する愛情を感じてカカシは戸惑う。
「そっか………今度、会って御礼、言わなきゃね」
「アラ、逢う気になった?」
からかうように微笑う紅に、カカシは慌てて手をパタパタと左右に振る。
「いや、今度ね、今度! …えっと、せっかく用意してくれたみたいだから………何か飲
む?」
「そーね。じゃ、頂いちゃおうかしら」


オレンジジュースで咽喉を潤しながら、最近の里の事情、他里との関係などについて一通
りのレクチャーをした紅は、後でまたアスマと一緒に迎えに来るから食事に行こう、と言
って帰っていった。
アスマと紅とカカシ、この三人で共に食事に行ったり、飲みに行ったりということは、日
常的にあったことだから、不自然では無いと。
一人になった部屋で、カカシは寝台に身体を投げ出した。
「………オレってば………けっこー普通に暮らしてた………んだな………」
忍界大戦を乗り切り、九尾襲来の悲劇を乗り越え、逞しく復興したこの里で。
自分も、なんとか五体無事に生き長らえて。
それなりに平和に暮らしていたのだろう。
友達と食事に行ったり、酒を飲んで笑ったり。
そして、想像も出来ないことだが、人並みに結婚して、子供まで産んで。
―――どんな、十二年だったのだろうか。
カカシは胴衣から巻物を抜き取り、眺める。
「………これは………今のオレじゃ使えない………」
術式が高度過ぎるのだ。
上忍になってまだ一、二年のカカシに扱いきれるようなシロモノではない。
六つのホルダーのうち、五つに巻物が収められていた。おそらく、一つは闘いで使用した
のだろう。
残りの巻物も見てみたが、使えそうなのは一つしか無かった。
思わず、ため息が出る。
こんな高度な術を習得するのに、また何年かかるのだろう。
少しずつ、少しずつ。
実感出来ないでいた『失ったものの大きさ』がカカシの心に重く圧し掛かってきていた。
確かに今の自分は既に上忍だ。
しかし、二十六の自分はもっとレベルの高い上忍だったのだ。
十二年の間にどれだけ技を磨き、幾つ術を会得したのだろう、自分は。
「…クソ…ッ…」
こんな事態に陥った自分が情けなく、そして悔しくてたまらなくなる。
カカシはベッドから跳ね起き、居ても立ってもいられず部屋の外に飛び出していた。
紅に大人しく部屋で待っていろ、と言われたのも忘れて。


跳んだ。
高い建物の屋根に跳び上がったカカシは、そこから密集した建物の上を闇雲に跳び始めた。
「………調子わる………」
目測が狂い、思ったとおりに着地出来ない。
怪我で数日医療棟に足止めをくったおかげで、足腰が多少萎えたのも不調の一因だろうが、
最大の原因は今の身体にまだ馴染めていない事だった。
カカシの身長は今、十四歳の頃に比べたら十センチ近く高くなっていた。
腕の長さ、脚の長さが数センチ違うだけで、リーチ、歩幅にもその分差が生まれる。
普通なら、徐々に成長する身体に感覚も自然と沿っていくので問題は無いが、いきなり十
センチも生じた差は、カカシの感覚を狂わせた。
日常的な動きには支障無くとも、戦闘ともなればその感覚の狂いは命取りになる。
「…こりゃ、慣れるまで身体動かすしかないな………鍛錬あるのみ、か」
屋根が途切れたところで演習場の方に眼をやると、十二、三歳の子供達を数名引き連れて
いるアスマの姿が見えた。
「………そういやアスマも今、上忍師だって言ってたっけ………」
カカシの知るアスマは見かけによらず世話焼きで、面倒だと口で言う割にはお節介な男だ
った。カカシにはそれが鬱陶しく思えたものだが、案外アカデミーを出たての子供の指導
員には向いているのかもしれない。
ぼんやりと眺めていると、子供達はアスマに一礼し、その場を離れていった。演習を終え、
解散になったのだろう。
アスマは演習場の柵にもたれて一服している。
カカシは屋根から降りて、演習場に向かった。
自分に向かって歩いてくるカカシに気づいたアスマは、「よう」と片手を挙げてみせた。
「………どーした。こんな所でフラフラしてていいのか? 医療棟抜け出したんじゃねえ
だろうな」
カカシは、アスマの数メートル手前で足を止める。
「…退院許可はもらった。………もう、怪我も治ったし」
「そっか………そりゃ、良かった」
「アスマ」
「………何だ?」
カカシは躊躇うように視線を彷徨わせる。
「えっと………その、あんたとオレは………い、今、どういう関係なんだ?」
関係? とアスマは意外そうな顔で首を傾げた。
「………関係ねえ………兄貴兼、ダチってトコか? 大雑把に言やぁ、同僚だけどな」
「そっか………」
「ンな事訊いてどーすんだ? ………お前の今の認識じゃ、俺は単なる顔見知り程度だろ
う。…いや、何かとちょっかい掛けてくるウゼェ野郎ってトコか?」
確かに、アスマの言う通りだった。カカシはアスマのことを友人だとは思っていない。
否、友人など一人もいないと思っていた。オビトが死んで、リンもいなくなって。
それからは友達と呼べるようなつきあいのある人間など、いなかったから。
「それは………否定しないけど。………でも、友達になったんだろう? オレとあんたは」
アスマはぷはぁ、と紫煙を吐き出した。
「ま………そうだな」
「じゃあ、少し頼みごとをしても構わないだろうか」
「あー、そりゃ構わんが………聞いてやれるかどうかは、内容によるな」
「難しいことじゃない………組み手につきあって欲しい」
アスマは無言でカカシの顔を見た。
カカシは硬い表情でアスマを真っ直ぐに見つめている。
「………嫌か?」
重ねて問うカカシに、アスマはひらっと手を振った。
「ああ、ま…それくらいなら、いいぜ。…んじゃ、今度な」
その暢気な返答に苛立ったようにカカシは叫ぶ。
「違う、今だ!」
アスマは面倒そうな顔でガリガリと頭をかいた。
「…………今、すぐか?」
「そうだ。…早く感覚を取り戻したいんだ」
「う〜ん………しょーがねえヤツだなあ………ったく」
寄りかかっていた柵から身体を起こすと、アスマは伸びをした。
「あー、でもな〜…ガキ共の演習につきあって走り回った後だから、疲れてンだよ、俺。
………ちょうどいい奴がそこにいるから、そいつに相手してもらえや。………おい、先生」
アスマが後ろに向かって呼びかけると、演習場の中からまだ若い男が顔を出した。
「何でしょう? アスマさん」
「手が空いていたら、ちょいとコイツと組み手をやってくれないか?」
「………ちょうど、明日のアカデミーの演習準備が終わったところです。…構いませんが」
青年はカカシを見てニコ、と微笑んだ。
「カカシ上忍は、入院加療中と伺っておりましたが、もうよろしいのでしょうか?」
「…………………」
カカシは黙ってその青年を見た。先生、とアスマが呼んだという事は、アカデミーの忍師
なのだろう。ならば、中忍だ。
「ああ、もう怪我は治ったんだとよ。…で、入院中に鈍った身体のリハビリがやりてぇら
しい。俺は今、その気になれねーから、お前が相手してやってくれねえかい」
カカシはアスマを睨みつける。
「………ふざけるなよ、アスマ。コイツ、中忍なんじゃないのか。…相手になるか」
「あん? 中忍でも、この先生は結構強ぇよ。…やってみてから文句言えや」
アカデミーの忍師と思しき男は、穏やかに微笑んだまま演習場から出てきた。
「…私でよろしければ、お相手致します」
カカシは不機嫌そうに眼を眇めたが、肩慣らしにはこの程度でちょうどいいかもしれない、
と思い直す。
「わかった。………じゃあ、頼む」
「…では、こちらへ」
青年は、演習場の方へ足を向けた。
「…ここでも構わないけど?」
「いえ。…この中の方が他の方に迷惑が掛かりませんので。…それに、物見高い連中に見
物されるのもお嫌でしょう?」
演習場は金網で仕切られているので、忍以外の人間が入ってくることはまず無い。
「まあ…そうだな」
カカシは男の後について演習場に入った。アスマも面倒くさそうについて来る。
少し開けた場所に出ると、青年はカカシに向かって軽く会釈した。
「お手柔らかに」
「…来い」
相手の出方を見ようと思ったが、青年は右足を後ろに引いただけの構えで気負いも無く立
ったまま、動かない。
(………中忍にしては、落ち着いている。………上忍相手に、随分余裕じゃないか?)
向かってこないなら、とカカシは一歩、足を踏み出した。
二歩目で加速し、相手の懐に飛び込む。
この間合いで外した事など、まず無かった。だが、青年は軽く身体を捻っただけでカカシ
の一撃目を避ける。
(…クソ、やっぱり相当勘がニブってるかっ…)
カカシは矢継ぎ早に攻撃を繰り出した。
だが、当てるつもりで放った拳、蹴りが何度やってもかすりもしない。
(何だ? この中忍っ…)
まるで、動きを読まれているかのようだった。
いくら退院したばかりと言っても、そう何日も寝込んでいたわけではない。自分の身体の
変化に慣れていないというのも、格下の中忍相手に一度も打撃が入らない理由にはならな
いだろう。
(この男が強いのか―――それとも、オレの力はそんなに落ちているのか?)
カカシの胸中に、不安と焦りが生じる。
と、今まで攻撃を避ける一方だった青年がスッと身を沈めたかと思うと、次の瞬間カカシ
の身体は宙を舞っていた。
カカシは咄嗟に空中で身を捻り、着地する。着地してから、相手に投げ飛ばされたのだと
認識したカカシは愕然とした。
見ると、既に青年はカカシの方には注意を向けておらず、見物していたアスマの所に足を
向けているところだった。
「………どうだ?」
アスマの問い掛けに、男は首を振った。
「…思ったよりも、深刻ですね。………これはマズイかもしれない………」
カカシの頭にかぁっと血が昇る。
「待てこらっ! まだ終わってないだろう!」
青年は静かに振り返った。
「今のは、私が知っている貴方の動きではない。…身体の動きが悪過ぎるんですよ。……
…いきなり組み手は早いかと。もっと、段階を踏んでリハビリした方がいいと思います。
ヘタをすると事故に繋がりますよ」
「………何だって………?」
カカシは青年を睨みつけた。彼はひるむ事なく、カカシを諭すように穏やかに続ける。
「私は以前、貴方とは何度も手合わせをしているのですよ、カカシさん。………私が稽古
をつけて頂いていたのですけど。…だから、貴方の動き方はある程度予測がつくのですが。
それでも、避けることは難しかったし、ましてや貴方を投げ飛ばす余裕など無かったです。
…だが、今の貴方は………まず、スピードが落ちている。そして動きにムダがある。中忍
の私に、容易に次の動きを見切られてしまうようでは、話にならないでしょう」
確かにその通りだった。
現にカカシは、この男に一発も当てられなかったのだから。
カカシは自分の両手を眺め、絶望的な気持ちになった。目の前の青年は、アカデミーの忍
師。つまり、内勤が主だろう。その内勤の中忍にすら歯が立たない今の状態では、任務復
帰など到底無理だ。
「………クソ………ッ………」
「…大丈夫です。………貴方は強い。すぐに、元通りに動けるようになりますよ。…だか
ら、今は無理をしないでください」
青年の声に、自分を案じ、労わる響きを感じたカカシは、眼を上げる。
この中忍は、何者なのだろう。
年の頃は二十五、六。
艶やかな黒い髪、黒い瞳の目許は涼しげで、鼻梁を横切る古い一筋の傷跡が特徴的だ。
そして、カカシのことを知っている―――男。
「………あんたは………誰………?」

―――オレの、何?

青年は、切なげな微笑を浮かべた。
「………うみの、イルカと申します」
 

      

 



 

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