想いのたどりつく処 −7

 

きらり、と青空に光るものが見えた。
環は手庇で空を仰ぐ。
やがて光るものは鳥の姿になり、環の腕に舞い降りた。
それに目敏く気づいたサクラが駆け寄る。
「先生っ! 里から?」
「………ああ。そのようだ」
鳥の足から小さな筒を外し、丸められている紙を取り出す。
紙を広げ、文面に素早く眼を走らせた環は思わず険しい表情になった。
教官の表情を見たサクラは、途端に不安そうに瞳を揺らす。
そんな少女に気づいた環は表情を和らげてみせた。
「…大丈夫、カカシも紅も無事、里に着いた。………カカシは里に戻る途中で眼を覚まし
たそうだ」
ほーっとサクラは安堵の息を吐いた。
「良かったァ………」
環は、子供達に告げるべきかどうか、一瞬迷った。
だがすぐに、サクラ達にもカカシの記憶喪失の件は知らせるべきだと判断する。カカシの
言う通り、齢は若くとも、この子達は忍なのだ。
それに、本当にカカシが記憶を失ってしまったのなら、黙っていてもいずれは知れること
である。
「サクラ、ナルトとサスケは建設現場か?」
ガトーという脅威は去ったが、一応、橋の完成までは見守り、タズナを護衛するのが七班
の任務だ。
「はい。午後から私もおじさんの護衛につく予定です」
「では、おいで。…皆に、言っておきたいことがある」
サクラは黙って頷いた。



環の話を聞いた子供達は、驚き、そして三者三様に憤る。
サクラは怒りをストレートに口にし、サスケは黙って唇を噛み。そしてナルトは敵の忍者
にひとしきり悪態をついた後、急にしょげた。
「………これってさ………やっぱ、オレの所為………かな。オレが飛び出したりして…カ
カシ先生の、邪魔…したから………」
環はぽんぽんぽん、とナルトの頭を軽く叩いた。
カカシが倒れてからこっち、ナルトにはどこか元気がなかった。
この悪戯坊主は、見かけによらず繊細な子だ。あれからずっと、自分を責めていたのだろ
う。
「…いや、お前の所為じゃない。………再不斬と闘った後で、カカシは酷くチャクラを消
耗していた。フォローに入るべきは、私だったんだ」
環はあの時、戦闘そのものには参加していなかった。一番戦う余力があったのに、敵のタ
ーゲットをまだタズナだと思い込んで、カカシのフォローに入るのが遅れたのだ。
責任は自分にあると、環は思っていた。
「………先生」
サスケが、真剣な顔で環を見上げていた。
「記憶を失ったあの人は、どうなる? 忍術や技術も記憶ごと失ったんだろう? ………
その、忍として………」
環は首を傾げた。
「私には断言は出来んがね。………でもたぶん、そういう面での支障は無いと思う。確か
に、ここ十数年の経験と会得した術を失ったのは痛いと思うが。………十四歳なら、カカ
シは既に上忍だった。忍として持っている能力は、決して低くない」
へえ、とサクラとナルトは感心した。
「………カカシ先生って………そんな子供の頃から強かったの………?」
「ああ、知らなかったのか? カカシが中忍になったのは、六歳の時だぞ」
子供達は絶句した。
では、もし仮に敵がもっとカカシの記憶と能力を奪ったとして―――六歳の幼児にまで退
行したとしても。カカシは、自分達よりも強いのだ。
「………それって何だか……スゲエってばよ………」
「………ど、どんな六歳児………?」
「……………………………………」
そういえばそうだった、とサスケは思い出した。カカシの事が知りたくて、色々と調べた
時にそういう情報は手に入れていたのに。
環はくしゃりとサスケの髪をかきまぜる。
「お前の指導役は当分出来なくなるだろうがな。…写輪眼に関しては、まだそう扱い慣れ
ていない頃だろうから」
「………記憶は………戻るんだろうか………」
「…わからない。一般的な記憶喪失とは、違うから。私には何とも言えない………」
記憶が戻る、というのは、脳の中の記憶が実際は消えていない状態だから可能なこと。
カカシの場合、記憶は封じられたのではなく、奪われたのだ。無い物をどうやって思い出
すというのか。
心は十四歳。
身体は二十六歳。
この差を、カカシはどう受け入れただろう。いや、受け入れられただろうか。
そして、イルカ。
カカシの記憶が奪われたことで一番の悲劇に見舞われるのは、夫のイルカとその息子、チ
ドリだ。
十四歳のカカシが、夫と子供の存在を認めるのは難しいだろう。
環は、暗澹たる気持ちになった。
(………………すまん、イルカ。…すまん、チドリ。………………カカシを護れなかった
私を…許してくれ………)
 
 
火影の遣いを終えたイルカは、大門を潜ったところで守衛当番の忍に呼び止められた。
「イルカ先生。…三代目が、執務室ではなく火影屋敷の方へ来るように、との事です」
「…了解です」
イルカは早足で火影屋敷に向かった。
屋敷にはチドリがいる。まさか、あの子に何かあったのだろうか。
イルカは不安な気持ちを抑えつつ、屋敷の門を叩いた。
「うみのイルカです」
門はすぐに開き、初老の女性が出迎えてくれた。三代目の孫達のばあや、ヨネだ。
ヨネの腕には、父親の姿に喜び、しきりにこちらに手を伸ばしている息子がいた。
「ほぅら、チドリちゃん。良かったわね、お父さん帰ってきて」
「………ヨネばあちゃん………」
イルカはホッとしながらチドリを抱き取った。
「…すみません、いつもお世話をお掛けしまして」
「なんの。…それに今回は旦那様がイルカちゃんに無理を仰ったのでしょう? 気にしな
いでいいんですよ」
腕に抱いた息子には特に異常は見当たらない。では、チドリが原因でこちらに呼ばれたわ
けではないという事か。
「ヨネさん。…俺は直接こちらに来いと言われて来たのですが………火影様はこちらにお
いでなのですか? まさか、三代目………どこかお加減が?」
ヨネは僅かに顔を曇らせた。
「………いいえ。…旦那様はお元気でいらっしゃいますわ。でも、イルカちゃんをこちら
に呼んだ理由はあると思います。…私が申し上げる事ではありませんので、どうぞそれは
旦那様にお聞きになって。………さ、チドリちゃん。お父さんはまだお仕事よ。こっちに
いらっしゃい」
イルカは息子をヨネに預けながら、内心首を傾げていた。
「三代目は、書斎ですか?」
「ええ。お待ちになっています」
「では、失礼します」
イルカはヨネに頭を下げ、チドリの髪を撫でてから足早に屋敷の中に入った。
火影屋敷の中は我が家同然だ。最短のルートで書斎までたどり着くと、扉を叩いた。
「三代目! イルカです。ただ今戻りました」
「―――お入り」
三代目の応えに、イルカは扉を開ける。
「失礼致します」
三代目はイルカにちらりと微笑をみせた。我が子の無事を喜ぶ、父親のような笑みだ。
「三代目の親書、確かにお届けしました。こちらが、先方のお返事になります」
イルカは懐から封書を取り出して、三代目の机に置いた。
「ご苦労じゃったの」
三代目はその封書をイルカの前で開くことはせず、そのまま机の抽斗にしまった。
そして、煙草盆からキセルを取り上げ、ことさらゆっくりと火をつけ、一服する。
三代目がその煙を吐き出すまで、イルカは何も言わずに一連の所作を見ていた。
やがて、痺れを切らしたようにイルカはポツリと呟く。
「………三代目」
イルカの促しに、三代目はやっと眼を上げた。
「………………いや、すまん。お前をここに呼んだのは…いつ誰が飛び込んで来るやもし
れん執務室では、話しにくい事を言わねばならんからじゃ」
イルカはすぐにピンときた。
「………カカシさんの事ですか? 彼女に何か………」
うむ、と三代目は頷いた。
「実は、環達七班に先んじて、カカシは既に帰還しておる。………波の国で想定外の敵に
出くわしてな。二度、写輪眼を使って闘う破目になったのじゃ。…ああ、そんな顔をする
な。大丈夫、大した怪我はしておらん」
イルカはホッと息を吐いた。だが、表情はむしろ硬くなる。
「………そうですか。………でも、環先生たちよりも先に戻ったんですね? ………何故、
です」
三代目は言いにくそうに何度かキセルを吸い、はあっと大きく吐息をついた。
「………………イルカ」
「はい」
「お前にはショックな事だと思う………が、黙っているわけにもいかぬ。………あのな、
イルカ。………カカシは………今のカカシは、お前の妻ではないのだ」
は? とイルカは声に出さずに口だけを開き、眼を瞠った。
「…いや………カカシは今、お前の事を知らんのだ。その、存在すら」
イルカはしばし、火影の言葉の意味を考えた。持って回った言い方だが、それは、つまり。
「―――彼女に…俺に関しての記憶が無い、ということですか」
よく、声が震えなかったものだ。
イルカはぎゅっと拳を握りしめ、里長の言葉を待った。
「………うむ。正確には、ここ十二年ほどの記憶が綺麗さっぱり無いのだ」
そこで三代目はようやく、事の次第を、順を追ってイルカに説明した。
話を聞き終わったイルカは、事の重大さに言葉を失う。
「…今は、医療棟の特別室に入院している。………あの子にとっても、かなりのショック
だったのだな。知らぬ間に、十二年経っていたのも同然なのだから。…すぐに現実を受け
入れられなかったようじゃ。…あの、カカシが……あの、気丈な子が………悲鳴をあげて
気を失った。………目が覚めてからも、茫然自失でな………ろくに食事もとらんそうだ」
イルカは血が滲むほど唇を噛んだ。
「………彼女は………精神状態も記憶も、十四歳まで戻ってしまった………のですね。俺
の事も、お腹を痛めて産んだチドリの事も………すべて、覚えてはいない………」
「………イルカ………」
「彼女には………俺のことは言ってないのでしょう?」
三代目はすまなそうな顔で頷いた。
「お前には悪いが………まだ、そんな話が出来る状態ではないのでな………」
「いいえ。………当然です。…まだ十四歳の女の子に………お前には夫と子供がいるだな
んて…………とても、言えません…よね」
それに、子供の時の自分には、女性だという自覚そのものが乏しかったのだと、カカシ本
人が言っていた。十四歳頃のメンタリティしか持たない彼女が、男性との恋愛を考えられ
る程『女としての意識』を持っているのか、怪しいところだ。
ましてや、出産など考えられるわけもないだろう。
「三代目」
「………何じゃ」
「………三代目は、どうお考えですか。………彼女の奪われた能力と記憶。………取り戻
す手段はあるとお思いですか?」
三代目は、むう、と唸った。
「…気休めは言わぬ」
「…………………………」
「可能性は、低い。………だが、全く無い、とも断言せぬ。そう言えるほどの情報が無い
からじゃ」
諦めろ、と言われたに等しかった。
イルカはぐっと拳を握りしめることで耐える。
「…今日は、アカデミーの方に顔を出さんでいい。………チドリを連れて、家にお帰り。
………カカシの事は、追って連絡する」
「………はい。息子が、お世話になりました」
イルカは一礼し、書斎から出て行った。
その背を見送り、火影はまた大きく嘆息した。
イルカは、両親を失ってから孤独な日々を過ごしていた。
カカシも、四代目を失ってからずっと独りで生きてきた。
その孤独な者同士がお互いを求め、結ばれ、やっと幸せな家庭を持ったというのに。
「………まさか、こんな形で壊されようとは………」
イルカの胸中を思い、三代目の胸もまた我が事のように痛んだ。
 

      

 



 

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