想いのたどりつく処 −6

 

「………十四くらいまでの記憶しかないってのは………随分と中途半端な記憶喪失だな」
医療棟に向かう道を歩きながら、アスマは渋面で紅を見た。
紅はため息をつく。
カカシの『記憶喪失』が発覚してから、もう何度ため息をついたかわからない。
「…そうなのよ。………私を覚えていないのも仕方ないわ。あのコが十四歳の頃って、私
とまだ知り合ってないもの。…でも、たとえ知り会っていたとしても、今の私を見てすぐ
わかるわけもないわよね。私だって、十二年前とは随分変わったもの」
今のカカシは、紅どころか夫であるイルカも覚えていないし、自分が子供を産んだ事も忘
れてしまっているのだ。
アスマもまた、大きなため息をついた。
「それはオレもな………十二年前だろ? 多少の面変わりはしてるわな。………しかしま
あ、選りにもよって、一番ややっこしい頃のカカシかよ………」
「………ややこしい?」
「………北の国境で大規模な作戦があったのは、あの九尾事件の半年くらい後だ。………
あいつが、敬愛する師匠だった四代目を失って、他人に対して心を閉ざしていた時期なん
だよ。自暴自棄にもなっていたんだろうな。一番扱いにくかった頃のカカシだ」
そういえば、と紅は思い返した。
紅は額当てをしていたのだから、すぐに木ノ葉の同胞だということはわかったはずだ。
なのに、カカシは底冷えのするような眼で彼女を睨みつけ、殺気を隠そうともしなかった。
(―――あんなカカシの眼、初めて見た………)
あれは、拒絶だ。
拒絶と、不信。
カカシにあんな眼を向けられたことが、今更のように紅の心を傷つける。
項垂れた紅の肩を、アスマはなだめるように軽く叩いた。
「まあ…よく、あんなのを連れ帰って来れたもんだよ」
紅は肩を竦めた。
「………あのコが十四歳だって答えた時、ヤバイと思ったのよ。これは何を言ってもムダ
だって、直感的にわかった。………だから、咄嗟に麻酔薬をぶっかけて眠らせたの。後は
もう、ひたすら馬車を飛ばさせたわよ」
「………そ、そうか………そりゃご苦労さん………」
アスマは医療棟を見上げ、ゴキリと首を回した。
十年以上前の記憶なので仔細はあやふやな部分もあったが、確か国境の大戦の前には既に
アスマはカカシの性別を火影から教えられ、彼女を保護監視する役目を仰せつかっていた
はずだ。
(………あの頃のカカシかよ。………ああ、マジに面倒くせえ………)
彼女の心を開かせるのにどんなに骨を折り、時間が掛かったことか。思い出すと流石のア
スマもうんざりした。
だが、やっと彼を信頼してくれたカカシの、はにかんだような笑顔を見た時。コイツは俺
が守ってやろう、とアスマは心に決めたのだ。
(………決めたからにはな。またあの陰気なじゃじゃ馬に戻っていようと、放り出すワケ
にはいかんよな………)




 
 
 
そのカカシは、酷く不機嫌な顔でベッドにいた。
重要な任務遂行中だったというのに、いつの間にか馬車に乗せられ、紅とかいう女に強引
に眠らされ、気づいた時は医療棟のベッドの上。
―――そういう認識しかないカカシは、剣呑なオーラを遠慮なく撒き散らしている。
不機嫌の理由はもう一つあった。
何故か両手をベッドに括り付けられ、ご丁寧にチャクラ封じの札まで貼られていたのだ。
これではいくらカカシでも身動きが取れなかった。
自分を医療棟から逃がさない為の措置だということはわかったが、何故ここまでするのか
がわからない。
まだ作戦は終了していないはずだ。
何故、作戦の要だった自分を強引に里に連れ戻し、拘束するのか。
カカシは奥歯を噛み締めた。
(………先生が…いないのに………っ………オレが、先生の代わりに…やらなきゃいけな
いのに………っ…)
「…クソ、何で………っ………」
カカシが手首を縛めている紐を外そうとやっきになっているところに、扉を開けて初老の
医師が入ってきた。
「おお、目が覚めたか。…こらこら、暴れちゃいかん。傷に障るし、手首を傷めるぞ。…
……まったく、括りつけておいて正解だったな」
カカシはギロリと医師を睨む。
「アンタか………こんな真似しやがったのは。何のつもりだ」
ふう、と医師は息をつく。
「いいから、その攻撃的な気を何とかせんか。廊下までダダ漏れで、看護師達が怖がって
おる」
「ふざけるな。オレを怒らせてるのは、誰だ」
「まるで毛を逆立てて威嚇する猫そっくりだな。………まあ、そう思うと可愛いものだが」
カカシの怒気が膨れ上がった。
「いくら石榴先生でも、これ以上オレを侮辱する気なら殺すぞ」
石榴はフ、と眼鏡の奥の眼を和ませた。
「結構、私がお前さんの主治医だということは覚えているようだね。…自分の名前は?」
それは、意識を回復した際に必ず聞かれるお決まりの質問だったので。カカシは仏頂面で
仕方なく返答した。
「………はたけ、カカシ」
「所属は?」
「木ノ葉第二次北方派遣戦闘部隊、第八中隊」
当時、木ノ葉には八つの大隊から成る八葉と呼ばれた精鋭の戦闘部隊があった。
その中でも第八中隊は常に一番の激戦地での戦闘を強いられていたが、奇跡的に生還率が
高く、また不敗を誇る伝説的な部隊であり―――その隊長を務めたのが、弱冠十四歳の少
年(実際は少女)、カカシだったのである。
故に、『写輪眼のカカシ』の名も後に伝説となり、畏怖と崇敬の対象となった。
「………なるほど。…確か、君は隊長だったね? カカシ君」
「それを知っているなら、この戒めを解け! オレは戻る」
石榴は穏やかに微笑んだ。
「…まず、言っておこう。…君はもう、戦地に戻る必要は無い。戦いは終わっているのだ
から」
カカシは驚愕に眼を見開いた。
「………オレは………そんなに長く…意識を失って………?」
カカシの感覚では、少なくとも後一ヶ月はかかる戦闘のはずだった。そんなに早く終結す
るはずがない。
「…そうだね、それに関しては、ちょっと込み入った話をしなければならない。君が、大
人しく話を聞くと約束するのなら、その拘束は解くよ」
カカシは唇を噛み、しぶしぶと頷いた。
「…わかった。この部屋から逃げようとしなければいいんだろう?」
「そう、大人しくベッドにいてくれないと、話も治療も出来ないからね」
「わかったってば! 大人しくベッドにいる! だから解いてよ、先生。…こんなのは、
嫌だ」
「いい子だね」
石榴は軽く印を結び、札を無効化した。ハラリと札が床に落ち、同時にカカシの手首を縛
めていた紐も緩んで自然に解ける。
「………どうぞ、三代目」
石榴の呼びかけに、扉の陰から三代目が姿を現した。
「………三代目………?」
カカシは、何処となく違和感を覚えた。実を言えば、石榴に対しても似たような違和感は
あったのだ。それを追求しなかったのは、自分が知らぬ間にベッドに拘束されていたとい
う事実の方が、より大きな問題であったに過ぎない。
「…やれやれ、紅の報告通りのようじゃのう………」
石榴は声を落として三代目の耳元で囁いた。
「記憶が混乱しているというわけでは無いようです。…本当に、その頃に戻ってしまって
いる。あの北方国境の大戦が、この子の『今』なんですよ」
「………そうか、八葉の頃のカカシか」
三代目はゆっくりとカカシのベッドに近づいた。起き上がろうとするカカシを、片手で制
する。
「…よい、寝ていなさい。無理をしてはいけない」
「三代目…? 本当に…あの戦闘は終わったのですか?」
三代目はハッキリと頷いてみせた。
「うむ、お前達が随分と頑張ってくれたからの。………里は守られた。よく、やってくれ
たのう。………里の人々も皆、感謝しておるよ」
はあ、とカカシの身体から力が抜ける。
「そう………ですか。…良かった………」
「カカシ」
「…はい」
三代目はそっとカカシの手に自分の手を重ね、慈愛のこもった眼で彼女を見た。
「お前にな、大事な事を話さねばならん。………落ち着いて聞いておくれ」
カカシは不安そうに瞳を揺らす。
「な…んでしょう………?」
「…お前は、今の自分の身体が、どこかおかしいと思わんか?」
「………え…………」
三代目は、重ねて問う。
「記憶にある、自分の身体か?」
カカシは空いた方の手で自分の頬を撫で、それから胸に手を当て―――愕然とする。
「………オ…レ…?」
自分には、こんな乳房は無かったはずだ。痩せていて、胸など申し訳程度にしかふくらみ
が無くて。こんな風に仰向けになっていたら、本当に少年と変わらないような胸のはずな
のに。
今、手に触れる胸には、柔らかくてある程度の重みを持った乳房があった。大人の女性の
身体だ。
カカシは唇を震わせた。
「………三代目………? オレに、何をしたんです………」
「だから、落ち着けと言ったはずじゃ。………お前はもう、十四の子供ではない。二十六
の大人だ。………お前の言っておる北の国境の戦いは、十二年前の出来事なのじゃよ」
『嘘』、とカカシの唇が動いた。あまりの事に、声が出ないらしい。
「お前は、三週間ほど前に前にある任務で波の国へ赴き、敵に襲われた。………そこで、
その敵に術を掛けられたのだ。…そいつは、お前の持っている忍としての能力を奪い取ろ
うとした―――らしいのだな。その術が成功したのか、中途半端なまま終わったのかは、
わからんのだが。……結果として、お前は十二年分の記憶を失ってしまっている。………
記憶のみを失ったのか、十二年の間にお前が身につけた術や技も一緒に奪われたのか。…
……いずれにせよ、少々厄介な状態になってしまったのじゃよ」
カカシはシーツを握りしめ、三代目の顔を凝視した。
「………その、敵…は」
ハ、と三代目は息をつく。
「お前自身が始末したのだと、聞いておる。相手の術に逆らい、阻止しようとしたのじゃ
ろう」
「………………オレ、が………」
カカシは視線を彷徨わせ、三代目の後ろにいる医師と、三代目を虚ろな眼で見た。
そして、違和感の正体に気づく。
カカシの記憶にある二人とは、違う。ほんの少しだが、老けていたのだ。
二人とも、時の流れが緩やかになった年配の男性なので、十二年と言う歳月がもたらした
変化が若者ほど顕著ではなかったものの、やはり外見には多少老いが表れていた。
「………わしの話を信じられたかの? カカシ」
カカシは緩慢に首を振った。
「………………じ……られ、ない…………」
今、実際に目の前に居る三代目と、自分の主治医の外見に時の流れを見出せても。
己の身体が記憶とは異なっていても。
今のカカシは、十四歳までの記憶しか持たない。彼女は『昨日』まで、国境の戦場にいた
のだ。いきなりお前はもう二十六なのだと言われても、すんなりと受け入れることなど出
来るはずもなかった。
「………そんなバカな話があるか…っ!」
カカシはそう叫びざま、ベッドから飛び降りた。
薬で眠らされていた所為で、全身の筋肉が弛緩しており足元がふらついたが、すぐに裸足
のまま扉に向かう。
カカシが扉を開け放つと、そこにはちょうど大柄な男が立っていた。
「おっと、何処へ行くんだお前」
男の脇をすり抜けようとしたカカシは、あっさりと行く手を阻まれてしまった。
「放せ…っ」
「おいおい、俺がわからんのか? カカシ」
カカシは男を見上げ、何回か瞬きをした。
この、眼には覚えがある。
―――…十二年。
自分の知っている男が十二年齢を重ねたら、目の前にいる男のようになるのかもしれない、
とぼんやりカカシは思った。
「―――まさ…か………アス、マ………?」
アスマはニッと笑う。
「おう、良かった。…ちゃんとわかったみてえだな」
ペタン、とカカシはその場に座り込んでしまった。
「お、おい…大丈夫か、カカシ」
三代目、石榴医師、アスマ。
知っているはずなのに、知らない男達。

いつの間にか過ぎていた、十二年の年月。

俄かに、恐怖にも似た感覚に襲われ、カカシは両手で頭を抱えて絶叫した。
「…………嘘っ………嘘…………うそぉおぉぉぉ………っ………」
 

      

 



 

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