想いのたどりつく処 −8

 

カカシは、ベッドの上に半身を起こしてぼうっと窓の外を眺めていた。
―――十二年。
最初は、何を言われているのかわからなかった。
自分はつい数日前まで戦場にいたのに。
敵を倒した時に飛び散った血の匂い、断末魔の叫びまで生々しく覚えているのに。
その戦いからもう十年以上経っているなんて言われて、すぐに信じられるわけがない。
だが、目の前に突きつけられる事すべてが、十二年と言う歳月の経過を証明していた。
少し年老いた三代目、主治医の石榴。そして、自分の知っている姿よりもずっと大人にな
っていたアスマ。
何より、自分自身の身体だ。
覚えの無い傷跡が増えている。そして、ぎすぎすとした未熟な少女の身体ではなく、細身
だがまろやかな女性の身体に変化していた。
「………オレなんかでも胸、ちゃんと出っ張るんだな………」
触ると、たぷんとした柔らかく張りのある感触が掌に伝わる。これが自分の身体だとはと
ても思えない。鏡に映った顔も、自分だとはわかるものの、やはり見慣れない別人のよう
に思えて気持ちが悪かった。
「…………オレ…………」
ここにいる自分は、本当に自分なのだろうか。
はたけカカシなのだろうか。
「だって…………オレ…………」
何よりも、あれから十二年も生きていたというのが衝撃的だった。
何故、自分は死んでいないのだろう。
何故、『先生』のいない世界でそんなに長く生きていられたのだろう。
彼のことを思い出すと、胸が締めつけられるように痛んだ。
先生は、死んだ。
置いていかれたのだ。
生きろと言われた。自ら死を選び、後を追う事は許されなかった。
カカシの眼から涙があふれる。
今度こそ、自分は本当に独りになってしまった。
辛くて、悲しくて、どうしようもなくて。
過酷な戦闘の中に身を置いていれば、いつかは自分も死ねるだろう。誰かが、自分を殺し
てくれる。先生のところに逝ける。
里の為に戦って死ぬなら、先生も許してくれるはずだ。
―――そう、思っていたのに。
いざとなったら、浅ましく生に縋りついたのだろうか。
「…オレは………死ぬことも………出来なかったのか………っ………」
思わず自分の乳房を強く握ってしまったカカシは、「ぎゃあっ!」と悲鳴をあげた。
「何っ…どうしたのカカシッ!」
悲鳴を聞いて病室に飛び込んできたのは、紅だった。
カカシの護衛と見張りを兼ねて、ずっと病室の外にいたのだ。
カカシはベッドの上でおろおろと蒼くなっていた。
「…………む、胸………胸から………何か出た…………」
「え………?」
微かに母乳の匂いがして、紅は思わず脱力した。
「何だ………良かった………」
「よ、良かったって何だよ! 何コレ変だよ、こんなんっ!」
カカシは涙をこぼしながらパニック寸前になっていた。
紅はカカシの肩にそっと手を掛ける。
「………いい子ね。大丈夫だから、落ち着きなさい。………お乳が出ただけよ」
「お、ちち……が出た…だけ」
カカシは鸚鵡返しに呟いた。
「………おちちって………お乳? 大人になると…誰でも出るのか………?」
ふうう、と紅はため息をついた。
「困ったわねえ………でも、嘘を教えるわけにもいかないし………あのね、カカシ。冷静
にね。…落ち着いて、聞くのよ?」
カカシはウン、と頷いた。
「…いいこと? お乳は、大人になっただけでは出ません。どんなに大きなおっぱいの人
でも、子供を産まないと母乳は出ないの。………そういうふうに出来ているのよ、女の身
体は」
カカシは神妙な顔で紅の言葉を頭の中で反芻していたが、やがて「えええっ」と素っ頓狂
な声をあげた。
「そ、それって、まるでオレが子供産んだことあるみたいじゃないかっ!」
紅はますます困ったように微苦笑を浮かべた。
「………記憶が無いんだから、産んだ事覚えてなくても仕方ないんだけどね。………そう、
あるのよ。…アンタは、赤ちゃんを産んだの」
ぱくぱくぱく、とカカシの口が金魚のように開いたり閉じたりした。あまりの事に、声が
出ないらしい。
「………この事は、もっとアンタが落ち着いてから言おうと思ってたんだけど………うう
ん、本当は言うべきかどうかも迷っていたのよ。…アンタが思い出せないのなら、知らな
い方がいいかもしれないって………」
カカシが疑問に思わないように、心の中でイルカとカカシ、二人に謝りながら彼女の左薬
指から結婚指輪も抜いておいたのだ。
カカシがどんなにイルカからもらった指輪を大切にしていたか、それを知っている紅は胸
が痛んだが、今は仕方ない事として指輪は預かっている。
「………でも、そうよね、隠しおおせるわけがなかったんだわ。………アンタまだ、お乳
が出るんだったのよね………」
カカシの顔は、血の気が失せて真っ白になっていた。
「………こ………っ…こど………オ、レが………こ………産ん、産んだ……っ…?」
いくら世間知らずで晩熟なカカシでも、子供がどうやって出来るのかという知識くらいあ
った。
妊娠とは、女性の卵子と、男性の精子の結合。
それは、つまり―――………
ヒク、とカカシの咽喉が鳴る。
「カカシっ!」
紅は咄嗟にベッドの下に置いてあった洗面器をあてがう。
カカシは蒼白になって吐いた。
「うっ………げえぇ…っ………」
ゲホゲホと咳き込みながら、カカシは涙を流して更に嘔吐した。
目の前がグラグラする。
妊娠した。子供を産んだ。
―――つまり、男のモノを体内に入れられた、という事だ。
覚えがなくとも、想像しただけで生理的嫌悪とおぞましさに胃の腑が捻れそうだった。
「…な、ぜ………っ………里、の命令…かっ」
子孫を残せと命じられたのか、とカカシは悲鳴にも似た声をあげた。
カカシの頭には、それが自分で望んだ妊娠かもしれないという考えは、微塵も浮かばなか
ったのである。結婚しているのかもしれないという可能性もまったく頭に無い。
紅は、カカシの背中を優しく擦った。
「ごめんね。ショックだったのね。…でも、安心しなさい。アンタは、誰にもそんな事、
強要されなかった。………今のアンタには信じられない事………なのかしらね。…アンタ
はね、妊娠した事を喜んだのよ? そして、お腹の子供を必死になって護っていたわ。…
ちゃんと、自分の意思で産んだのよ」
カカシは嘔吐感そのものを忘れたように硬直する。
「………オレ………の意思?」
「…そうよ。………ついでに言うなら、別に強姦されたわけでもないと思うわよ?」
カカシはまた吐きそうな顔をした。
「オレ………何で………」
「何でって………」
その時、軽いノックの音が聞こえた。返事を待たず入って来たのは、主治医の石榴だった。
「回診の時間だよ。…今朝は熱は無かったようだね。………ん? どうした? 吐いたの
か。どこか痛むかね?」
紅はさっと医師の肘をつかんで廊下に引っ張っていった。
「どうしたね、紅君」
紅はヒソヒソと声を落とした。
「カカシの嘔吐は、精神的なショックによるものだと思います。…何かの拍子に、あのコ、
お乳が出てしまったんですよ。………そうなったら誤魔化しきれないでしょう。…仕方な
く、子供がいるって事を教えてしまったんです。………そしたら、いきなり吐いて………」
ううむ、と石榴は唸った。
「………いかんな。………十四歳だろう? その頃のあの子は、そういう方面に関してま
るで子供だったんだ。男で通している子に、女を武器にした任務が命じられるわけがない
しな。だから、そのテの教育や訓練を受ける必要もなかったし、第一あの子自身、自分が
女だって自覚に乏しくてなあ………」
紅は更に声を落とす。
「…でも、先生。あの反応は、男とナニしなきゃ子供は出来ないって知ってるからじゃな
いかと………」
「そりゃ、一応の知識は無いと困るからね。私が基礎的な性教育はしておいたんだよ。曲
がりなりにも忍者が、コウノトリ信じてちゃマズイだろ」
もっともな話だった。
頭痛をこらえるように紅はこめかみを押えた。
「………つまり、知識だけはあって、尚且つ今のあの子にとってその行為は吐くほど嫌悪
するもの、といったところなんですね。………わかりました。ともかく、彼女を着替えさ
せて、ベッドを綺麗にしてあげるのが先ですから。先生、回診はしばらく待って頂けます?」
「ああ、すまんね。じゃあ、頼む」
紅が病室に戻ると、カカシはぼうっとベッドに座り込んでいた。
「………カカシ。先生には待ってもらうように頼んだからね。着替えましょう。…そのま
まじゃ気持ち悪いでしょう? ついでにシーツも替えましょ? ね? もう吐き気はな
い?」
紅に促されると、カカシは逆らわずにベッドから降りた。怪我の治癒に従って、ふらつく
事も少なくなっている。
紅はサッとベッド周囲のカーテンを引いた。
「寝巻き汚れちゃったでしょう。ほら、脱いで。身体も拭いてあげる。サッパリするわよ」
カカシはベッド脇の椅子に座り、のろのろと寝巻きを脱いだ。
紅は手際よく洗面台で手拭いを絞り、カカシの背中を丁寧に拭いてやる。
カカシはポツリと呟いた。
「………なあ………」
「…何? カカシ」
「………オレ、誰の子…産んだんだ………?」
紅の手が止まった。
「………誰の…? ………まさか……アスマ?」
紅はカカシの前に回り込み、優しくそっと彼女の頬を両手ではさんだ。
「………アスマなら、良かったの?」
カカシは首を横に振った。
「…違う。…でも、可能性を考えたら、あり得る気がしただけだ」
この病室を訪れたのは、医師を除けば里長である三代目と、カカシを波の国まで迎えに行
った紅。そして、アスマだけだ。
もしかしたら、とカカシが思っても不思議は無い。
「残念ながら、違うわ。…でも、子供の父親の名前を今私が言っても、アンタにはわから
ないわよ。………十四歳のアンタがまだ、出逢っていない人だもの。………彼がここに来
ないのは…来られないのは、アンタが彼を知らないからよ」
紅はカカシの眼を覗き込む。
「………アンタ、もっと知りたい? ………それとも、今までの十二年は無かった事にし
たい………?」
カカシは即答出来なかった。
少しだけ考え、首を振る。
「………知ったところで、それはオレにとって単なる情報だ。実感などわかないし、それ
で失ったものを取り戻せるとも思えない。…でも、その………『彼』っていうのは、オレ
の何だ? 恋人か? それは少しだけ気になる」
紅は微笑んだ。
「…そうね。………まだお互いに恋人気分が抜けていないみたいだったけど。…でも、ア
ンタ達は正式に結婚している………彼とアンタは、火影様もお認めになった夫婦よ」
「―――ふう、ふ…………」
カカシはボンヤリと繰り返した。
「………やっぱり、実感なんかわかないや。………そう。オレ、結婚なんかしてたんだ…
……へえ………」
やはり他人事にしか思えないな、とカカシは自嘲気味に笑った。
「逢いたい?」
「………ん?」
「逢ってみたい? 彼に」
カカシは心持ち首を傾げた。
「ん〜、別に………知らない人だもの。………オレ、そいつ好きだったのかな?」
紅は半眼で睨む。
「アンタは、好きでもない男と寝たり結婚したり、ましてやその男の子供産むようなタマ
じゃないでしょーがっ! 見ているこっちが馬鹿馬鹿しくなるくらいのイチャイチャっぷ
りだったんだから!」
「…………あ、そ…………」
「………………何よ。反応、薄いわね」
「…本当に実感ないんだから仕方ないだろう」
実際に逢ってみなければ何とも言えないが、この木ノ葉に自分が惹かれるほどの男が四代
目以外にいたんだろうかと、疑問に思う。
そして、もしも逢ってみてその気になれなかったら―――………その男には悪いが離婚だ
な、とカカシは淡々と考えていた。

      

 



 

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